「認知の歪み/ビリーフ(信念)/パターン/常識」を持っている、とは、どういうことか?

本日は、本当にただのつぶやき。

認知の歪み
パターン
ビリーフ(信念)
常識

などといわれるものについて。

まあ、簡単に説明を加えておくと

認知の歪みというのは、
例えばではあるが
・入試に落ちてしまった。私は頭が悪いんだ
・(大学)入試に落ちてしまった。私には入れる大学なんかないんだ
・(前略)私はきっと大学に入ってはいけないんだ(入るなというお告げだ)。
・Aさんに挨拶をしたらそっぽを向いたまま通り過ぎられてしまった。私はAさんに嫌われたんだ。
・Aさんに(略)。私はみんなに無視されるんだよなあ
・私は~だ(特に、私は醜いんだ、だとか、私は預言者だ、だとか)

…最後に挙げたのはどちらかと言えば妄想の類に入ってしまうかもしれないが…
ともかく、「事実」ではない、もしくは「事実」とは限らないものなのに、誇大に(一般化して)捉えたり過小に捉えたり、自分を決めつけ自分にレッテル(名札)を貼ってしまう(アイデンティティを一面化制限しているとも言える)など。
生きるにあたって自分が不利であってもどうにも変えられない考え方、であったり。
(なるべく語弊がないように説明していくとやはりひとつひとつも深くなるので今回の記事では全て大雑把な説明をしていく)

パターンというのは、
なぜかいつもこうなってしまう…
例えば、なぜか毎晩夫婦喧嘩になってしまう、とか、
友達がせっかくできたのになぜかいっつも何らかで縁が切れてしまう、とか、
母親に叱られるとついついいっつも身体がこう反応してしまう、「~」と言われるとつい毎回「☆☆」と言い返してしまう
職場でなぜだかいつも同じミスをしてしまう、
毎晩、早く寝ようとしているのについついなんだかんだ遅くなってしまう

などなど。
(ちなみに他の私の記事も読まれている方は、これらのパターンの裏には交流分析で言う「心理ゲーム」が隠れている場合が非常に多い)

ビリーフ(信念)というのは、
これまた全員が全員そう(事実)かとは限らないにも拘わらず、
「女は大抵、方向音痴だ」
「男は潔いものだ」
「最近の若者はけじめがなっとらん」
「待ち合わせの時間は守るものだ(何が何でも守れ”ねば”ならない)」
「~ねばならない、~してはならない」

など。
信念は、自分の人生に建設的に働けば「義」となる。
ちなみに私は別に今回の記事で、「人生の邪魔になるもの」を挙げているわけでも「問題」を挙げているわけでもないので、先程のパターンにしても自分の人生に建設的に働けばいわゆる「ルーティン」になる。”認知の歪み”は、そもそも心理学用語で特に人生に不利益に働くものをわざわざ指す言葉ではあるが。
”認知の歪み”も、”パターン”も、”ビリーフ(信念)”も、自分の人生に何か足枷になっているように感じる(つまりどこかしら建設的でなく働いている)ものについては、これが自分の中に組み上がっている下(裏、土台)に、交流分析的な言い方をすれば負の人生脚本プログラムがある。このプログラムにより、どうしようもないがなぜかつい手放せない認知の歪みやビリーフ、パターンが作られざるを得なくなっているわけだ(因みに”パターン”は交流分析的には”心理ゲームやラケット”、ビリーフは”ディスカウント(値引き←自分の可能性を無視している状態)”という概念に当て嵌まり、これらは自分の人生に不利となる負の人生脚本のプログラムを強化推進するものである)

ただ、それとは逆に、
常識
とは。
これも、実は全員、全文化、全時代がそうとは限らないが、自分が身を置く周りで大多数が持っている信念(ビリーフ)は、常識扱いされていく傾向がある。
また、そこには、自分を身を置く周りで大多数が持っている(と自分が感じている)信念、も含まれる。
特に「多様化」が騒がれる現代、どれが常識か?常識とは何か?というような話題も随分出てくる。


認知の歪みにしても、パターンにしても、ビリーフにしても、常識にしても、
記事でこのように書くと、一見わかりやすいように感じたり、「あ、私はこれあるな」「私はこんなのないよ」などと思われることもあるだろう。

しかし、この4つの特徴として、”本人”は、自分の中にこれらがあることに気付いていない場合が非常に多い。
どれもあまりに当たり前に持っている場合がほとんどであるし、そもそもまずは自分の中にある「認識」や「考え方」をすべて知っている(自覚できる)人はまず存在しない。
自分の中に腎臓がある、自分の中に肺があり、あっ今空気が入っている、肺胞が今どんどん膨らんでいる!自分には手足がついている!などといつも常に自覚しながら過ごしている人はまずいないだろう。あまりに当たり前に自分に組み込まれているものには、気付かないものなのだ。

また、この4つ、もうひとつ共通点がある。
それは、「ものごとの一面のみをピックアップ(意識・執着)している」状態であること。


私がこの記事で何をつぶやきたかったのか。
セラピストや心理学では(いや他の世界でも)、これらを
認知の歪み、とか、パターン、とか、ビリーフ、とか、常識、とか言う。
つまり、「認知の歪みがある」とか、「ある、持っている」という認識をする。

しかし、そうすると、もしこれらが人生を阻害しているもの(本人の人生にとって不利益に働いているもの)であった時、
では、「これを取って行こう」という考え方、言い方、認識の仕方になってしまうのだ。

もちろん、そういう目標の持たせ方が有効である時もあるのだが。
しかし、前提として、心理セラピストたちもついつい、こういうものにこういう「名前(レッテル)」がついてしまっているがゆえに、これが「ある」という角度からいつの間にか物事を考えていやすい。
これ自体も認知の歪み・パターン・ビリーフ・常識、である。

