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書評「スマホ時代の哲学」

先日noteにも書いたが、私は本年の目標を立てない代わりに「自分を知る」ことに徹しようと決めた。自分を知るとは、新たな思考や発想、感情を自分から引き出すという意味だ。自分探しとか、自分がやりたいことを見つけることでは決してない。

既に私は50代後半で、世の中を達観したような自覚も多少ある(まさにジジイだ)。若い頃のような新鮮な驚きや発見は望むべくもない。しかし、「こんな面白い発想やアイデアが自分から出てくるのか!」「こんなことに自分は感動するのか!」というポジティブなサプライズには出会いたい。そのために、新たなコンテンツ(風景、本、音楽、映画、人の話など)に触れた時に少し立ち止まり、無理にでも考える習慣を今年は身につけたいと思う。

こんなことを考えたのには理由がある。本年に入り初めて読んだこの本に、感化されたからだ。「スマホ時代の哲学」である。

某オンラインセミナーで著者の講演を聞いたのを機に読み始めたが、いきなり冒頭から、研ぎ澄まされた言葉が心に刺さった。

~君たちはみんな激務が好きだ。速いことや新しいことや未知のことが好きだ。ー君たちは自分に耐えることが下手だ。なんとかして、君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている。

『ツァラトゥストラ /ニーチェ』より

この本は、さまざまな本や映画、アニメなどから言葉を引用しながら持論が展開される。引用はどれもわかりやすく、著者が言いたいことが感覚的に伝わってくる仕掛けになっている。
その一発目の引用がこれ。ニーチェが指摘するとおり、私は新しいことや楽しいことを体験したり仕事を充実させたりするのに躍起になり、自分自身から(無意識のうちに)逃げていたように思う。こうした人の支えになるのが哲学であると著者は述べ、本編がスタートする。

第1章では、何の動揺もなく安穏と暮らしている現代人の生き方に警鐘を鳴らすオルテガ・イ・ガセット(哲学者)の言葉を引用しながら、「まずは迷い取り乱している自分を認識することから始めなければいけません」と著者は述べる。その例えとして、著者は唐突に「ゾンビ映画」の比喩を用いる。

「俺は絶対死なねえ」とか言って自信満々な人とか、~「キャンプはこっちのほうが安全に決まっている」とか言って自己判断で適当に寝ちゃう人とか、ゾンビ映画でよく出てくるじゃないですか。こういう人って、視聴者から「おいおい、ひどいな」「あかんフラグや」とか突っ込まれるんですけど、実際には、これこそ私たちの姿にほかならないわけですよ。

「スマホ時代の哲学」第1章より

そう。何の疑問も抱かず能天気に生きている私たちは、ゾンビ映画の中に放り込まれると、おそらく真っ先に死ぬ。悩んでいたり葛藤がある人ほど、なぜか生き延びるのだ。

第2章では、「自分の頭で考えないための哲学」というタイトルのとおり、「自分の思考に警戒心を持ち、他人の頭で考える」ことの重要性が述べられる。プラグマティズムの哲学を援用しながら、一つの見方に固執せず、さまざまな人の思考を想像しながら「考え続ける」ことが大切であると著者は説く。すぐに理解できないことに出会ったら、成果を急がず時間をかけて考えることが自分自身と向き合う上で必要であると(いったん)理解した。

第3章以降は、常時接続しているスマホ時代において、自分の頭で考え続けるための方法論が、さまざまな引用をもとに述べられる。特に私の心に刺さったのは、第3章に出てくるブルース・リー主演の映画「燃えよドラゴン」からの引用だ。著者は映画の中で、ブルース・リーが弟子の蹴りを評価した際に放った言葉「なんだそれ、見世物か?情緒的内実が必要なんだ。」と「考えるな、感じろ!」に着目する。

私たちが日常的にやっている「考える」営みを振り返ってみると、「こうだ」「これだ」と理解した途端に、その理解の外側に滲み出してくるものが常にあることに気づきます。恐らく、「感じる」べきものはその辺りにあるはずです。
私なりに表現し直すなら「情緒的内実を持つ」(=感じる)ことを、「感情のしっぽを捕まえる」とでも言えるでしょうか。何か微細な変化や期待とのズレが生じたときに、一つの考えや単純な見方では割り切ることのできない感覚がモヤのように広がっていく。理解したと思ったら、そこからこぼれ落ちていくものがある。「感情のしっぽ」とは、そうしたモヤモヤした感覚のことです。~要するに「考えるな、感じろ!」とは、「自分の頭で考えただけで仕事を終えた気になるな」ということなのです。

「スマホ時代の哲学」第3章より

著者が伝えたいのは、簡単に結論を出さずに悩み、考え続けることの重要性である。本書の後半では、イギリスの詩人、ジョン・キーツが提示した概念「ネガティブ・ケイパビリティ」をふまえつつ、わかった気になることのリスクが述べられるが、そうした自意識を増長させているのが「快楽的なダルさ」を提供しているスマホであると著者は語る。
最後の「おわりに」では、そうしたスマホ時代に「考え続ける」ための方法が一気に述べられる。

こうした自己関心的で自己完結的なモードに対置したのが、孤独や孤立であり、それを可能にすると目される「何かを作る、何かを育てる」という趣味、延々と書き直すことであり、退屈や欠如の気分であり、情緒的内実を持つことであり、「指先に目を奪われるな」であり、自治であり、自分の頭で考えないことであり、想像力を豊かにすることであり、自分の中に他者を住まわせることであり、ネガティブ・ケイパビリティであり、終わらない探求を続ける冒険的な探究心です。

「スマホ時代の哲学」おわりに より

著者が示した多様な方法のなかで、私は最後の「終わらない探究を続ける冒険的な探究心」にピンと来た。私は社会人として生きてきた経験から、すぐに答えを求めて「わかろうと」する習慣が身に付いている。しかしその過程では、モヤモヤした感情や悩みは効率性の観点から切り捨てている。まして、自分自身を知る行為なんて不合理そのものだ。
…ということでこの本を読み、今年は自分の内面から湧き上がってくるモヤモヤをスルーせずに捕まえ、記録して、頭の中に抱え続けようと思った。著者に対抗して例えるならば、当てもないままフラフラとさまよい続ける漂泊詩人のように。その過程では、わかったような気になっている自分の別の面が見えてくるかもしれない。

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