熊本くんの本棚はweb小説界の希望だ
ずいぶん前からこの「熊本くんの本棚」のレビューに挑戦しているのに、ずっと指が進まなかった。昔風に言えば、筆が進まなかったという事になる。でも今は2020年だし、筆で書いている人はよほど偏屈な人か坊さん以外にあまりいないだろう。何故指が進まないのか? 書こうとしてYouTubeやTwitterを眺めて放置する事かれこれ半年以上なのか?
理由は分かっている。
僕が、熊本くんの本棚が好き過ぎるのだ。
好き過ぎるが故に、その魅力を「どうですかみなさん! ほら凄いでしょう!」と開帳する事が怖いのだ。間違った言葉で自分の感覚を表すのが怖い。意図しない文章の汲み取り方をされるのが怖い。表現をするのに、言葉が足りなかったらどうしよう。そういう不安が渦巻いてしまう。だからずるずると長い文章になり、削り、一旦保留になり、また書き始め、削り、保留になる。いつまで経っても終わらない。
僕はキタハラさんのファンである。2018年にカクヨムを始めた時、僕の小説に最初にレビューを付けてくれたのがキタハラさんだった。僕はキタハラさんが受賞する前から同じカクヨムという小説投稿サイトで「熊本くんの本棚」というすごい小説を書いている人だと知っていたので、とてもとても嬉しかった。その恩義は一生忘れる事はないと思う。だから、今回のレビューを書くのをとても楽しみにしていた。待ちに待った書籍化された小説を、こうしてみんなにお薦めができるのだ。インターネットは本当に素晴らしい。だが一方で、やはり自分が好きなものをお勧めするのは怖い。
フラットな視点で感想を書きたかった。
可能であれば、ありとあらゆるキタハラ作品を読み尽くし、また、諸関連作品、例えばキタハラさんに影響を与えた作品群に触れ、ここはアレだ、そしてそこはナニだ、という風に、メガネをクールにクイックイッと上げながら華麗に指摘しつつ、「あたかも〜と言わんばかりである」とか「そのようにして〜は論ぜられるべき事象と捕まえられ得るべき事柄と言えなくもない」などとうそぶきたかった。無理だ。諦めた! キタハラさんを下支えする文学の森はあまりにも深く、そこに立ち入るにはさらに深い文学的素養が必要で、とてもじゃないけれど僕には踏み入る事ができない。読み込んだ本の数が圧倒的に違う。地力が圧倒的なのだ。しばらく頑張ってみたが、僕にはキタハラさんのルーツを探す旅に出る事はできないという結論しか得られなかった。
ごめんね!
そういう風にサッパリと心の整理をつけてからこのnoteに向かうと、すごく気が楽になれた。だからここではさっぱりと、僕が好きな小説「熊本くんの本棚」の何が衝撃だったのか、どこが好きなのか。そこに焦点を当てて好きに語らせていただく事とする。僕のバックボーン、失敗した企みは全て前段で明らかにした。もう隠すべきものは何もない。僕は単なるweb上の趣味の物書きに過ぎない。だから僕は、このキタハラ作品の中心にして、コンテストを勝ち抜いて書籍化に至った「熊本くんの本棚」をシンプルに、可能であれば僕だけの言葉で語っていこうと思う。その出会いから、本を手に取った時の喜びまで。ちゃんと書けるだろうか? うん、多分大丈夫。駄目だったら少し休めばいいのだ。と言いながら半年くらい経ってしまった訳だけれども。
熊本くんの本棚との出会い
小説投稿サイト「カクヨム」で、一番最初に衝撃を受けたのはキタハラさんの【熊本くんの本棚】だった。今となっては、どのようにして辿り着いたのかは覚えていないのだけど、異世界やファンタジーものがシェアのほとんどを占めるwebカクヨム小説界隈を何とも言えない気持ちで彷徨っていた時、偶然【熊本くんの本棚】を見つけ出した時の喜びや心強さは、どのような言葉を重ね並べても伝わらないと思う。
でも僕だって、もの書きの端くれでもある。伝わらない、と言い切るには恥ずかしいと感じる程度の矜持がなくもなくなくない。
頑張って説明してみよう。
例えばあなたが旅人だったとする。そこは砂漠だ。とても喉が渇いていて、もしかしたら飢えてしまっているかも知れない。目的地へ向かって歩いているつもりだけれど、向かっている方角が正しいかどうかは分からない。遭難してしまいそうだ。いや、自覚がないだけで、あなたは既に遭難している。この先に存在するであろう大きな城の王に伝えるべき伝言をあなたは心の奥底に抱えている。非常に個人的なものだ。それを明かさなければ、あなたは死ぬに死ねない。そういう切迫した事情を抱えている。やがて、同じ方向に向かって歩いている人達と合流し始める。心強い。僕は、あなたは、一人じゃなかった。
「大変ですね、僕も道に迷ってるんです」
あなたはそう話掛けるだろう。お互い助け合う事が出来るかも知れない。何しろ一人で進むには陽射しが強すぎるし、孤独だ。それが紛れるだけでもありがたい。
「俺は別に遭難してねーぜ!」
同じ方向に向かって歩いているようにみえた人は遭難している訳ではなかったのだ。むしろ大勢の仲間を引き連れて歩いている。
「なぁみんな! 俺たちは楽しくやってるよなぁ!」
「「おおー!」」
鬨の声が上がる。あなたは一人砂漠で立ち尽くし、砂煙を立てゆっくりと大勢の人達が去っていく後ろ姿を見送る事しかできない。誰もあなたという人間がそこに立っている事に気付かない。まるで透明人間になってしまったかのように、あなたはずっと立ち尽くしている。太陽は傾き、夕闇に影が伸びる。砂漠の夜は寒い。そしてあなたは、じっと胸に抱えてきた王に伝えるべき伝言が、実にくだらない、取るに足らない事柄であるように思えてきてしまう。一体どうして、先程までの私は命の危険をおかしてまで、こんなくだらない事を伝えに行かねばならないと思い込んでいたのだろう?
