本当の自分とひとつになる
映画『竜とそばかすの姫』を観てきました。
美しい映像や音楽も素晴らしかったけど、ストーリーに心が揺さぶられ、感動しました。
今の自分と重なり、心に刺さる。
現代を生きる私たちは、ほとんどの人がこのストーリーに自分を重ねられるのではないかと思う。
カミシンのように、一人であっても天真爛漫に、自分の想いを現実世界で体現できる人は、まだ少ないように思うから。
本当の自分の想いを隠した結果、本当の自分は誰なのか分からない。
隠した想いさえ、何だったのか分からない。
本当の自分の想いを知りたい。
いや、本当の自分の想いを思い出したい。
主人公のすずは、母の死をきっかけに大好きだった歌を歌うことができず、父と話せなくなっていた。
ある日、親友に誘われ、すずは、もうひとつの現実と呼ばれるインターネット上の仮想世界<U(ユー)>に「ベル」と名付けたキャラクターで参加することになる。
<U>では自然と歌うことができたすず(ベル)は、自ら作った歌を披露し続けていくうちに、あっという間に世界中の人気者になっていく。
そして、竜の姿をした謎の存在がベルの前に現れる。
乱暴で傲慢な竜。
その竜が抱える大きな傷の秘密を知りたいと近づくベル。
現実世界の片隅に生きるすずの声は、たった一人の「誰か」に届くのか。
二つの世界がひとつになる時、奇跡が生まれる。
仮想世界と現実世界
映画の物語に限らず、実際に二つの世界を生きている私たち
もうひとりの自分
もうひとつの現実
もう、世界はひとりひとつじゃない。
本当のあなたは誰?
どっちが本当のあなた?
本当の姿が知りたい、仮想ではなく、真実の姿が知りたい。
これは、人の普遍的な欲求だと思う。
本当のあなた(自分)とここに存在しているあなた(自分)は、どう乖離してしまったのか?
仮想世界で演じている自分(あなた)と現実世界で生きている自分(私)
自分の本音と建前を使い分けられているのならば、それでいいと思う。
本音を知ったうえでなら、ひとりの自分で二つの世界を生きられるから。
でも、一度、本音を見失ってしまったならば、それを取り戻す必要があるだろう。
本音を見失ったとき、「あなた」と「私」のどっちが本当の自分なのか分からず、心が重く、苦しい。
本音を自分に取り戻すために、二つの世界に生きる自分をひとつに統合する。
ひとりの自分に還るための大事なプロセスだ。
現実のすずが勇気を出して、ベルが素顔を晒す。
仮想のベルからすずへ、そして、本物のベルになり、世界が感動する。
すずとベルが一体化した瞬間。
とても感動的なシーンで、とても美しい。
これからの時代は、建前の世界をつくる必要はないと思う。
インターネットという仮想世界でも、本音で生きればいい。
本当の自分を表現すればいいと思う。
本当の姿が最高に美しいのだから。
本当の姿が人を感動させられるのだから。
歌姫ベルと竜が心を通わせるシーンは、
エゴの自分と高次元の自分(魂)との対話のようにも感じられた。
あらゆるものがすごいスピードで変化し続けている現代であっても、ずっと変わることのない大切なものはある。いつもの時代も変わらない。
心に寄り添い、心のそばにいる。
それは、自分自身の心かも知れないし、大切な人の心かも知れない。
すずの本当の想いは、現実の物質世界では叶わないが、目に見えないもうひとつの世界では叶っていると思う。
幼馴染のしのぶくんや周りの人たちによって、すずはいつも見守られ、母に会っていると感じた。
『竜とそばかすの姫』は、『美女と野獣』を彷彿とさせる。
ここには細田守監督の意図があったようだ。
細田守監督がインタビューで次のとおり答えている。
『美女と野獣』で描かれている“普遍的なもの”を現代に表現したいと思って『竜とそばかすの姫』を作りました。
現代の野獣や美女はどういうものか、どういうものに抑圧を受けて、どういうふうに開放されたいのか。
インターネットっていうのは二重性が基本ですよね。つまり“ネットの中の自分”と“現実の自分”が常にいるわけじゃないですか。それがもう野獣的ですよね。
そうやって考えているうちに、ひょっとしたらインターネットの世界を使えば、現代の『美女と野獣』というコンセプトをより上手いこと表現できるんじゃないか……? って思いついたのが3年くらい前になります。
この作品は、美女は「しのぶくん」で、野獣は「すず」だ。
ふたりの関係性が、この作品の真髄でもあるように思う。
何度でも観たい映画の一つになった。