大切にしたいのは、世界をじっと黙って見つめることができるような、そのようなことばです。 「すべてきみに宛てた手紙」長田弘
雁 啼 く や 炭 焼 小 屋 に 斧 ひ か り 馬 の 目 に 光 し づ も る 秋 野 か な 台 風 の 夜 炯 々 と 皮 膚 を 縫 う 花 婿 は 席 に 戻 ら ず 白 薔 薇 空 さ み し う す も み じ し て ち る と き も
子供の頃から四十歳手前まで、一貫して同じ美容室に通っていた。かれこれ三十年ほどになる。担当者もずっと同じHさんだった。若い頃は松田聖子にそっくりの美人だった。後年は気さくなおばさんになった。 この美容室はその昔、母親が通っていた店だった。小学生のときに僕がそれまでのスポーツ刈から真ん中分けにしたいと言いだして色気づいたので、母は自分の担当のHさんに電話で根回しをして、僕の美容室デビューをお膳立てた。はじめての美容室は事前に母から髪型の要望を伝えてあったので、僕はちょこん
銀行をいくつかはしごする用事があった。街中ではテンポよく処理したものの、最後の一件は街外れにあり遠い距離を歩いた。夏の蒸し暑い日だった。 店舗に着いて自動ドアをくぐると、入り口にシャッターが下りている。奥は無人で薄暗い。平日なのに休みなのだろうか。不思議に思いつつ、入り口に立ててある札を読むと、「午後は十三時から営業します」。 昼休みのある金融機関は初めてだった。開店までたっぷり一時間ほどある。一旦帰宅するには短すぎるし、ここで待つには長すぎる。どうしようか逡巡してい
残 菊 や 永 遠 に 出 逢 わ ぬ 吾 と 吾 秋 の 川 鬼 に も 仏 に も 会 わ ず 宵 闇 に 星 を 並 べ る 力 あ り 秋 蛍 自 問 自 答 の 光 か な 秋 の 字 の 火 は あ た た か し 栗 を 抱 く
秋がくると 空気がしんみりとやわらかくなる じぶんがじぶんにひたりと かさなるような気がする 人生が肌へしみとおるようなここちがする こころがレールの上をすべりだす あたらしいことをはじめたくなる 子犬みたいに駆けてみたくなる じぶんに似合わないしあわせなんぞ 試着してみたくなる 神さまがちょいと横をむいて よそ見をしているような季節だ
昨晩は早めに床へ入った。枕元にはカンテラと文庫本が置いてある。いつもの習慣で寝る前にすこし本を読んだ。今読んでいるのは内田百閒の小説だ。不気味な百閒の世界観は何度読み返しても引き込まれる。幽霊や殺人鬼など、恐れる対象が明確な物語よりも、現実世界の亀裂から目に見えない不穏な気配がひたひたと迫ってくるような不気味さにかえって戦慄を覚える。 早めに床に就いたためにいつになく多くの頁をめくった。そうしていつしか眠っていた。 未明にふと目が覚めた。なにか気味の悪い夢を見ていたよう
夕方に鳴る五時の鐘は、遊び盛りの子供にとって憂鬱な響きだった。どんなに夢中になって遊んでいても、鐘は時間がくれば残酷に響いて、友達との間を引き裂いた。茜色の夕映えに染まって家に帰るとき、路面へ自分の影がうしろに長く伸びるのは、駄々をこねるもう一人の僕を引き摺るようだった。 五時の鐘に合わせて母が遊び場まで迎えに来ていたことがある。鐘が鳴っても母が来るまでは遊んでいられる。まだ来るな、まだ来るなと念じながら、そのわずかな猶予を、いとおしむように遊んだ。 母の姿が見えると
「かつてはその人の膝の前に跪(ひざまづ)いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊厳を斥けたいと思うのです。」 -『こころ』夏目漱石 自分には、かつてその人柄を尊敬し忠誠を誓った仕事上のリーダーがある。しかしある時その人物は、とある関係者のミスを、より地位の低い自分にかぶせ、手間と時間を節約しようとした。 そのリーダーのために労力を惜しまず貢献してきた自分は、彼の無慈悲な仕打ちに憤慨した。忠誠心の強かっ
