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『別れる理由』が気になって 2024/08/21(p.426)#99

坪内祐三『『別れる理由』が気になって』を読みおえる。講談社文芸文庫。久しぶりに素晴らしくエキサイティングな読書で未だ興奮が醒めない。読書は、〈小説〉はやっぱり面白えなあ。

黄色い本は名著が多い、て誰か云っていたような。
まさに名著!

 小島信夫の『別れる理由』は気になる小説である。私はずっとその小説のことが気になりつづけていた。

p.9

連載十二年半、余りに長く、余りに難解で、読んでいるのは作者と編集者の二人だけ、いや、そこに小説の主人公も加えた(!)三人だけと云われた小島信夫『別れる理由』を読んでいく評論、と云うよりもはやこれは〈小説〉である、と解説の小島信夫(!)も云っているではないか。

 私はこの小説のことを、この小説に描かれる「テーマ」をわかったつもりでいた。その「テーマ」を自明のものとして、友人と、この作品について語り合ったこともある。だがその「テーマ」はこの小説にとって、ごく一部分であることに過ぎない、と、私は、今回の再読で知った。

p.22

長大かつ難解、メタフィクショナルでポストモダン的なメガノヴェルを、著者といっしょに読んでいく。それはそれは愉しく読めたが、原典はちょっと難しそうで、読めるかなあ、読みたいような読みたくないような、そんな気分だから、伴走者がいるのは有難い。心強い。気になって、引っ張られ、読めそうな気がしてくる。と云うかもはやこれは「読んだ」と云っていいのではないか。

『別れる理由』はそういう時代との「同時代」性を持った尖端的な作品であるのだ。しかも、小島信夫は、例えばその勉強﹅﹅振りをすぐに作品に反映させる大江健三郎や安部公房らと違って老獪だから、それを明らさまに見せつけない。文章もごく普通の散文である。だから、ごく普通にその意味をたどって行こうとすると、いつの間にか、多重的そして多元的な意味の迷宮にさ迷い込んで行くことになる。だがその迷宮感覚はけっして不快なものではない。そこにこそ一つの、小説を読む喜びがある。

p.206

これを読んで何かを論じることは僕にはできない。けど、現代文学ってやっぱり面白いなあ、また文芸誌とか読みたいなあ、気になるなあ、と云うくらいである。

誰が話しているのか、主語がわからなくなる感覚は『源氏物語』的だし、後半で盛んに議論される、小説における〈断片〉と云うテーマは、さいきん読みはじめた川端康成的でもあって、一見すると英米文学風の小島信夫も、やっぱり日本文学なんだなあ、なんてことをおもったりする。この〈小説〉の後半(の連載時)に登場する村上春樹は、小島信夫もときにその一員と称される「第三の新人」リスペクトだけれど、小島信夫こそいま読むべき最重要作家なのでは、とおもわされる。

(『別れる理由』の)作中に登場する「柄谷行人」が「若い批評家」と云われているのを読んで、人物たちの年齢が気になり調べてみる。だって柄谷行人てもはや重鎮じゃん、それを若いって。そりゃ僕の生まれた頃にようやく完結した小説なのだから、当たり前と云えばそれまでなのだけれど。

後半のパーティが催される(とされる)1978年当時の年齢をみてみると、作者小島信夫は63歳、藤枝静男71歳、森敦66歳、柄谷行人37歳である。37歳!いまの僕(41歳)よりも年下ではないか。『別れる理由』をほぼ唯一批評(批判)した『自由と禁忌』を書いた、と云うことはそこそこちゃんと読んだ江藤淳はこの時46歳、因みに本作とは直接関係がないが、この翌年に『風の歌を聴け』で群像文学新人賞を受賞し颯爽とデビューする村上春樹は29歳である。たしか『ジョーズ』を撮ったときのスピルバーグも29歳じゃなかったっけ。

著者の坪内祐三はこのとき20歳で(僕の母と同い年なのね)、『『別れる理由』が気になって』の連載をはじめた2002年には44歳だから、『別れる理由』における「柄谷行人」よりはやや年が上だが、江藤淳よりは僅かに若く、まだ「若い批評家」と云っていいのではないか。

2024年のいま僕は41歳で、この『『別れる理由』が気になって』を読んだ。『別れる理由』と『『別れる理由』が気になって』と、それを僕の読んだいま、それぞれの間には二十数年ごとの開きがあって、でもいつも四十代くらいのひとたちがそれを読んでいる、と云うのは、偉大な批評家たちに自分も含めてしまうのはおこがましいかぎりだけど、何やら不思議な感覚に襲われる。

僕の話のついでに云えば、職場で時たま本の話をする先輩の女性Sさんは、ちょうど僕のひと回り年が上なのだが、『別れる理由』の連載されていた期間は、僕とSさんの生まれた年の間の年月とほぼ一致する。Sさんに『別れる理由』の話をしてみようかな。ちょっと背景が複雑すぎて、巧く説明できそうにないのだけれど。

 第117章では、座談会の連想から、人間関係における「三人性」について考察される。「誠に腹立たしいほどこの三人とか三つとかいうものによってそこに世界が出来たように思えることだけはまちがいない」。
「腹立たしいほど」にと言うように、「私」は、この「三人性」の正しさを完全に認めているわけではない(「三人が話をしあうというのは、どこかにごまかしがあるように思うがどうだろう」)。もちろん、ならば「二人性」が正しいのかと言えば、そうではない。「誰が二人だけ話し合っているのを見て信用するものか。二人だけならどんな話だってできる。電話でだって出来るのだ。電話で話している話をあまり信用してはいけない。あそこにはウソがある」。
 二人だけの閉じられた関係では世界は生まれない。この場合の世界とは小説と同義である。
 しかしこの章の後半で、「私」は、一見まったく正反対の言葉を口にする。「読者よ、私がいうのは、電話の二人ほど、二人として純粋なものはないという意味でいっているのである」。しかもその二人の会話を耳にしている第三者(読者)がいたならば?

p.295-296

けさ偶々録画した『虎に翼』を観ていたら、「夢くさい」話ならぬ寅子の夢のなかで、過去現在未来の寅子が次々に現れ互いに議論する、と云うシーンがあって、何だか『別れる理由』ぽいなあ、とおもったりする。坪内祐三が「あとがきにかえて」で、『別れる理由』はまだいま(単行本の出た2005年ごろ)もつづいている、と書いていたが、2024年のいまもまだつづいているような気がしてならない、と云うのは少々こじつけが過ぎるだろうか。


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