私は思う。
この4つには、もうひとつ共通点がある。
先程の裏返しに過ぎないのだが、「まだ他の可能性が見えていない」だけなのである。
そして、「可能性」というのは、別に外の道端に落ちて転がっているようなものではなく、すべて、「ひとりひとりの中に」ある。
つまり、自分の中が砂浜のようなものであったと想像してみたとして、その中でたくさんの砂があり、見渡す限り砂漠かもしれない、砂が舞っているかもしれない。その中で、”自分の目に”ふと留まりやすい貝殻があった。だからこの貝殻ばかりにフォーカスして、いつの間にかこの貝殻しかない、というような見え方になっているだけ、というような状態なのだ。しかし、あなたがこの貝殻ばかり見ているだけで、少し視線をうつせば他にもこの広い砂浜には、無数の貝殻、もっと小さなものももっと大きなものもたくさん転がっている。砂に埋もれているものもあるかもしれないし、今は砂が舞っているだけで実は目の前に宝石のような貝殻が大量にあるかもしれない。

その可能性の中には、別に
「最近の若い者はけじめがなっとらん(と見える一面がある)」という面があっても構わないし、
「約束したらその時間に何が何でも間に合わねば」という面があっても、
構わないのである。

問題は、別に認知の歪みがあることとかパターン、ビリーフ、常識があることではなく、「それしか見えていない状態になってしまっていること」なのであるから(でしかないのだから)、

「最近の若い者はけじめがなっとらん」という思い込み(ビリーフ)をとっていきましょうね→「とらねばならない」、これまた強烈な人生に不利なビリーフとして発展してしまう。
「良い」の「悪い」のと決めつけるのも、あなたの信念(ビリーフ)なのである。世の中に良いだとか悪いだとかいう絶対値は実は存在しない(あなたや他者が作り出してホログラフィーを映すようにそこにあると見せかけているだけで)。
それはそれで、あっても良いのだ。今、それがあなたの中に見えている。1つ「見えている」というだけで立派なことであり、それが今のあなたなのだから。

では、その上で、更にあなたの中にあるものが、実はもっともっといっぱいあるのだ、ということを、知って生きたい。
それだけでも、人生は宝探しの旅と化す。
あなたの中には、それと同時に、「若い者の中にもなかなか礼儀正しくて捨てたもんじゃないやつがいる」というものも、あるかもしれない(いや、「最近の若い者は~」と言っている時点で、説明は割愛するが、両方、いやもっと、あると考えられる)。
「約束をしたら、何が何でも間に合わねば」これも、あって構わない。
その上で、更に、あなたの中には実はもっといろいろなものがあるから。例えば、あなたの中から、「道路を渡る時には自分の身の安全をはかる」という可能性を発見すれば、時間を間に合わせようとはしながらも身の安全をはかることができるようになっていく。

「自分は~だ」とレッテルをついつい貼ってしまう。それも良い。
しかし、もしそのレッテルが苦しいならば、そのレッテルだけに拘らなければ良い。あなたは、そのレッテルだけがあなたの存在ではない。
発達障碍の診断を持っていたら、あなたは「発達障碍」か。あなたはあなただ。そのレッテルがあったにしてもなかったにしても、あなた自身がそのレッテルを大きく見過ぎない方が良い。少々裏返しても物を言うと、そのレッテルにしがみついて頼りすぎない方が良い。自分にレッテルを貼ってそのレッテルに固執してしまう人は、「自分」というものをまだ知らず、自分がまだ頼りなく存在が良くわからないように感じられてしまうから、逆に「自分はこうなんだ、ああなんだ」と、我が強い「フリ」をする。
しかし、あなたの中には、あなたが今思っているより10万も1000万も1億もラベルを持っている。いや、「あなた」というものを持っている。中身のない人間など決していないのだ。
だから、それを見つけて行かないか。

もっといろいろと記事としていくらでも膨らむのだが、本日は非常に乱雑ながら小出しの記事とする、という、己の可能性(レッテル)を、使ってみようと思う。


ちなみに、交流分析は、このように「自分の閉ざしている、自分で見えないようにしてしまっている”可能性”を己の中にどんどん見つけていく、増やしていく」という考え方の上に成り立っている。
エゴグラムだとかOK牧場、人生脚本などでも触りだけをご存知な人には交流分析は「全てをパターンに当てはめる」学問だと思われていやすい(レッテルを貼られていやすい)傾向があるのだが…。

「問題を解決する、緩和する」という言い方も、私も確かに今のこの時代この言語でわかりやすく伝わるために使ってはいるが、「問題」など存在しないという言い方もできるわけだ。
「問題」を「問題」として扱えば、それは「問題」として存在し居座るようになる。セラピストがむやみやたらにそれを具現化させてクライアントを押し付けて良いものではないという物の見方が、私の中にある。
(まあ、もちろん”セラピストは”問題を問題としてカルテにしたりセラピー方針を定める必要はあるわけだが、あくまでそれをクライアントにまで認識させ自分に名札をつけさせ共有する必要はないのではないか、という意味である)
いずれにしても私は、個々が、僅かでも少しでもご自身の中の可能性という、無数のあなたの中に転がっている原石に気が付き、あなた(本人)の自由のままにそれらの中から選んで使い、ご自身の人生をご自身の人生とする、そのお手伝いをするし、したいと思っているし、セラピストといわれる者のすることはそこであると思っている。
という、私の一面をもこの場にて小出しにさせていただいた。

そんな私の一面、他の一面にもご興味をいただけたら、他の記事やWebsiteなどにも、ぜひ遊びに来ていただきたいと思う。


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