その小説は冒頭の一文目から只者ではなかった。
思いだすのは本棚だ。
一文を読んだだけで、大丈夫、間違えてないよ、と言われたような気分になった。物語はいつも小さなところから始まる。例えば、本棚を思い出すところから。
今まで希望を込めて小説をクリックして、何度も悲しい思いをした。期待を裏切られた。それは作品が悪い訳ではなくて、僕が勝手に期待し過ぎていたのだと思う。web小説というものがどのようなものかを知らなかったし、今思い返してみればそんなに酷いものはなかった。ただ単に僕が読みたい文芸的な作品の投稿が少なく、目に付き辛かっただけに過ぎない。だからこそ、熊本くんの本棚は沁みた。先程、冒頭の一文を紹介したが、それ以降もグイグイと物語の吸引力は増して行き、読み進めるにつれて救われるような気分になった。全てが圧倒的に他のweb小説と違っていた。それに気付いたきっかけは、次の文章だ。
こういうとき、女の子たちの浮かべる薄笑いが嫌いだ。中高一貫の女子校だったから、本当によく見た。
とても普通の文章でしょう。これは第一主人公のみのりちゃんが、大学の同級生に熊本君との関係を聞かれた時の心情を示す文だ。どうですか、みのりちゃんと一緒に、嫌な気持ちになりませんでしたか。僕はなった。うわ、何かその気持ち分かる! 女子校出身じゃないけど!って思った。そう自然に思わせる事は実は大変テクニカルな事なのだと思う。僕が事なのだ。と言い切るのはおこがましいので、「と思う」をつけておいた。実際は知っている。すごく難しいし、多分キタハラさんはこれを無意識にやっている。だから、引き込まれ方が半端ない。
「アダルトビデオだよ、男同士の」
そこで、みのりちゃんは熊本君が男同士のアダルトビデオに出ている事を知らされるのだ。引用を続ける。
彼女の勝ち誇った表情に、きっと自分は衝撃を受けているのだろうな、と冷静に思った。
(行間)
熊本くんはいま、カレーを作っている。
わたしは床に寝転んで、本を読みながら、出来上がるのを待っていた。
この(行間)が憎たらしいくらいにスムーズに前後を繋げている。みのりちゃんの回想と現在の行き来が実にスムーズで、まるで映画のようだ。カレーライスを作っている熊本くんの後ろ姿はもちろん、美味しそうな匂いまで漂ってきそうじゃありませんか? それだけじゃなくて、だらしなく横になって、ゲイと噂されている熊本君の背中を時々目で追っているみのりちゃんの顔や、戸惑いや、少しの好奇心さえ手に取って検分できそうな描写じゃありませんか?
あるいはこうした技術的なところは「当然」として扱っている物書きの方々もいらっしゃるだろう。こういう事をいちいち書き連ねていては、notesの容量が5000ギガあっても足りないのかも知れない。特にたくさん本を読む人にとっては、え、よくある技法……と感じられるかも知れない。だがそれをさて置いても、実は熊本くんが「ゲイ」なのかも知れないという事が読者に明かされるシークエンスとして、これ以上の導入はなかなか思い付かないのではなかろうか? しかも、これは書籍にして冒頭たった8ページの間の出来事である。読み手として色んな感情が刺激されて、ページを捲るのももどかしい。いろんな感情というのは、主に好奇心、もっと言えば下衆な方のものだけれど、キタハラ小説はそこが面白いのだ。表があれば裏がある。その裏を強烈に書いてしまうのは、表の世界の美しさを本当はそのまま信じたいからなのかも知れない。でも、大人になるとそう簡単にはいかない。そうだろう? 聖人ぶるのはよせJohnny。そういうのはカミさんと結婚した時にオサラバしたんじゃないのかHAHAHA!
