わたしは脳で葬儀を感じた【エミリ•ディキンスン#280】
昨夜のあたしの夢は、小さなキューブの中に閉じこもる芸人が出てきた。カラフルな小さなキューブに自分を押し込めて、両手を穴から出してギターを弾いていた。なんでそんな小さなBoxに入るの?夢は心の鏡、今のあたしの気持ちを反映しているのだろう。だがしょせんは夢は夢だ。忘れるに限る。
なかなか忘れられないのが、孤独の詩人エミリ•ディキンスンの悪夢から生まれたような次の詩である。
I felt a Funeral, in my Brain,
And Mourners to and fro
Kept treading — treading — till it seemed
That Sense was breaking through —
And when they all were seated,
A Service, like a Drum —
Kept beating — beating — till I thought
My Mind was going numb —
And then I heard them lift a Box
And creak across my Soul
With those same Boots of Lead, again,
Then Space — began to toll,
As all the Heavens were a Bell,
And Being, but an Ear,
And I, and Silence, some strange Race
Wrecked, solitary, here —
And then a Plank in Reason, broke,
And I dropped down, and down —
And hit a World, at every plunge,
And Finished knowing — then —
(J280)
「わたしは脳で葬儀を感じた」で始まるこの詩は、自分が死んで参列者たちがやってきて、鐘が鳴らされて、棺をかつぐひとびとが出てきて…という内容である。識者によればこの詩はエミリが31歳の頃書かれたもので、当時は詩作を雑誌に出し、目標とする詩人が死に(Elyzabeth Barrett)、敬愛する牧師(Charles Wadsworth)との出会いと別れがありと、精神的に追い詰められた「死の恐怖」を描いたものだという。
そうだろうか?あたしはこの詩に出てくる命が二つあることに気づく。ひとつはBrain、もうひとつはSoulである。Brainは葬儀を「脳の中」で感じる。Brainとは知ること、意味を感じることである。靴音や棺桶のきしみ、教会の鐘で恐怖を感じとり、意味づけをする。
一方Soulはボディである。棺桶のフタが閉じられ、棺桶持ちが持ち上げて、靴音鈍く墓場に向かう。見送りは鐘の音だ。Soulは葬儀を「からだ」で感じる。Soulとは痛みであり、滅びである。ただ無くなっていくものだ。
ではBrainはどう消えていくか?それが四連と五連に描かれている。
音との追いかけっこである。四連で音は静寂と追いかけっこしたあげく、孤独のなかに消えていく。五連では理性を保つ〝板〟が壊れ、ついにBrainの落下が始まる。どこまでも落ちて、止まる。そこで詩人の脳は停止する。
どうやら「詩人は二度死ぬ」。さてそこでこの詩を訳してみよう。
わたしは脳で葬儀を感じた
来ては去る参列者たちは
どっか どっかと足音たてて
脳天つんざくガサ入れか
参列者たち皆がすわって
儀式が始まった ドラムが
タタン タタンと響いて
わたしの心は麻痺状態
次はひつぎを上げる音だ
わたしの魂はつんざかれた
またしても鉛の深靴の音だ
これにて葬儀場はお開き
天国とは鐘の鳴るところ
我が身は耳だけになり
静寂と変な競走をしたあげく
砕けてひとりぼっち
理性のプレートが壊れると
落ちる 落ちるどこまでも
世界のあちこちに当たりながら
知ることを停めたー脳ー
(りり〜郷訳)
詩人はからだの死を冷徹な眼差しで描き、脳の死さえ見つめているのだ。詩を謳う脳とはなんと強いものだろうか。
エミリは、孤独のさなかでも死に瀕しても、死をじっと見て描くひとなのだ。そうでなければ死のことを詩人は謳えない。いわんや生のことを謳えない。エミリはあえておのれを孤独に追いやっていたのだと思う。何のために?もちろん人の生と死の極限を詩で表現するために。
あたしもまた性転換の意味を書くために、自分をトランスジェンダーに追い込んでいないとは言えない。
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