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川端康成の話をしようじゃないか 2024/07/31(p.180)#78
小川洋子と佐伯一麦の対談『川端康成の話をしようじゃないか』を読む。田畑書店。面白すぎて一日中読んでいたらあっという間に読みおわってしまった。対談本は読みやすいし面白いし、それが本の話ともなると尚更だ。
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ていねいな造本。金の箔押しが素敵。
あいうえお順に読んでいる新潮文庫の100冊は、一冊目のラヴクラフト『アウトサイダー』を読んだらつぎは川端康成『伊豆の踊子』で、その前にこの本を読んでおこう、とおもい立って手に取る。
川端はその『伊豆の踊子』や『雪国』など何冊かを数年前に読んだが、さっぱり分からず、日本語で書かれているのにこんなに分からないことってあるのか、と衝撃を受け、でも何とか分りたい、いや分からないなりに読みたい、とおもっていた。何が分からなかったのか、どうすれば読めるのか、そのヒントを探るように二人の対談を読んでいく。
読みおえて、早く川端を読みたくなったし、今度こそ読めそうな気がしている。たぶん僕は小説を読むとき、プロットを追いすぎる傾向にあって、でも川端の小説はプロットからは尤も遠いところから書かれていて、だから読めなかったんだとおもう。プロットを捨てる。そういう心持で読んでいくといいのかもしれない。
谷崎との比較が面白くて、谷崎はプロットがしっかりしているから今でも人気があって読まれるけれど、川端にはそれが無いからだんだん読まれなくなっている、という指摘になるほどなあとおもう。
妻とちょうどAIの話をしていて、川端康成みたいな脈絡のなさは人間にしか書けないのでは、とおもったりする。本のなかでお二人が、よく編集者はボツにしなかったな、と云うことをたびたびおっしゃっていたが、著者も編集者も読み手も、知らず知らずのうちにプロット脳になっていて、そこからハズれたものは段々受け入れられなくなっている。プロット=理屈を立てるのはAIが得意で、そこで勝負していると人間はいずれ敗ける。それを捨てるヒントが川端康成には隠されているような気がしてならない。AIが発達すると、かえって川端はまた読まれるようになるかもしれない。少なくとも僕は早く読みたい。
以下、川端康成を読むうえでヒントになりそうな箇所を引用しておく。分からなくなったらまたここへ戻ってきて道を確認する。どうせすぐ迷子になるのだから。
小川 (…)川端康成のことを考えると、もちろん入り口はあるんですけれども、なんかドアノブがないみたいな(笑)ひとり取り残される、戸惑うような印象がありました。
佐伯 (…)そこには「寂しさ」もあるんだけど、川端の作品に特有の相矛盾することを同時に表しているところがあって、そこに感じたのは「あたたかい寂しさ」とでもいう様なものなんだね。
小川 そう。もうグロテスクを通り越してメルヘンになっちゃうぐらいのところまで行っていますね。
佐伯 (…)オチもなければ読者に残すものが何もないという話があったけれど、川端の小説って描写の中に確かなモノの手応えがあるんだよね。それは生理的に気持ち悪いものもあるけれど。
小川(…)川端って小説を終わらせることができないひとなんですよね、きっと。
佐伯 小説の完成度とかは全然無視しているところがありますよね。
小川 それを無視して書けるなんて! 小説という形式の中で、何を目指して小説を選んだのか。でも誰もやったことのない新しいことをやってやろうみたいな、そういうあからさまな野心もないですよね。
佐伯 そこはね。解決のつかないようなものをそのまま表現できる手段として小説っていうものを選んだということは言えるかもしれない。
佐伯 (…)三島由紀夫が言っていた事だけど、川端は結局自分の文体を持たなかった作家だったと。そう言われてみれば、作品ごとに文章が違うって言えば違うかな。川端という作家は作品ごとに一つの文体を作っていた作家なんだと思いますね。だから「文体の魔術師」とかいう言われ方もあったりしたわけで、川端の文章みたいなイメージがあるかもしれないけど、自分の文体をまとめようという、そういう意識はなかった人だな。
小川 自分の力で無を作るという、ものすごく矛盾したことを作品でやったんですね。
佐伯 (…)川端は源氏物語からいろんなエッセンスを汲み取っていたんじゃないかな。『山の音』でもそうだし、『千羽鶴』にしてもあのおどろおどろしい人間関係には濃厚に源氏物語の感じがありますね。近親相姦的なものがあったりとか。だから川端には自分なりの源氏物語を書いたという意識はあったんじゃないかな。