現代日本人に蔓延する見えざる危機/私個人の本年の方向性
私のなりふり構わぬスタンスのセラピーのやり方は(なりふり構わないという言葉に当て嵌まるのだろうなということすら、実は最近自覚してきた)、私にとって、恐らく変えようと思ってもなかなか変わるものではないだろう。
ある程度変えることは可能だが、そもそものベーススタンスは私自身の奥底が、変えるつもりがないからだ。
これは、どうしても自身の奥底を見て、痛感せざるを得ない。
私が生きている、私がセラピストをいつの間にかやっている理由そのものであるから。
そうである限り、例え表面的にどんなにセラピールームのWebsiteなど作り増やしても作り変えても、きっと、来るクライアントさんの系統は基本的に変わらないことだろう。
私自身はもっと単純な方法で経験と実績とデータが欲しい。
が、私はどうせまともな研修をしようにも、きっとその場のクライアントさんの潜在意識の医師の声に従い、イレギュラーな方法をとるのだろう、きっと。
そして、そういうセラピー手法、そしてセラピー予約などの事務的場面や何気ないあいさつ程度の会話、クライアントの日常生活にまで深く絡み組み付いたようなセラピースタンスをとるセラピストは恐らく滅多にいない…
しかし、魂の深いレベルに絡みついた精神疾患の場合、医学や科学だけでは対応しきれない。そういうセラピーでなければ効果にならない。
そして、深い愛着やら解離やら複雑性PTSDやら強迫やらパーソナリティ障害やらを抱えた人たちは、そして例え病識のない人たちですら…その潜在意識が、そういうスタンスのセラピストでなければだめだと、結果的に私のもとに来られることになるのだろう。
そうである限りは、私はもう、本当にブラックジャック方式で行くしかない(私は以前よりクライアントさんたちに心理のブラックジャックと称されることがある…)。
複雑で難しい医学的措置との連携が(現代の社会的には)どうしても不可欠であるならば、医師に繋げねばならない。しかし医師は基本的に多くの場合フリーの心理療法家と連携はできない(そもそも心理療法やましてや催眠療法には精通していないため責任問題として請け負うことができない、どうせ責任など実などないわけだが)。
かといって、医師にもかかりようがなく本当に今の自分に必要なことがわからずどこに行ったらいいのかわからない、自分の可能性が見えなくなってしまっている人は、社会的には福祉相談員を利用すべきということになり、そちらに繋がねばならなくなってしまう。
しかし、どちらに行っても本質が深く複雑に絡んでしまっている場合、本当に彼らに適切なところへ繋いでもらえない。
これは限りなく際どい。
究極哲学と向き合う倫理問題だ。
しかも、クライアントさん本人は、何もわかっていないのだから。
それでも、本当にどうしても私の手法でなければ僅かな打開策すら見えない、藁をも縋る状態でどうにもならない、自分から手を伸ばすことも、どこへ伸ばせば良いのかもわからない、ましてや悪化する一方でもはや行き場がない、という究極の瀬戸際の問題を抱えた人向けとして、24年度から非公開でのクライアント受け容れシステムを作り変えた。
その上で、本当にその必要性のふるいを私自身精巧精密に磨いて、それ以外のクライアントさん都合で私を選んで下さる方には、通常セッション(こちらも初回を受けるまでは非公開だが)を提供しよう。それでやはりいらないと言えば、その人にはそこまで私の手法は必要とされていないということだ。
(これは、実はセラピスト側の私がふるいにかけているのではなく、クライアントさんこそが私を自分のふるいにかけている。金銭枠、時間枠、クライアント側から1回毎に予約を入れるシステム、などは、実は絶対的な数値や敷居などではなく、クライアントさんが自分自身の問題解決のために”それ以上”のものを得よう受け取ろうとする必要性を引き出すためのもの…クライアントさんの中に、それだけの”必要性”があれば、必ず出てくる。逆に、セラピスト側から勧めたり進めたり、クライアントさんの中の必要性が実はそこまでなかったりすると、例えその分の時間枠金銭枠をとってきても、クライアントさん自身が絶対に”それだけの分”しか受け取らない。19世紀から心理の巨匠たちが軒並み口を酸っぱくして伝えてきたこの鉄の掟は、深い複雑なクライアントさんを何年か、何人もやるようになってきてから、やっと本当の、真の意味が体感でわかるようになってくるものだということがわかった)
そうでなくともブラックジャックと違い、通常セッションですらも通常のセラピストより割合的には安価なのだから。
ここを割り切った上で、大半を養成業務に変えていこう。
寧ろ、ここを割り切ることができなければ、私の自分で不思議なほどのラポール形成の速さ・深さが、私でなく寧ろクライアントさんにとって仇になる。
そうでなくとも私のスタンスと手法は、クライアントさんの深く強烈な転移感情やクライアントさんの症状を利用し逆手に使うことを主流としたと言って良いほど、際どいことをしているのだから。
…私はこれすらも今まで、こんな手法とスタンス、寧ろ学生時代から当たり前で、最近になるまで客観的な切り分けができていなかった。
私のクライアントさん達が通常の医師にどんな不当な酷い見捨てられ方を当然のようにされてきたかを、知るまでは。
私がよほど通常の医師やセラピストには詳細を話してもメカニズムを理解されないような手法をごく自然に当たり前のような感覚で使ってきたか、気付かされるまでは。
しかし、こんな形では、結局のところそれほどにどうしても私の方法でなければ、もしくは私でなければなぜだかラポールもとれないというようなクライアントさんでなければ、恐らく逆に私には寄り付かなくなるだろう。
