智頭町タルマーリーとのコラボ企画「これからの“生きる”を考える 菌のリトリート」
はじめに
7/6(土)-7(日)の1泊2日で、鳥取県智頭町にあるタルマーリーさんと「これからの生き方を考える 菌のリトリート」を実施。直前までの雨予報がうそのように晴れ、智頭がみんなを迎え入れてくれているようだった。
タルマーリーが培ってきたこだわりのものづくりを、実際に手を動かして体感し、オーナーの麻里子さんや格さんから、菌が教えてくれたことを聞き、みんなで対話する2日間のリトリートプログラム。
「菌」という目に見えないものから多くのことを学び、そこからよりよい人、自然、社会のあり方を探究し実践しているタルマーリーの皆さんと一緒に過ごした時間は、これからを生きるヒントを与えてくれたように思う。
お二人とお話しをする以外にも、無肥料無農薬の畑で野菜を収穫してタルマーリーの生地で夕食のピザをつくり、パンづくりの現場を見学しパン職人さんにものづくりのこだわりを聞き、余白のある時間の中でみんなでたくさんお話をした。
麻里子さん・格さんから、これまでの苦労や今考えていることを赤裸々にお話しいただく場面もあり、普段は触れることができない等身大のお二人の姿、生き様にも触れることができた。
今回、自分でとった酵母でパンづくりをしている方や、書籍(『腐る経済』、『菌の声を聴け』)を読んで菌や発酵に興味を持った方、これからの生き方やキャリアを考えるヒントになると直感してきた方など、いろんな方が参加してくれた。
みなさん素敵で、いろんな立場の方と語らうことができたことも、場の全体に心地よい刺激をもたらしてくれたように思う。
なにより、美味しかった。楽しかった。そして、暑かった!(夏だ!)
タルマーリーという教材
タルマーリーとは8~9年来のお付き合いで、当時ぼくが行っていた企業研修プログラムの受け入れをお願いしたことが出会いのきっかけだった。
その後も定期的にお話しさせてもらっているが、実践を伴った言葉やそこから生まれた考え方はいつ聞いても面白い。そして、その経験が育んだ「タルマーリー」という存在そのものがとてもユニークであると感じる。
タルマーリーのあり様
パンづくりや発酵の専門的なことは分からないが、タルマーリーがやっていることは、常識から外れた、”ただならぬこと”なのだと、今回改めて感じた。
人の思うとおりに仕事してくれない(=安定しない)野生の菌でパンをつくり、経営を成り立たせることは並大抵のことではない。今はタルマーリー独自の野生の菌を用いた製法を確立しているとは言え、何も見えない中でそれを、えいっと始めてしまうこと自体がすごいことだ。
そこに至るまでの道のりは失敗の連続だったと想像するに難くない。そのような先の見えない状況の中で、その革新的なチャレンジを支え、お店を切り盛りしている麻里子さんのパワーもすごい。
そうやって出来上がってきたタルマーリーの紆余曲折の歴史を聞きながら、お二人が菌からたくさんのことを学ぶことができたのは、いい時も悪い時も、日々と真剣に向き合い、観察と探究、実践と失敗を繰り返してきたからだと感じた。
菌と経済、菌と感情など、どんな角度から話を聞いても、ひとつひとつの言葉に深みがある。
同時に、真剣にものごとに向き合ってきたその姿勢は、ぼくたちに”生きる”ということを問いなおすきっかけをつくってくれたように思う。
タルマーリーが目指しているもの
タルマーリーがやってきたことを一つひとつひも解いていくと、いわばカオスの歴史(カオスだから新しいものが生まれる)とも言えるように思うが、目指していることは極めてシンプルなことなんだと思った。
それは「人の手によるものづくりの価値を見つめなおして、人と自然が調和し共生できる食や環境、社会を一緒につくりませんか?」ということ。
(今に始まったことではないが)現代のものづくりは、経済合理性の追求から、安定的で生産性の高いことが是とされ、スピードや効率を価値として、手間がかかるものは、多くの場合、外に追いやられてしまいがちだ。
一方、人が工業的に生産するスピードとありのままの自然が生み出すスピードとの乖離はどんどん大きくなり、今やその歪みは自然環境に影響を与え、ぼくたちが口にする食べものにも影響を与えている。
ほんの少しだけ昔、先人たちは自然の土から取れたものを使い、出汁や塩、醤油などで味付けをして、一つひとつ手作りして食べていた。日々の営みの中で実践していたものづくりや暮らし、生き方はとてもシンプルだった。
過度なことをせず、あるものを活かす自然との調和した暮らしや生き方は、心身ともに健康だったのではないか。
タルマーリーのパンやビール、ものづくりはそんなことを思い起こさせる、民藝的なものづくりである。
自然からできたものを材料に、極力不要なものは入れずに丁寧にパンやビールをつくる過程は、先人がその昔に普通に行っていたことを、現代にリメイクして実践しているように思えた。
