
『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』(フェルナン・ブローデル) ‐余裕と日常:全世界の家屋〜室内
フランスの歴史学者、ブローデルの「日常性の構造」を読んでいくオンライン読書会の第9回目。今回は家屋と室内について思考の旅をする。
<概要>
全世界の家屋
15−18世紀にかけての家屋の特徴を概観する。家屋は全てその土地の伝統的な模範に則って建築・改築される。いたるところで習慣・伝統がものを言う。つまり家はどこにある家であろうと持続してきたのであり、執拗に保全し、維持し、繰り返そうとする文明・文化が緩慢にしか変わらない証言でもある。
建築材料は切り石・煉瓦・木材・土があるが、地域によって選択肢が拘束される。石は高価なため石を練り込んだ土が用いられた。パリを始め石造都市もほとんど最初は木造であり、17世紀で防火のための強制・助成で変化していったがあくまで瓦は富裕層で、ほとんどが藁屋根だった。同時期にロンドンやアムステルダムでも煉瓦建築へ移行していった。材料はこのように変遷した。森林が豊かな北部やライン川流域では木材が主流で森林が不足する地域では土・粘土・藁。
農村は基本木材と藁屋根の広い建物に動物と人間が同居していた。石切場や森林への立ち入りは制限されていて許可なく家の建築・修理はできなかった。
都市では貧乏人は惨めで地下室のような中二階や最上階に住んだ。階層が上の方が社会的身分は下がった。基本職住は一体で職人や徒弟も仕事場のある家に住んでいたが、18世紀には金持ちの職住が分離した。中国でも。西欧に限らず各地で富裕層は農村に投資して居宅や別荘を構え、農村は都市の植民地化した。
中国では木材・練土が主流だったが都市と農村の特権階級では煉瓦、城壁は石造で宮廷では大理石と木材を併用されていた。
煉瓦でも土でも骨組みは木だった。中国(や日本でも)建造は«土木工事»と呼ぶように。中国文化圏では相対的に堅い材料(木、竹など)を用いて地面に家を建てたが東南アジアは杭の上に軽い材料(木舞・荒壁土・茅や藁葺き屋根)になった。中国の建物の堅固さは背景の生活の堅固さゆえか。
イスラムでも煉瓦などの硬い材料を用いたが遊牧民は必要ゆえか脆弱な幕屋だった。
室内
内側の光景すなわち室内は貧しいか閉鎖的な文明では変化はなかったが西欧の支配者は間断なく変化した。
貧乏人はほぼ家具が無く、伝統的文明は習慣的舞台装置を守ってきたというのが世界に共通することだ。中国以外では非ヨーロッパ文明は家具は貧弱であり椅子やテーブルはなかった。ただイスラムはローマ帝国から受け継いだ公衆浴場があり日本の室内は優雅・清潔で創意工夫に富む整頓のための空間があった。しかし暖房は貧弱であった。中国では椅子が伝わってから公的な生活では椅子を用い、普段の生活では床に座るようになった。アジアやイスラム圏は正座やあぐらだったがヨーロッパ人は生物的にできなかったことがこの違いとなった。
ヨーロッパでは個性を出そうとした地方色が混じり合い、細分化された文化の象徴として家具は知識(リユミエール)すなわち進歩へ向かった結果、変貌が甚だしいものとなった。特にルネサンスによって技術的・経済的・文化的にも進化したイタリアからの影響が大きかった。暖炉を中心とした室内の各種装飾・家具の充実は客をもてなす(権力等の顕示も兼ねて)空間を中心に変化が大きかった。室内には限りがあったため贅沢欲が家具に向いた。そして時代によって様式も変化したが、重要なのは全体のまとまりだった。
このような家具の充実に比して、照明はガスができるまで鯨油等を用いるか使用していない、浴室も稀に見る贅沢、トイレも川や道に投げ捨てるといった具合だったので都市は不潔だった。
<わかったこと>
欧州の家具や室内装飾の素晴らしさ、統一感などは今日でも今に受け継がれているものであるし、新しい様式などもどんどん生まれてくることの背景を理解できた。一方で、浴室やトイレの貧弱さも今に通じる伝統なのかもしれない。これだけ家具等に意識が向いていったのに、なぜ身体や公共空間の清潔さに意識が向かなかったのかが不思議でならない。
また、生物学的な違いとして正座やあぐらをできなかったとしているが、その違いはどこから生じたのだろうか。床が不潔な空間だからこそ床に座れなかったことが椅子を生み、それらの生活の結果、正座やあぐらをできなくなっていっただけのような気もするが。
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