そのようにして熊本くんの本棚はズイズイと冒頭から読者を掴んで離さない。始まってたったの10ページにも満たないところでガッツリとハートを掴まれる。
ここから先はさらに面白くなっていく。とりあえずこの第1話の中でのクライマックスの話をすると、みのりちゃんが新宿で購入した熊本くんが出演しているゲイビデオを、熊本くん本人が再生してしまうという修羅場である。発端は実にシンプルである。引用する。
「ねえ、みのりちゃん」
熊本くんがわたしを呼んだ。
この直前は行間すら開けない。地獄の発端が往々にして日常と地続きであるように、小説においてもそれは踏襲されている。「読者のみなさん! さぁ、修羅場ですよ!」と喧伝しないのがキタハラ小説の上品なところだ。
熊本くんが偶然自分自身がゲイビに出演しているシーンを見てしまう。この後、みのりちゃんと熊本くんが会話をする間にDVDから流れる音声が差し込まれるのだけれど(ああ、ああ、でます、でます、だめですか。)ちょっと読書体験として居た堪れないくらいの空気感の悪さを味わえると断言したい。そして第一話は
ドアが閉まった。
熊本くんと会ったのは、このときが最後となった。
で締められるのだ。
この第1話の完成度が異様に高いのが【熊本くんの本棚】の特色と言って良いのではないかと思う。きっと書く人は誰しも、第1話には気を使う筈だ。読者は王であり、いつでも首を切ることができる。だから書き手として第1話にはことさら神経を使う。それは理解できる。それにしても、ここまでクオリティが高ければもう勝ちでしかないのではなかろうか。完璧過ぎる。
ここまでずいぶんと熱く語ってしまった。
ここまでだけでも、インターネットに溢れる様々な小説の中で、この「熊本くんの本棚」と出会った事が僕にとって大きな救いであったのか、ご理解いただけたのではなかろうか。ここまで読んでいただいた方がどのような人達なのか、ちょっと僕には分からないのだけど(キタハラファンの層の厚さは僕の想像の範疇を超えている)、この作品がweb小説投稿サイトの大賞を獲るというのは、実に衝撃的な出来事であったという事は、口を酸っぱくして、あるいはキーボードを超絶打鍵し烈火の如く火花を散らしてでもお伝えしておかなければならない。「へぇ、江戸川台ルーペって人が誰か知らんけど、凄い凄いって、そこまでスゴいって言うなら、そりゃ大賞だって獲るんじゃないの? 知らんけど」などと鼻をほじりながら、あるいは動物の森などをカチャカチャと嗜みながら安易に思うに至らないでいただきたい。
2019年はインターネット発の小説に革命にも等しい衝撃でしかなかったのだ。そこは異世界でもなく、金髪美女も、何をしなくてもモテちゃう男の子も存在しなかった。ただひたすらに気持ち悪い小説が受賞するなど、恐らく当時はだれも想像すらしていなかったのだ。
気持ち悪い小説。
──(ッテェーン♪)
つい調子に乗ってNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」的効果音を付けてしまったことをお詫び申しあげたい。失礼した。
帯に記載されている通りに書き出してみる。「?」となった人はこの記事の一番上の見出し、ヘッダーに画像が載せてあるので、参照いただければと思う。
※ヘッダーの画像、向かって右が「元祖オーケン伝説」という2019年11月文学フリーマーケットにて頒布された曖昧書房(主催者 斉賀朗数氏)による同人誌で、キタハラさんは「釈迦」という戯曲を載せている。限定70部ほどの同人誌なので、気になる方は速攻でゲットしておかなければ売り切れてしまうかも知れない。五冊うちにあるので、残りは50冊あるか無いかだ(キタハラさんもたくさん買っていた)写真向かって左側はキタハラさんを見出したイワトオ氏がカクヨムにて執筆した「迷宮クソたわけ」という書籍化されたウィザードリイ好きにはたまらない小説で、ぜひこちらも買っていただきたい。どちらもキタハラ氏を知る為には必要不可欠なパーツと言える。
気持ち悪くて、愛おしい
熊本くんの本棚の帯に書かれたキャッチフレーズだ。脇には、「ゲイの熊本くんの、汚くて繊細で風変わりで、自由だけどどこか不自由な青春物語。第4回カクヨムweb小説コンテストキャラクター文芸部門大賞受賞の問題作、ついに書籍化。」(※太字は筆者)と書いてある。この気持ち悪いというフレーズについて、読者から反発があったようだ。気持ち悪いという表現は作品に対して不誠実ではないか、とか、ゲイだから気持ち悪いというのか、というような、そういう文脈で「(このような名著の帯に)気持ち悪いとはけしからん論争」があった。
気持ち悪いはどこに掛かっているのだろうか。