お二人を中心に築きあげてきたタルマーリーという場は、触れるたびにいつも新しい発見をくれる。
タルマーリーは、生きた教材だ。
菌から見えた世界を通して、人と自然の本来の在り方を教えてくれる存在であり、現代社会にあってホンモノを志向するものの一つの生き様を見せてくれる教材である。
職人と身体性
野生の菌を用いた、誰もやったことがないことを理論化し、実際に商品としてものをつくってしまう。他にないそれが故に、自ずと一般的な考え方に則らないものづくりになる。
今回のプログラムでは、ピザづくりやパンづくりの行程、こだわりについて今のタルマーリーを支えるパン職人の晋太郎さんが紹介してくれた。
晋太郎さんは、タルマーリーではたらく前はクライマーとして活動しており、パンづくりの経験は一切ない中でお店に入った。格さんが試行錯誤し理論化した製法を感覚的に掴みながら、日々菌と向き合い、今や自身ならではのエッセンスを交えてパンを作っている。
「タルマーリーのパンづくりは大変。そこが面白いんだけどね。」
そう飄々と語る姿は、8年間培ってきた技術と経験を感じさせたが、晋太郎さんのすごさは、実際のパンづくりの場面を通して、肌で感じとることができた。
パンづくりの行程を一つひとつ丁寧に分かりやすくレクチャーしながら、水分量をしっかり含んだぷにぷにのパン生地をやさしく手早く成型していく様や、生地を触った感触で「いい感じだな」と、手のひらの感覚で生地の最良の状態を掴んでいく様は、見ていて気持ちよかった。
あるタイミングで、参加者に「いい生地ってどう判断するんですか?」と質問され「んー、気持ちいいかどうかかな」と語っていた言葉をそのまま思い出した。タルマーリーのパンたちはこうやって作られているのだ。
職人の世界は頭だけではなく、身体を通して掴んでいくもので、その感覚を日々の観察と実践を通して研ぎ澄ませていくのだと思った。
継承を考えると型化して広く次世代に伝えていくことも大切だと思うけど、何事もマニュアルと論理だけではそれ以上の深みに到達できない。
セオリーに則りながらも、日々の微細な変化を身体で感じ、その都度調整を加えてものをつくる。目に見えない野生なものと付き合っていくからこそ、なおその感覚が重要になってくるのだと思った。
今回の滞在中に「晋太郎のパンは自分を越えてきてると思うよ。」と格さんが言った。また、「ここでしか得られない技術や考え方を直に学べること、本当はお金払ってでも身につけたいと思うことを給料をもらいながらできるなんてこんな機会はない。」と晋太郎さんが語っていた。
身体を通して同じ世界観をみている職人だからこそのお互いのリスペクトを感じた。ひとつの道を究めた(究めようと求道する)2人の言葉から、本当の意味での師弟とはそういう関係なのかもしれないと思った。
場をひらくということ
「それぞれが、その人として在ること。」
ぼくが場をひらくときに、大切にしていることだ。
そのために大切なのは、機械的な時間概念の中で決められた通り動くのではなく、その場にいる人たちの感受性や興味のアンテナに合わせて、ゆるやかに、呼吸するように、やることや時間の流れが変わっていく場を受容することである。
余白のある体験、余白があるからこそ生まれてくる動的な生きている場。
生きている場は、そこにいる人の表情をいきいきとさせる。
そこでは、自ずとみな「変な人」になる。
変というのは「社会的な枠組みに照らし合わせた自分ではなく、力みのない本来の自分のあり方を生きている」ということ。ある意味、正常な状態である。
一方、社会の中では”変な自分”であろうとすると、社会との接続点を模索し悩み続けることになりがちだ。
ありのままの自己を生きるということは、とても尊く、そして、時に残酷だ。もしかすると、そのどちらも受けとめて(時に受け流しながら)折り合いながら、柳の木のようにしなやかに生きていくことが、本当の意味でありのまま生きるということなのかもしれない。
今回参加してくれた皆さんの顔が、1日、2日と経過していくにつれて柔和な表情になり、力みなく自然体で過ごしていた様子を見ていて嬉しくなった。
最後に
2日目は7月7日、七夕の日。昼食をみたき園で取らせてもらったときに、女将さんが「今日は七夕でしょう。短冊に願いごとをみなさん書いて。ね。」と言ってくれたので、最後に全員で願いごとを書いた。
各々が、願いごとを短冊に認めている中、参加者のお子さん(5歳)が短冊にこんなことを書いていた。
「今年もあじさいが、咲きますように。」
心が震えた。「ああ、こういうことだよな」と、すべてがすこーんと爽快にふっとんだ。最後の最後に「自分たちにとって、生きるとは何か?」ということを、やさしく、無邪気に教えてくれたような気がした。