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ひっしにいきること
海の木馬の稽古が始まった。
現代劇のぬるま湯に浸かっていた俺は、稽古初日からへとへとだ。
個人に都合の良い世界を生きているから、意志がなければ、身体は鈍るよね。
まあどんな意志が必要だというのか、わからないから中身がない。相変わらずだ。
中身ないのはとてもおもしろいからいいね。
行為にとらわれてしまうのは、1940年代の魂がまだ掴めてないからだ。
役者は悩める力が必要だと再認識している。
そして日常には、悩まない力も必要だ。
稽古場までの大学生送迎を担う事になり、語らう機会をもらう。二十歳前後の人間と話せるのはとてもおもしろい。
時代が変わった、価値観が変わった、そもそも環境もシステムも違うから新しい別世界を見られるのかと楽しみにしてみたが、まだ少し話しただけだが、俺が二十歳の頃となんにも変わらないな。
ただ、利口でいられる準備はしっかりしてできる感じがして、脆さをひしひしと感じた。
態度は自信たっぷりなのにな。
しかし若さは、とても美しいな。
そうそう、また海の木馬の話しになるが、俺は上官役だ、隊長だ、清く正しく死ねと決められている。
ただ人間は木より早く死ぬ。
人間には人間同士の順番がある。
それが狂うのは、誰かの悲しみにもなる。
誰かの苦しみにもなる。
そういう社会生活の輪を繰り返し、そこから抜け出して別の輪にはいけないくらい、日本人の想像力は成長していない、そんな気がしている。
原生林がほとんどないこの国では生命力が曖昧な感覚があるよ、なんでそんな感覚なのかはわからないけど。
そういえば近所には原生林保護をしている小さな山がある。
頂きには神社の御神体がある。
幽霊やらお化けはよく見た事あるが、神や仏の姿は見た事ない。
いやいや、その変にある木、石、水が神です。
ちがう気がする。
神を必要とするのは人間だけだ。
神は自分に似せて人間を作ったという話もある。
という事は
神とは自分で、自分の姿を、自分の顔を肉眼では見れないから、神を見ることは叶わないんだ。
鏡にうつる自分が本物なんて違うだろ?
触っても平面、手を合わせても体温がないんだから。
神風、神風特攻隊、軍神、あー、感覚が掴めない。
というわけで教育勅語を読んでみるという事を思いつく。
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最近はすごいね、検索すればすぐ手に入る。
しかし、熱も匂いも重さも感じない。
だけど、読める。
知るはできる。
わかる事はできるだろうか。
死を選択すること、当たり前に死ぬのでなく選択すること、その状況で生きること、ひっしに生きる、必死、必ず死、日本語ってすげぇな。
必死に生きる