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暗闇で映画を観るという営み

主だったイベントも無い、というか無くなった
9日間の夏休みを過ごしている。
密かに計画していた実家の田舎に帰る予定も
幾度目かの宣言の発令で断念した。
さて、こんなに時間の有り余る
贅沢で優雅な連休をどうやって過ごそうか?

大丈夫。私の側には、映画がいてくれる。
無数の物語に手が届く世界に私は生きている。
手のひらに収まるスマホから、
自宅の壁一面に広がるプロジェクターから、
少し街に出れば映画館からだって、
私は無数の物語へのアクセスを持ち合わせている。

趣味は何かと聞かれると、
ありふれたつまらない回答だとは分かりつつ
映画鑑賞だと答える私は、
それなりに映画にこだわりや敬意を持っている。
様々な映画サブスクリプションがあるこのご時世に
映画館という暗闇に一人で赴き、
一切の雑音を遮断して物語の世界に没入すること。
これが私の映画という存在への
こだわりと敬意、愛情表現である。

暗闇の中、スマホの電源を消して
自分の心と体を日常から切り離して
静かにシートに腰掛ける。
自分は人にどう観られているか、
そんなことを気にしながら生きる私は
映画の世界に没入している自分を
客観的に他者に見られたく無いという意識から
決まって一番後ろの席を予約する。
コロナ対策のお陰もあり、
両隣には誰も座らない私だけの空間が
少なくとも半径1m弱に広がって心地よい。

デートとして映画を観に行くのも
別に嫌いな訳ではない。
しかし、上映中にうとうと居眠りをしたり
エンドロールもそこそこにスマホを眺めたり
終了後に妙な映画批判をされたり
そんなことを隣でされると
映画という芸術に敬意を払う身としては
相手に勝手にがっかりして減点に繋がるので
あえて選びたくはないデートコースになっている。

映画の歴史は19世紀後半から始まったらしい。
もともとは写真技術の応用として
より景色をリアリティある描写にするための
写真を連続させた数分間のショートフィルムだった。
きっと、初めて映画というものを観た人々は
動く写真に腰を抜かして驚いたことだろう。

そこから、その動く写真に物語や役者が加えられた
サイレント映画へと進化して
音やセリフ、音楽を添えて今の映画の形が完成された。

今でこそ、誰もが持つスマホから
簡単に動画撮影ができるようになったが
そんな技術のない当時は、
四角い画角の中で一つの世界を表現するため
想像もできないほどの工夫が施されている事だろう。

そんな歴史の恩恵を受けて、今も尚
世界の映画界はどんどん進化を遂げている。
CG技術を駆使した目を見張る映像美を表現したり
数時間のワンカット撮影で1発撮りで
役者のリアルな表情や偶発的事象を作品に仕上げたり
物語に様々な伏線を散りばめて、一度の鑑賞では
物語の真髄は理解しきれない仕組みを作り
もう一度観客を映画の世界に戻るように仕向けたり。
作品の数だけ映画人のこだわりが垣間見れて
それもまた私が映画鑑賞をやめられない理由の
一つになっている。幸せな悲鳴だ。

なんにせよ、とにかく私にとって映画は
確実に生き甲斐の一つであり
死ぬまでこの営みをやめない人間でありたい。

今日も空に青色と白色が爽やかに広がっている。
夏休みらしい空の下、私は一人暗闇に向かう。
現実のうまくいかない事柄も2時間は忘れて
スクリーンの先に広がる色鮮やかな世界に没入する。

コロナ禍により危機に瀕する映画界を
どうすれば救えるのか。
決して大それたことはできない私は
素晴らしいと思う映画に1900円の対価を支払い
いつも隣にいてくれる、映画を愛する。

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