僕は作品に対する気持ち悪いという言葉を褒め言葉として使ったKADOKAWAは英断だと思う。本作が出た2019年の12月あたりでは、偏愛したり、自分の性癖を隠さずに「好きだ!」と表明する人間に対して「気持ち悪い」と評する事はテレビやラジオで時折耳にすることがあった。その裏には「気持ち悪い」けど「ありがとう」だとか、「気持ち悪い」けど「そんなあなたも嫌いじゃない」という風な肯定的な捉え方が潜んでいるように思えた。エヴァの話で恐縮だが、アスカが90年代の終わりにシンジに向かって「気持ち悪い」と放った一言とは、だいぶ意味合いが変わってきているのだと思う。今現在、気持ち悪いという言葉は褒め言葉の意味合いを帯びてきているのだ。本当に気持ちが悪い時は、生理的に受け付けないといういにしえの言葉が使われ続けているのではなかろうか。嫌な言葉だよね、あれ。
何が気持ち悪いか(言い換えれば【優れた、褒められるべき点】なのか)というと、ゲイとしての熊本くんの事ではなく、この作品を覆う雰囲気に焦点を合わせるべきだと僕は思う。どのような雰囲気かというと、一人ひとりが不幸を前提として生きている不気味さではないかと僕は思う。一人として幸福を語らない。希望を夢みない。生命を受けたから生きている。辛い事も多い。だから少しでも生きやすくする為に、出来る限り自分らしく生きていこうとすると、人は不倫をしてしまうし、親族からイタズラをされる事もあるし、ゲイビデオに出演している事がバレる事もあるし、父が妙な宗教にハマる事もあるし、糞みたいな親戚達が定期的に集まってお互いを褒めそやしたり、権力者であるおばさんに気に入られようとする。気持ち悪い親戚……。
血だ。この作品の気持ち悪さは「血の繋がり」から漂ってくるのではなかろうか。逃れようにも逃れられない、必ず我々が含まれている抗えない血脈、親族。それは自らが選び勝ち取れない運命にも似ている。他人ではないのに、他人。親でいて欲しくないのに、親。近いようで遠い妹。分かり合えない子供とおとな。自分自身でさえ、何者なのかが分からない、闇。闇。闇。暗闇でヌルリと光るものが、希望なのか、露出した性器なのかそれさえも分からない。誰一人として理想と幸福を語らない。ただ生きている。できれば自分らしく生きていこうとしている。だから、それが【気持ち悪くて】【愛おしい】。
恐らく、大勢が驚いた事だろう。上記のような暗く辛い小説が大賞を獲るとは、誰も想像すらしなかった筈だ。もちろん、分かる人には分かっていた。
「これはとんでもない小説だ」と。「web上でも類い稀な文芸長編小説で、なぜwebで公開されているのかが分からない」と。ただ同時にこうとも思っていた。
『でも、web小説の賞は受賞できないんじゃないか』
だって、ここはwebだから。
インターネットだから。
そういう、闇の側面を捉えた小説は、いくら凄くても大賞には選ばれないんじゃないかと、この作品の力を知っている人でさえ思っていたんじゃなかろうか。物語の力として、素晴らしい小説であるにも関わらず、受賞を予想した者はほぼゼロだったのではなかろうか。
そこにはwebに対する侮りのような思いが少なからずあったのかも知れない。まず前段の話をすると、キタハラさんがこのカクヨムコンテスト4で一番力を入れていたのは長編「オールザサッドヤングメン」だった。この熊本くんの本棚はそれ以前に投稿されていたもので、いわば「何となく出品してみました」というような立ち位置にあった(と、少なくとも僕には感じられた) 「オールザサッドヤングメン」はコンテスト中にもひっきりなしに更新されていった。1日に二度更新など、いつ寝てるのだろうと心配するような力の入りぶりで、頼むから休んでくれとお願いしたくなるような気合いの入りぶりで「オールザサッドヤングメン」は完結した。「さあどうだ!」と雄叫びが聞こえそうな程だった。
私見ではあるけれど、web小説界は不思議なもので、主にファンタジーやSF、ライトノベルを書く先輩方が広げてきた新天地である。そこには旬や時流というものが独自に存在しており、「完結済みの小説はwebに取り残される」という謎の現象もその内のひとつと言える。更新し続け、いわば連載中は読者がついてくるが、完結してしまうと人の目に留まる事が極端に少なくなるのだ。宇宙から地表に降り積もる塵が徐々に地表を覆っていくように、web小説は自然の摂理としてその姿を地中に埋もれさせて行く事になる。オールザサッドヤングメンの熱量に比べると、特にその差が目に付いた。ピカピカの新車と、馴染みのいいドイツ車というような対比だった。ものすごく乗り心地は良い。だが、人目に付くほどの派手さがすでに失われてしまっていた。残念だ。こんなにも凄いのに。web小説だから、こんなに素晴らしい小説が脚光を浴びないのだ。人のニーズに合わなかったのだ。web小説だから、インターネットだから。何となく言い訳じみてしまうので恥ずかしいのだけれど、「受賞するならオールザサッドヤングメンであって欲しい」という我々キタハラファンの思いのようなものもあった。そう思わせる程の熱が伝わってきたのだ。逆に【熊本くんの本棚】が受賞するのなら、カクヨムは本物だ。
