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【短編小説】図書室の君


見知らぬ街から小包が一つ届いた。
宛名の欄には懐かしい文字が並んでいる。
すらすらと迷いなく
封筒の上に寝かせられたその線たちは
丁寧なとめ・はね・はらいが施されていて
横一列にお行儀よく並んでている。

小包を開けると
1冊の文庫本と、そこに手紙が添えられていた。
手紙の書き出しはこうだ。
『さっそくだけど今から少し、
僕の見ていた世界の話をするね』
頭語も時候の挨拶もすっ飛ばしたそれは
いつも突飛で少し強引な、彼そのものだった。



大学時代の私は、いつも本を読んでいた。
いや、大学時代の私も、だ。
二人姉妹の姉として育った私は
物心ついた頃には、両親の興味が
愛嬌があって出来の良い妹にあることに気が付いた。
何かにつけて妹と比べられるのが
嫌で仕方なかった私はいつも、
耳と目を塞ぐように、本の世界へと逃げ込んだ。

本の世界は素晴らしい。
手のひらサイズの紙束の中には
無数の物語が存在していて、
ページをめくって物語を進めるも止めるも、
すべて私の指次第。
この分厚い紙束の中の世界までは
誰も追っては来ない。
私だけが掌握できるこの世界こそが
唯一の居場所のように思えた。

大学生になり、
大学の図書館バイトを始めると、
本に囲まれるという恵まれた環境のお陰もあり
私の逃避癖はさらに加速していった。
業務内容といえば、本棚の整理や
学生の本の貸出・返却システムの管理、
たまにある新書の取り寄せ作業くらいで
基本的には暇が多い。
ただ静かに座って本を読む、
この時間が私の至福なのだ。


「あの、すいません」
「………あ、はい。いかがされましたか?」
すっかり小説を読み入っていた私は心此処にあらず、
仮にもバイト中であることをすっかり忘れていた。
木製のカウンターの向こう側には、
どうにも教科書が入っているとは思えない
薄っぺらいトートバッグを肩にかけた男性が
2冊の参考書を片手に持って立っている。

「この本借りたいんですけど」
「貸出でしたら、あちらのパソコンからお願いします」
「いやその、今日学生証忘れちゃって…」
彼は少し苦笑いを浮かべ、本を少し持ち上げる。
「あ、そうなんですね。
それでは手書きになりますが
こちらの用紙にお名前と学籍番号、
念のため携帯番号も書いて提出ください」
「はーい。あ、ペン借りれます?」
「どうぞ」

彼はペンを手にするや否や
私の目の前のカウンターにしゃがみ込んだ。
手を伸ばせば髪の毛に触れてしまうほどの
あまりに想定外の至近距離と、
微かに甘いチョコレートのような
優しい匂いに包まれた図書館には
少し不釣り合いな爽やかな香水の香りは
私の鼓動のリズムをかき乱した。

そんな動揺を抑えるために
私は首の向きを左斜め前に向け
彼から目線を外して、
すらすらと書き上げる彼を待った。

「じゃあ、これでお願いします」
彼はペンの持ち手と用紙を私に向けて差し出した。
「はい、ありがとうございました」
「この番号に電話かかってくることあります?」
「万が一、返却が遅れた際などには
電話させていただくこともあるかもしれません」
「じゃあ、お姉さんからの電話待ってますね」
「…え?あ、はい?」
彼はにやりと笑い、すたすたと歩いて
図書館を去っていった。
顔が紅潮するのが分かった私は
平然を装って、残された用紙に目をやった。
そこには、失礼ながらも
さっきの彼が書いたとは思えない
丁寧で達筆な文字が並んでいる。
当時3年の彼は、私より1つ上の学年だった。


それからというもの、
彼は定期的に図書館のカウンターに来て
用もないのに話しかけてくるようになった。

「何年生なの?」
「どこの学部なの?」
「何の授業取ってる?」
「この辺で下宿してるの?」
毎回の彼の質問攻めに対し、私は毎回淡々と答える。
私の平穏だったあの日々は、
彼の突然の登場によりどんどんかき乱されていった。

「今日は何の本読んでるの?」
今日もカウンターにしゃがみ込み
私の目の前で頬杖をつく彼は
ニコニコと笑いながら問いかける。
「秘密です」
「なんでなんで!そのブックカバーの内側に、
そんなやばい本が収まってるの??」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
「えー、じゃあ教えてよー」