花 街 や ち ん と ん し ゃ ん と 秋 の 雨 満 月 に い ち ば ん 近 き 喫 茶 店 と も だ ち が 北 へ 帰 る よ 大 花 野 信 長 は そ の 後 も 生 き て 秋 扇 い く つ も の 栗 あ ま ら せ て 旅 終 わ る
はるの かわへ ひとかけら ながしてください なつの うみへ ひとかけら ほうってください あきの みずうみへ ひとかけら しずめてください ふゆの うすらいの したへ ひとかけら かくしてください あなたの てのひらから ひとつのこらず すてさってください あなたの ほほをつたって わたしは 大地にかえります
久しぶりに会った旧友と、二人で飲みに出かけた。雑居ビルの狭い通路に赤提灯の並ぶ、おでん横丁へ繰り出した。週末の夜とあってどの店も満席だった。 一ヶ所だけ、まだ暖簾を出したばかりと見えて、客の入っていない店があった。その暖簾をくぐった。カウンターに腰掛けてビールとおでんを注文する。店主は恰幅の良い老婆で、白髪の汚く混じった頭がボサボサに伸びほうけている。まるで魔女のようだった。 魔女は火を入れたばかりの鍋へおたまを差し入れてゆっくりかき混ぜると、おでんをしゃくって小皿
自分は駅の歩廊のベンチに腰掛けて、汽車が来るまでの間、 小さな本を開いている。汽車が到着したら自分は本を閉じて 乗り込まなければならない。 ときどき顔を上げて目の前を往来する群衆を眺める。自分 にとっては背景に過ぎないこの人々にもそれぞれの行き先が あり、それぞれの人生がある。それは背景というにはあまり に重く切実な存在である。しかし群衆にとっては自分もまた 背景に過ぎない。 自分は本に目を落とし頁をめくる。あと何頁読み進められ るだろう。しかしそれはどうでもよいことだ
中学生のときの国語担当はA先生という中年女性だった。下膨れのした巨大な顔面を化粧で真っ白に塗りこくって、いつも不機嫌にぶすりとし、横長に切れた細い瞼の奥から軽蔑すように私たちを見下ろした。ちょうど能面の増女(ぞうおんな)を象の足で踏み潰したようなお顔だった。 高圧的でふてぶてしい態度と相まってその風貌は、当時の正直な印象を言えば“怪物”だった。しかし今は礼儀をわきまえた大人として、善良なる教員に対して怪物呼ばわりするのは失礼であるので、ここではその称号は必要最低限に自制
理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。-「山月記」中島敦 殺風景な塀の内を虎が歩いている。それをガラス越しに客が見ている。客はおおかた家族連れと若い男女だった。虎は塀の壁に沿って周回している。ガラスの前を過ぎると歓声が上がる。携帯電話をかざして写真を撮る。虎は、同じ道筋を同じ速さで、機械のように周り続けていた。 ガラスの前に小さな子供が二人座っている。兄弟のようだった。兄弟はガラスを背にして並んでいる
ドラッグストアで買いものをしていると、にわかに騒々しい雰囲気を感じました。そのほうを見ると、男の子が母親に駄々をこねていました。男の子の駄々は悲壮で鬼気迫るものでした。母親は困ったような、怒ったような顔で、ひとりで先へすすんで買いものをしていました。取りのこされた男の子は地べたに座りこみ、力いっぱい泣きわめきました。 そこへ買いものカゴをさげた年配の女性が通りがかりました。女性は男の子をなだめはじめました。けれど男の子に女性の声はとどきません。男の子は床に寝転んでしまっ