あまり深い問題を持っていない、もしくは深い問題があったとしてもそれを隠すことで生きている人は、深い見解知見で見る眼のセラピストには、見られたくないからだ。実際、私のクライアントさんたちは、「カウンセリングを受けているだけで何だかこそばゆくてくすぐったい」「全て見透かされているような気がする」「全部お見通し」などと言う。
そこまで貫かれなければわからないほど深く複雑で、それでなければ救いを見出せない人は、その私に対して「やっとわかってもらえた気がする」と(本人は顕在意識としてはなぜそうなのか、自分からなぜそんな言葉が出るのかすらわかっていないのだが)言う。
また、私のクライアントさんで、非公開受け容れシステム(を利用したいと言うので)について説明した時、どんな人に向けてどんなスタンスで何のために設置しているものか話した時、「こわーい」と反応をした人がいた。その人自身、対人支援には関心をお持ちで、実質の内容としては全く同じようなシステムや役割が世の中には必要だと、自分から力説していた人でもあったにも拘わらず。
同時に、このシステムを利用することを本当の意味で必要としているであろうクライアントさんは、自分にどのセッションが合うか必要かすらわからない状態であるのにも拘わらず、これを説明したとき、「本当にその通りだ」と、共感の反応をする。「それでなければ受け容れシステムの意味がないし、本当に必要とする人たちはそれでやっと自分の問題と向き合い一筋の光を見出すことができる」というような。
表面に見えるものやクライアントさん本人の自覚の違う、このような真の本人が秘めた(欲している)必要性の違いというものは、簡単なカウンセリングでは非常に難しい。
私としてもいずれにせよ僅かに深いクライアントを受け容れてしまえば、結局は日に何人もクライアントさんがいらしたとしたら難しくないクライアントさんにも手が回らなくなるし私自身まいってしまう。
人生のタイムラインとしても、ここらで、私のスタンスはともかく私の手法や私の考え方、認知のリフレーミングの仕方、心身の歪みの改善からそれら全てがひとつに繋がる(何百通りもの膨大な角度から説明されることができる)理屈などに至るまで…
伝えて、本当にそれらによる命綱が不可欠な人たちに手法を使うことのできる人手を育てる方に移行した方が良い。
つい先日、ある人が、自分の身体への裏切り行為をしてしまい、自分が苦しくなり、しかし本当に素直にそれに気付いた。が、身体に謝って自分の身体と仲直りしようと言った時、「どうすれば良いのか」と聞かれた。
自分自身と仲良くなり、自分自身に謝ったり労ったりする方法すらわからなければ、「他者」となど、決して対等な心地良い関係性を持つことなどできない。
自分自身に謝り自分自身と仲直りすることすら、「他者」に聞く。
そして、自分自身と仲良く自分自身と一致した(この言い方自体おかしな印象を受けてしまう程不思議だが)方向を向く方法、自分自身と意思疎通をとる方法、自分をコントロールする方法、たった一言自分に挨拶する(それだけで身体は涙を流すほど喜ぶ…それほど現代人は自分で自分を見捨てている)…たったそれだけの方法ですらも、「何か特別な能力を持った他者が教えてくれる特殊技術」のように当たり前に思われている現代日本の現状。
この実態が、もはや当たり前のように感じる人が多く見過ごされている。
この実態が、如何に狂ったものか。
それがわかる、それに気付く人たちと関わり合いたい。
この狂った現代世界の惨状。
そしてこれのダメージを受けているのはまさに今の我々自身。
…どころか、これをダメージとすらわからなくなっている人たちさえも増えてきている現状。
今、何とかせねばと、思わないものか。
自分自身が生きている一回きりの人生の間に、自分と繋がり自分自身が本当に自分の存在という宇宙一の癒しを受けてみたいと。
「好きなこと・したいことって、して生きていいものだったんですか?!」
私のセッションに既に1年程通いながら、会話の中である時突然びっくりしたように聞いたクライアントもいる。
今まで何十年も、五体満足で五感もちゃんと見え、聞こえ、におい、味わい、感じてきたつもりでいた人が、私の初回カウンセリングを受けた途端、まるで目が見えたことがなかった人が手術で初めて見えるようになって初めて見る・聞く・嗅ぐ・味わう・感じるという経験をしたかのような反応をしたクライアントもあった。
実際にもう何十年も当たり前のように麻痺したようによくわからなくなっていた(けれども通常には全く五体満足に生活していた)半身が、初回カウンセリングでオンラインで話していただけで、いつの間にかいきなり流れて機能し出した人もいる。
…ひとりは嫌なのに、独りになる方向へ突っ走るひともいる。
これは、独りになることで、自分自身としか関わることができない自分自身と向き合い自分自身と会話し自分自身の存在に気付き感じ抱き合うしかない環境に顕在意識に行かせ、自分自身に自分自身の存在を思い出させることで本当に「ひとりではない」ことを知る…、ひとりが嫌だからこそ、自分自身が自分自身を見捨てていることに気付いてくれ、ひとりじゃないことに気付いてくれという、自分自身から自分自身に対する強硬手段。
日本を今一度洗濯いたしたく申し候也。
どうしたら伝わるような言語化ができるのかはわからない。
しかしそんな暇にすらも。
そもそもそこまで、そこまで言語化せずとも、自分で自分とコミュニケーションするのに他者に聞かねばわからない、交錯した混沌とした、これを狂っていると気付く人はいるだろう。
私がよほど本気で宇宙から来てしまったのでなければ。
気付く人と関わり合いたい。
気付くことのできる人たちに、共有でき得るものをすべて明け渡したい。
ただ単に、2024年の抱負として。
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