小説とエッセイのちがい『妻の温泉』石川桂郎(講談社文芸文庫)#46

石川桂郎『妻の温泉』を読む。講談社文芸文庫。2024年5月刊。

著者は俳人で床屋。床屋?
経歴を紹介され、太宰治も「?」となった、というのは「太宰治氏のこと」に描かれる。

その太宰の追悼文を依頼される話が「私の俳句」の中の「ねむの花」で、作中その文章を依頼する山本健吉が、さいごの「跋」を書いている。

というふうに、彼方で触れられた話が此方で別の短篇になっていたり、と入り組んでいる。

表題作且つ巻頭の「妻の温泉」がまさにその入れ子構造を一篇の内でやっていて、しかもそれがぜんぶウソだというのだから美事というほか無い。

底本は、1954年7月に俳句研究社と云う処から刊行された同題短篇集で、本作は第32回(1954年下期)直木賞候補にもなっている。

余談だがこのときの受賞者は梅崎春生と戸川幸夫。他の候補には邱永漢の名もある。
それよりも選考委員が厳つくて、井伏鱒二に永井龍男、吉川英治や大佛次郎までいる。ヤバくね。

さて本作は、小説というよりはエッセイ、と云う評価で受賞には至らなかったそうだ。

うーん、僕は充分小説として愉しめたけど。たしかに、直木賞ぽくはないかもしれないなあ。

という情報も読むまえから目にしていたからか、小説とエッセイの違いって何だろう、てことを考えながら読む。

これは持論だけど、書いたひとが、これは小説です、て云っていればそれは小説なんじゃないかな。

エッセイだってすべて事実を土台にしているわけではなく、そこには虚構もふくまれているし、片や小説にだって、私小説みたいに事実と近接したものもある。

そもそも文章は、書かれた時点で事実から乖離していくと僕はおもっている。
そういう意味でいったら、新聞記事だって必ずしも事実というわけではない。

このnoteだって、僕の妻や子が時折登場するけれど、そこには虚構も大いに混ぜられている。

だからそれを小説と云うかエッセイと云うかは、どうなんだろう、僕としては小説を書いている感覚に近い。体裁はそうなっていないのかもしれないけれど。

周辺の生活の話が書かれているとおもって読んでいたら、不図気がつけば遠く虚構の世界へ入りこんでいる。
そんなのが理想で、この『妻の温泉』は全篇それを達成している。それも飄々と。素晴らしいじゃないか。

兎に角、文章がべらぼうに巧い。ことば選びのセンスよ。俳人ならでは、と云っていいのだろうか。

描かれるのは戦中から戦後すぐにかけてであり、その時代相応の文体ではあるのだが、不思議とスイスイ読めるのである。

もともと都会人(三田とか芝とかのあたり)で、いまは田舎(鶴川村。町田の近く)にひっこんでいる。粋、である。

描かれる妻が可愛らしい。芯も強そうで、落語に出てきそうな好人物である。

落語といえば、酒に纏わる話の多いのも、落語的な軽妙さや江戸っ子らしさを醸し出している。

著者の属するコミュニティも良い。
俳句仲間にはじまり、ご近所さんの白洲次郎と正子、河上徹太郎や徳田秋声などなど、実在の文豪や大人物が生き生きと描かれ、彼らの著作も悉く読みたくなる(因みに小説の師匠は横光利一だそうだ)。

発売情報を見、これゼッタイ僕の好きなやつだ、と思い手に取ったが、想像以上の大当たりだった。

著者の本はわりと新刊として読めるものがまだ何冊かある。先々の愉しみがふえた。


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