僕、いや、我々こそが思いっきりwebを侮っていた。
webだからという理由で除外を予想していた我々は、受賞の発表と同時に金属バットで脳天をフルスウィングされたような思いだった。まさに、度肝を抜かれた。ごめんなさいしようね、と誰に言われた訳でもないけれど、ごめんなさいって思った。webだからと卑屈になっていた我々の無様な気持ちに、誤魔化しにも似た書かない言い訳に、熊本くんの本棚が受賞しないのなら、僕・我々の小説など一生受賞はしないだろうという予防線に、火を焚きつけられたような気分になった。面白ければ、作品は必ず人の目につくし、浮かび上がってくる。webだから、という言い訳はもう成り立たない。それはまさに、文芸作品を書こうとこころざすweb小説家達の、輝ける希望の星であったのだ。
そう思わせる「熊本くんの本棚」とは一体、どのような小説なのか。さっき上に書いた「熊本くんの本棚」の導入はほんの表層であり、そこから先はさらにヤベー奴らがガンガンでてくる。 歳を取らない親族が妙な事を言い出す。例えば、「前世」とか。この小説の大きなテーマである予言。
あなたは二十歳になるまでに死ぬかもしれない
熊本くんはその運命から逃れようとする。それは小説内小説の『さよなら、けだもの流星群』という熊本くんの半生を綴った作品で明らかになっていく。この構造は夏目漱石の「こころ」を流用したとキタハラさんは言っていたが、まさにその二重、三重の構造こそが本作品の陰影を深めている。熊本くんの本棚のキモは、熊本くんが書いた作中作『さよなら、けだもの流星群』だ。これが何しろ文句なしに面白い。血生臭くて、どうしようもなく切実で、何人かが失意の内に死に、殺される。家族内の不和があり、親族内の確執と、予言による洗脳や生まれ変わり、抗い難い運命と、生者に語りかける霊魂がいる。止むにやまれない悲しく暗いストーリーだ。それでも生きようとする人たち。
カクヨムコンテスト4キャラクター文芸部門大賞受賞作品。
この受賞はまさにwebで文芸作品を書く人たちにとっての希望となった。物を書くという事は大変手間が掛かり、それを発表するという事はとても勇気が必要な事だ。それは僕も書く方の人の端くれだから分かる。しかし、インターネットという全世界に開かれた場所においては、文芸作品というものは何故かそっと脇に追いやられていた。まるで「お前達は公募へ行け」とでも言われているかのように。webは楽しい所なんだから、お前の闇とやらは他所で処理してろよ、とでも言いたいかのように。でも熊本くんの本棚は受賞した。正々堂々と、読者選考を突破し、読者に選ばれ、編集者に選ばれたのだ。これはカクヨムが、大きく捉えればインターネットが「面白ければ、何でもあり」を具現化したという事に他ならない。面白ければいいのだ。現にほら、熊本くんが受賞したじゃないか。
ごもっとも。カクヨムはインターネットの小説投稿サイトであり、面白さの前で公明正大である事を示した。その功績は恐ろしく大きい。文章を書く者達に希望を与え、ネット小説を軽んじていた多くの人たちに一目置かせるきっかけとなった。本当に、熊本くんの本棚はweb小説界の輝ける希望なのだ。是非その歴史的瞬間を、ここまで読んでいただいた方と共に分かち合える事が出来れば、1ファンとしてそれに勝る喜びはない。今すぐ本屋へ駆け込んで、その目で、脳で、こころで確認して欲しい。きっと、インターネットという既存の価値観を打ち破った、文学の太陽が輝かしく昇る感動を味わえるだろう。そしてもしかしたら、いつかあなたは気付かない内に暖め続けていた物語を書き始めるかも知れない。もし戸惑っても、心配する事はない。投稿先は決まっている。ここに書くまでもなく、KADOKAWA主催の「カクヨム」へ。そこでは誰もが「面白い」の前に平等の民である事が保証されている。
amazon
どうも僕はnote内の文章にリンクを貼る事ができない人なので、みなさんには各自検索なり何なりでネットから注文していただきたいと思う。このコロナ禍において、本屋に行くのを避けたいと思うのは人として当然である。どうか、ご無理はなさらないように。生きてまたどこかでお会いしましょう!🥰
と、いい感じで締めてしまったけれども、ここから先は僕が好きな描写や考察などをしていきたい。もちろんネタバレしまくりなので、まだ読んでいない人はここから先は読まないほうが良いと思う。映画も本もネタバレを読んだところで面白さは変わらない、というのが僕の基本スタンスではあるのだけど、気にする人の気持ちもわかるので、こっから先、ネタバレあります!って書いておきたい。書きましたよ。言いましたからね!