しつこく絡んでくる彼にしびれを切らし
少し語気を強めて私は言った。
「私が読んでる本の題名なんか知って
おもしろいですか?」
すると彼は優しく微笑みこう返した。
「うん、おもしろいよ?
だって、君の見てる世界のこと
もっと知りたいから」

彼だけだった。
分厚い紙束の中の世界まで
私を追いかけまわして
私のことを知ろうとしてくる人は。
家族を含めた大抵の人は
何も話さず一人黙って本を読む私を
腫れ物のように扱って
興味をもって話しかけてくることなど
一切してこなかった。

それでも彼は図々しくも
私の世界に割り込んで来ようとする。
そんな強引な彼のことを
どうにも嫌いになれない自分がいて
いつしか彼が図書館へ来るのを
心待ちにするようになった。

彼に会えない日々は、ラブソングならぬ
恋愛小説を励みに生き延びた。
いつしか、恋物語のページをめくる指は
もう止められなくなっていた。


そんな彼との図書館でのカウンター越しの逢瀬も
彼の就職活動の開始により
徐々に頻度は落ちていき、
あっという間に彼の卒業式の日が来た。

結局何も想いを告げられないままの私は
とうとう居ても立っても居られなくなり
1冊の本を片手に思い切って
カウンターを飛び出す決心をした。

正門あたりを探していると
スーツ姿で仲間たちと笑い合う彼を見つけた。
しかし、途端に少し怖気づいて
離れた場所から見つめることしかできなくなった私に
彼の方から声をかけてくれた。
「来てくれたんだ!」
「はい。あの、卒業おめでとうございます」
「ありがとね。4月から東京で働くんだ」
「あ、そうなんですか…」

これから彼が都会で見る、
新しい世界はきっと眩しいのだろう。
そしてそこに、私はきっと登場しない。
それでもあの時、彼が私の物語へ
強引に飛び込んできてくれたおかげで
私は人生で初めて、
物語の主人公になれた気分だった。
そんな彼に、どうしても渡したかったものがある。

「新生活の門出に、これどうぞ」
「え、この本くれるの?」
「いえ、あげないです。
私のお気に入りなので、貸してあげます」

三島由紀夫作『夏子の冒険』
私の大のお気に入りの小説だ。
魅力的なわがまま娘の夏子が
情熱的な輝きを放つ青年と出会い
ひと夏の恋をするこの物語は
恋愛小説に見えて、実はそうではない。

「この小説の主人公に私憧れてるんです。
これが、”私が見てる世界”の一部です」
彼は大事そうに本を手に取り、私を見つめた。
「ブックカバーの内側の世界、
やっと教えてくれたんだね」
「他の誰にも内緒ですけどね。
本の返却期限は定めません。
延滞はないので、電話もしませんよ」
「ありがとう。大事に読ませてもらうね」
「さよなら。よい人生を」

図書室のカウンターを飛び超え桜の木の下、
微笑み合う二人のシーンは
とても春らしく爽やかで、
どうにも失恋物語の結末には思えなかった。



『さっそくだけど今から少し、
僕の見ていた世界の話をするね。

図書室のカウンターの向こう側に
初めて君を見つけた時、
僕は初めて一目惚れをしました。

本のページを大事そうにめくる指は
白くて細くて繊細で
背筋をまっすぐ伸ばして
一人静かに本を見つめる君は
とても綺麗だった。

薄化粧の頬がたまに上を向くから
いま君は、さぞ面白い物語の中に
いるんだろうなあと思っていたよ。

真っ直ぐに伸びた眉毛の間に
深い溝が3本できるから
いま君は、さぞ難しい物語の中に
いるんだろうなあと思っていたよ。

眼鏡の奥の瞳が少し潤んでいるから
いま君は、さぞ悲しい物語の中に
いるんだろうなあと思っていたよ。

君を見つめるほどに
君の見ている世界を知りたくなって、
一冊の本もまともに読み切ったことのない僕が
あんなに図書室に通った理由は、
紛れもなく君でした。

夏子の冒険、何回も読ませてもらったよ。
君の世界はあんなに面白かったんだね。
一筋縄ではいかない主人公の夏子が
どうにも君と重なって
ページをめぐる手が止められなかった。
もっと君の世界を知りたいと思った。

平凡な僕の人生の物語には
銃を片手に熊狩りに行くなんて
そんな劇的な展開は
残念ながら待ち受けていないだろうけど

もしまだ間に合うなら、
僕の人生の物語の
ヒロインになってくれませんか?』


そう締めくくられた手紙を
私はゆっくりと閉じた。


そしてちょうどここまでが、
二人の物語の序章になるのであった。


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