LGBT文学としての熊本くんの本棚
熊本くんの本棚がLGBT小説の括りにあるとされて、その事に僕はあまりピンと来なかった。僕はいわゆるストレートというか、ノンケの男性なのだけれど(多分そうなんだと思う、とエクスキューズをしてしまうのは、熊本くんの本棚を読んだ後なら誰しも陥ってしまう症状だと思う)、熊本くんがゲイだと言うことで悩んでいる描写がなかったし、自然と熊本くん自身がゲイである事を受け入れているので、LGBTがテーマとは考えもしなかった。男としてそういう生き方を選択している、あるいは積極的に否定をしない人生を熊本くんが歩んでいるように思えたのだ。単に性的指向が幅広いというだけで、そこにゲイであるから生き方としての選択が狭まったとか、人生の目的への道が阻害されたというような事は少なくとも僕が読んだ中にはなかったように思えた。自然と愛する人が男であったというだけで、愛という名の元では物語性は一緒である。愛する人と最後に結ばれる、という点においては、男男であろうが、女女のペアだろうが、あるいは椅子猫だろうが、等しく良い(尊いと書こうとして辞めた)ものだ。いやいや、そこを敢えて普通に書いた事がLGBT(Q)文学としての作品の価値なのだ、という事であれば、そうなのだろうなという気はする。僕はそうした性の問題よりも、熊本くんが語る数奇な物語に魅入られてしまった方なので、LGBTとしての云々となると目が少し泳いでしまう事になる。LGBTである事による差別や不自由さにファイティングポーズをとっている小説ではない。ストレートが読んだからと言って、この小説の優れた文学性が変容する事はない、という事しか言えない。
男同士の関係性は男女のそれを書くよりも言葉少なで伝わる情報が多いような気がするが、それは僕が男だから、という前提のもとで読んでいるからなのかも知れない。ともあれ、熊本くんの本棚を読んだ後は、通勤電車のとなりに座ったおじさんがゲイだとしても不思議はないな、というような気持ちになった。以前まではそんな可能性について考えた事もなかったのだけれど。それも良い小説を読んだ事で起こる、人生の変化と言えるだろう。
もう少し、【気持ち悪い】について
上の方で【気持ち悪い】は血、血族、運命に掛かっていると書いたけれど(そういうつもりで書いたのだけれど)、その描写について引用してみたい。うわぁ気持ち悪いなあ(褒め言葉)と思ったところだ。何箇所かあるので、状況の解説を加えながら引用しつつ書いていきたい。
日曜日、中学生の熊本くんが父に連れられてメジロのおばさんのところに行く描写で、家族は全員、そこに行きたがらないという前段である。熊本くんだって行きたくないが、父には逆らえない。
話のあわない相手しかいない場所で、粗相のないよう過ごせるか、試される時間だった。他人の家の匂い、そのよそよそしさは、いつまでたっても僕を怯ませる。
わかる、と思わず唸ってしまう描写だと思う。親戚の家に遊びに行くというのは、あまり心楽しいものではなかった。特に同年代の親戚の子供がいる場合は。
子供たちは、大人へ適度に媚び、子供らしく振る舞っていた。彼らは優秀な「子役」だった。
わかりみしか無い。子供の頃、大人から向けられる「こどもたち、子供らしくあれ」を要求されている空気が思い出される。居た堪れない気分になりませんか。僕はなった。同世代の人間がいると、特に厄介な空気と気分になった。この場面ではヤスユキ、という早稲田高校に通っている「親たちのお気に入り」が熊本くんにとっての同世代に近い親戚だ。
彼は大人たちに媚びることが抜群にうまく、「ショウキチおじさんはサッカー部だったんだよね」だとか、息子の僕より父のことを知っていたりした。大人たちの過去の自慢話を引きだし、大人たちの会話に花を咲かせる名手だった。
どうですか。嫌なヤツでしょう。気分が悪いですね。長めの助走をつけてぶっ飛ばしたくなりませんか。そういうヤツ、いましたよね。自然とこういう立ち振る舞いが出来る親戚。僕の心根が腐っているだけでしょうか。それは否定しませんがね(がね)。でも熊本くんは中学生だから、怒りもせずに
うまく社交できない自分を情けなく感じた。
で留めている。もうね、本当に身に覚えがあり過ぎる。あるいは僕だって、ヤスユキみたいに振る舞っていたことがあったのかも知れない。いつも熊本くんサイドにいたとは限らない。でも人間は得てして、自分が情けなく感じられた瞬間の事ばかりを思い出してしまうのだ。とりわけ、本を読んでいる時には。熊本くんの本棚は、そういう事を思い出させてくれる貴重で、優れた本なのだと思う。
次に、僕が大人になってから得た教訓 ──あるいは薄々感じていた事柄について、大人が中学校1年生の熊本君にアドバイスをする内容も素晴らしいところがある。前段として、水泳部活顧問の男性教師を好奇心から尾行したものの、敢え無く見つかってしまって、待ち合わせをしていた顧問の婚約者を含む数名で居酒屋で飲み食いをした帰路、油井という顧問の友達から熊本くんに電車の中で語られているものである。引用する。
「きみがこれから相手をすることになる世間っていうやつはさ、自分が優位に立つためならなんだってする連中や、自分には甘いくせに、他人の負い目ばかり妙に鼻がきく連中ばかりだ。君は見極めなくちゃならない。自分を利用しようとする人間から、全力で逃げるんだ。立ち向かおうとしても無駄だよ。そいつらは、ゴキブリみたいな数と生命力だからね」※太字筆者
実に的確にして爽快なアドバイスだけれど、中学一年生に向けて語るには早過ぎる内容であるようにも思える。だが、それはこの油井という人物が子供を子供扱いしない、先の「こどもたち、子供らしくあれ」な大人達とは違うという対比でもある。そして油井はゲイであり、顧問の事をずっと追い求め続けている。熊本君に小説を書く事を勧める恩人でもある。いい事をいうなぁと引用をしながらしみじみとしてしまう。僕だって、中学生の頃、こういう忠告をしてくれる大人が近くにいたら、今とは違う人生を送っていたんじゃないかなぁとボンヤリと思う。あるいは「えー、僕ちゃんわかんない」とかやり過ごしていたかも知れないけどね。何しろ爆弾みたいにアホだったから。
次に
紹介をするのは、熊本くんが高校の修学旅行へ行った時に再会する女の子とのシーンである。僕はなぜか分からないが、このシークエンスがとても好きだ。男どもとしょうもない修学旅行の計画を立てていると、セーラー服を着た綺麗な女の子と偶然再会するという話だ。この女の子は熊本くんと同じく、二十歳前に死ぬことが予言された者であり、熊本くんが中学生の頃に父に連れられて岡山にあるシューキョー的「先生」の屋敷に訪れた際に初対面を済ませている。結構衝撃的な出会いであるが、ここでは割愛。以下、再会の場面を引用する。
「わたしはリラックマ派かな。これよくない? 伏見の酒とリラックマ」
俺は耳を疑った。いや、耳が震えた。
(略)
「ショースケ、まさか……ナンパ?」
「違う!」
俺は叫んだ。他の奴らも集まってきて、彼女と俺に距離を置きながら、こんちわ、などと挨拶しだした。女慣れしていない連中が、じろじろと不躾に眺めだす。
「彼、ちょっと借ります」
連中が、どうぞどうぞ、といいだした。
どうですか、この感じ。ものすごく先がどうなるかワクワクしませんか。岩井俊二的趣きもある。この後二人はラブホテルに向かうのだが、そのラブホテルの描写がまた素晴らしいのだ。確実にこれキタハラさん行ってんなと思った。取材としてか、それとも実体験としてかはわからねど、これは「実際行ってんな」と思わせる実に生々しい描写であった。修学旅行のクソ下らない自由行動から抜け出して、セーラー服を着た(いささか性格に問題がある)綺麗な女の子とラブホにシケ込むなんて最高じゃないですか? 僕はそういうの本当に素敵だと思う。しかも、熊本くんは一人部屋に取り残されるのだが、きちんと
外に出ると夕方になっていた。遠くから夜が忍び寄ってくる。
とその後の諸々をきちんと書いているのだ。結構書くのにしんどい所ではあるが、あるのと無いのとではダンチだ。たったこれだけなのに、夏で、気怠く、湿度が高い、夜が間近な緑の匂いがする風が感じられそうな描写だ。読む者の体験や思い出、あるいは想像力に直接訴えかけてくる。まったく、キタハラさんは僕みたいに描写を書き過ぎない。などと自虐もチョイチョイ挟んでいくテクニック。小手先過ぎて自分でもひくわ。
そして次
に紹介したいエピソードは、唯一と言って良いほどの心が温まるエピソードである。上の方でも書いた通り、小説熊本くんの本棚は殺伐としている。生ぬるい雰囲気はどうせ嘘っぱちだから書く価値ねーわ、はい残念さようなり〜、と言った雰囲気の中で、母との交流は実に心温まる文章で書かれている。熊本くんにとって、母は産んでくれた肉親であり、自らを否定せず、過干渉もせず、人生を共に見つめてくれるパートナーのようでもある。駄目な父に一丸となって立ち向かった仲間という意識が働いているのだろう。このシークエンスの始まりの文章が素晴らしいので、引用したい。
夜道を俺たちは並んで歩いた。母の背を越したとき、なんとも思わなかったというのに、二人でよるべなく歩いているいま、突然思った。時間が過ぎていくことと成長することは、背中が寂しい。先を歩いていた人を追い越してしまうこと、いずれ成長は止まり、老いていくこと。
この温まるシーンは1ページ半で終了するが、とても大切な、心に残るシーンである。ぜひご一読する際には【ここか!】と思っていただきたい。 ──などと、ネタバレを恐れずここまで読み進めている誰かに語りかけてしまった。
そして
妹の遺書である。
この文章については、ぜひwebなり書籍の本で読んでみた方が良いと思う。ここで抜粋をすると、全てを書き写す事になりそうだ。正直に申し上げると、最初に読んだ時、僕は「どうして妹は自殺しなければならなかったのだろう」という疑問を抱いた。引っ越しをし、以前とあまりにも違い過ぎる環境に心が耐えられなかったのは分かる。しかし、死ぬまではなかったのではないか? もっと言ってしまえば、下衆の勘ぐりと嘲笑われてしまうかも知れないが、遺書ありきの自殺とも感じられた。あまりにも(キタハラさん的に)遺書が良く書けたので、妹に死んでもらったのではないか?、という不遜にして不躾な疑問である。あるいは個人的な事情として、どうしても妹の死を描きたかったのかも知れない。その結果として、遺書の文章が研ぎ澄まされ、小説を思い出す時に無くてはならないパートとなったのだ。うーん、どうだろう。真実はわからない。
だが、通して数回繰り返して読んでみると、実に必要なパートだった。キーは、妹の葬式の後の母親との食事を伴った会話と、母との別れ際にその後ろ姿を見送りながら、返事を保留していたゲイビデオへの出演オファーを承諾する電話を掛けるという、読み込んでみると「えっぐい……」シーンに繋がるものだと考えられる。【自分だったら絶対しなかったことをしなくちゃならないという呪い】に対する熊本くんの大きなアンサーにつなげる為の重要なファクターだったという風にとらまえる事が出来た。この件はレビューを書くにあたって、数回読み返して理解できた大切な事ではないかと思う。もちろん、僕個人が「そういう事か!」と思っただけなので、本当かどうかは分からない。遺書はすごいぞ、という事だけが僕がここで言いたいことである。
もっともっと紹介したい所だけれど、あまりにも物語の核心に触れてしまうので、これ以上は難しい。web版で終わったところも凄まじいものがあったが、あの最後に手を繋いだ人は誰だと思いますか? あと、まつりちゃんって、やっぱり熊本くんのことが好きだったのかな? などと極ネタバレをぶっこむスタイル。
というような話をすごくしたいので、ぜひここまで【未読】の人はamazonなり楽天なり近所の本屋さんで、【熊本くんの本棚】を手に入れて欲しいと思う。
そして最終話。
書籍化するにあたって書き足された、終幕にふさわしい見事な最終話である。僕はweb版を一回読んで一発で死んだ人なのだけれど(怖くて二回は読めなかった)、あれ以上の最高の終わり方があるとは想像出来なかった。この書籍化の凄いところは、もちろん第1話の圧倒的な完成度もさる事ながら、この終幕の為に書き下ろした最終話がまた【大変素晴らしい】という事だと思う。題して、
5.熊本くんと私たち
みのりちゃんその後の話である。( ──ッテーン♪)
遅れて鳴ったな。
みのりちゃんは既に三十を前にした重要な年齢であり、書店で働いている。相変わらず本は読まない。出だしからして、大変面白い短編として読める力作である。これは一体、どのようにして生まれたものなのか、大変興味深いところである。だって、web版の「熊本くんの本棚」は綺麗に終わったのだ。あれ以上の終わり方はちょっと無いというくらいに。そこに足された書籍版の書き下ろし【最終話*5.熊本くんと私たち】が比類なき完成度を誇り、全てを包括し、心地よい読了感を与えてくれるとは。web版の原作ファンを楽しませながら、書籍としてさらに完成度を飛躍させた神懸かり的最終話である。これをもってして熊本くんの本棚は終わったという事になるだろう。だから、web版だけしか読んでない人は、絶対に最終話を読まなければならない。一番良いのは購入して読むことだが、この際立ち読みだろうと、図書館だろうと、すっと読む事ができながら、相当なインパクトを残す最終話である。ぜひ、見逃す事がないようにしていただきたい。特に、文芸方面の作品を書いている方は、打ちひしがれる思いがする事だろう。webに投稿している自作の完成度はおそらく、書籍化するにあたっての完成度に読み換えて30とか40位なのかも知れない。必死こいて書きまくってなお、書籍化というものはあまりにも妥協が許されない、不断の努力の結晶であるという事が思い知らされる。
書籍化熊本くんの本棚、大のお勧めです!
書いてるみんな、頑張って書いていこうね。
そうそう、それから、この熊本くんの本棚が刊行された時、僕はカクヨムコン5に出す為の小説に掛り切りになっていて、読むことが出来なかった。「何言ってんだ?」と思われるかも知れないが、書いている時に強い作品を読んでしまうと、引っ張られてしまう事がある(ような気がしていた)のだ。だから僕は熊本くんの本棚を本屋で見かける度に買っていった。キタハラさんとも約束していたので、きっかり五冊、手元に置いてある。お陰で今回レビューを書くにあたって、その内の一冊に思いっきりペンでト書きを書き足したり、ページを折り曲げたりする事が出来た。とっても楽しかった。小説に直に書き込むなんてさ、なかなか出来る事じゃないよね(親近感)
webで衝撃を受けた作品が書籍化し、手にとってレジへ持っていくという瞬間は、とても満ち足りた気分になった。まさに夢の具現化の一部として関われたような気がする。本屋にはしぬほど本があるし、実際のところ見つけるのがとても大変だった。amazonが力を持つのも理解できる。でもやっぱり、本屋で並んでるところが観測できて、本当に嬉しかった。思わず写真も撮ってしまったりした。
時に、カクヨムコン5の結果が先日発表されて、熊本くんの本棚の後に大賞を受賞した小説は
【ナンバーワンキャバ嬢、江戸時代の花魁と体が入れ替わったので、江戸でもナンバーワンを目指してみる~歴女で元ヤンは無敵です~】作者 七沢ゆきの 氏
という事で、残念ながら僕が書いた小説は落選となった。可能であれば、熊本くんの本棚の後釜を担っていきたかったのだけれど(おまえごときが何様のつもりだ、というのは置いておいて)、この受賞作も大変な熱量で書かれた小説で、納得の大賞である。ものすごく面白かった。こちらの刊行も早速今から楽しみだ。ぜひ読んでみていただきたい! リンクが貼れない人で大変申し訳ない。タダで読んでしまうのが申し訳ないくらいの面白さだった。
本当に、webで小説を書くって、面白いと思う。
これからもしっかり読んで、書いて、いつかは夢である自作の映像化を目指していきたい。
ずいぶん長く書いてしまった。ここまで読んでくれた人はいるのだろうか?
それでは、せっかくだから最後は僕が好きな一文の引用で終わりましょう。
え、そこ?っていう文章で申し訳ない。でも、好きなんだよなぁ。
でもね、手伝いがなければ戻れないくらいに弱いなら、そのままおとなしく死にな。
愛だな、って思う。
ちゃんと戻ってくるんだぞ!(誰に言ってるのか)
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
また、どこかでお会いしましょう!
江戸川台ルーペ