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消費と自己表現ーーユーミンというアイコン(「音楽に政治を持ち込むな」を再考する)

本論稿は、大学生である私が学士論文として執筆したものの第三章にあたる。本論は、私の個人的な政治と音楽に関する興味に端を発している。「音楽に政治を持ち込むな」という言葉が発されることがあるらしい。どこの誰が発しているものなのか、正直わからない。しかし、TwitterのTL上においては論争になっていたと記憶する。そのような言葉が仮に発されていなくても、そのように思っているどこかの誰かがいるのだろうと、想像されているように思われる。私はこの「音楽に政治を持ち込むな」という言葉、そのような言葉を発する仮想敵を想像してしまう人々が存在し、論争となっているこの状況に対し、そのような状況が当たり前ではなく、そうではない状況もあり得たことを示したい。第1章においては政治とフォークソングという音楽の強い結びつきについて示した。第2章においては、その結びつきが崩れていくような状況を吉田拓郎、井上陽水、松任谷(荒井)由美に関する資料を引き、どのようなものであったのか、確認した。今回第3章においては、最初に「政治と結びつきをもつ若者文化である対抗文化が、脱政治化され、爛熟した消費社会と結びついていった」という語り口を紹介し、その語り口に沿うものとして松任谷(荒井)由美のリスナーの実践について確認し、消費を絡めて若者に新たな生き方が生まれていることを記述する。

この章では、私の個人的な関心として、人々の間で「自己」にまつわるイメージがどのようなものとして変遷しているかという疑問のようなものが念頭に置かれている。起業だとか学生団体だとかなんだとかしている意識高い系の学生が口にした「自己実現」、パリコレブランドの服に袖を通し、古着で一点モノのアイテムを身につける者がよく言っていた「自己表現」、今回は後者のような感覚が誕生した時代に置ける「自己」についての話である。現在大学生の私にとって、服などを「消費する」ことによって「自己が表現できる」という世界設定は「ひどい嘘」である。しかし私はその世界設定を内面化し、素朴に信じていた。古着、音楽、映画、漫画、、、サブカルチャー、ポップカルチャーに精通し、「消費する」ことで自らについて表現できると思い込んできた。その結果「サブカルクソ野郎」になっていた。なぜ「サブカル野郎」ではなく、「サブカル”クソ”野郎」と我々は表現するのか、それはこの第3章と第4章を通じて応答を試みたい。今回は「自己表現」に関する世界設定が構成されていく時代の若者の話である。「消費による自己表現」は確かに魅力的なのだ。しかし今現在の私にとっては、それは「政治的」なフォークゲリラ運動と比較して、世界と接点を持たず、何もできないヤツの虚しい営みに思えるのだ。私の「消費による自己実現」の「虚しさ」のようなものは、どのようなところに端を発しているのかそれを知るべく、私は80年代の若者の感覚へと迫る。

第3章 音楽と若者の新たな関係〜ユーミンと消費と個性〜

第1節 消費とユーミン

ここまでアングラフォークと比較し、私生活フォークやニューミュージック、ユーミンの曲などは政治性がなくなっており、フォークゲリラのような政治と若者と音楽が結びつきうる状況が消えていったことがわかった。ここからはユーミンの曲と結びついて、消費を通じた若者の新たな生のあり方が生まれていたことを記述していく。まずはこれまでの流れをまとめるべく引用を行う。社会学者の上野千鶴子、文学博士であり歴史研究者である成田龍一、日本文学者の小森陽一による鼎談を見ていきたい。以下はフォークゲリラなど対抗文化が1972年以降に不可能になっていくような状況について語られている箇所である。


上野「対抗文化が脱政治化していった契機には、一九七二年があったと考えざるを得ません。あさま山荘事件の起きた一九七二年は見田宗介さんの用語を借りれば、「理想の時代の終わり」でした。この事件で、理想主義の息の根を止められてしまった。革命的連帯を叫んでいた人たちのあいだで、合意によるリンチ殺人が行われてしまったわけですから」
(中略)
成田「体制に、距離こそあれ「ノー」と言っていた姿勢が、以後、サーッと引いて行ってしまいました。これまで対抗としての意味を押し出していたものが、自閉したり脱政治化していきました。カウンターカルチャーでなく、サブカルチャーという言い方がなされてきたのもこの頃のことではないでしょうか」(成田編,2009:31)
岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著 2009「ガイドマップ60・70年代」『戦後日本スタディーズ②』p9-45紀伊國屋書店


また新宿西口フォークゲリラを引き合いに対抗文化が消費財化されたというような語りがなされる。


小森「先ほどの新宿西口広場が奪い去られたのは、ある種の象徴的な比喩になると思いますが、対抗する文化が新たに生まれても、表現がきわめて限定されて、まさに文化財ではなく、消費財化させられていく事態が一気に進行したように思います」
上野「対抗文化をも消費財化していくことが消費社会の爛熟と結びついたということですね」(成田編,2009:32)
岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著 2009「ガイドマップ60・70年代」『戦後日本スタディーズ②』p9-45紀伊國屋書店


政治と結びつき、プロテストを行い、反体制を掲げるような対抗文化についての語りがなされる。1972年の連合赤軍による「あさま山荘」事件、そして判明した連合赤軍内部におけるメンバー間の暴力、殺人が明るみに出たことがきっかけとなり、対抗文化が不可能になっていったことが語られる。また対抗文化は「脱政治化」「自閉」していったとされる。そしてアングラフォークやフォークゲリラのようなフォークソングも対抗文化として捉えられている。「脱政治化」はここまでで描いたフォークソングが政治と距離を置くようになる過程と重なるような記述である。「自閉」は「傘がない」のような私生活フォークに見られるような態度と重なる。ユーミンの曲がプロテストソングとしては解釈されていない、文化に政治性を見出さないような態度もこの記述と重なってくる。ではここの鼎談で語られている、文化が消費財化され、「対抗文化をも消費財化していく」ことが「消費社会の爛熟と結びつく」というような語り口、対抗文化あるいは文化が消費社会に回収されるというような語り口は、具体的にどのようなことであったのだろうか。この語り口をきっかけとして、ユーミンと消費、さらにはユーミンに関する語りから垣間見える若者の新しい生き方について見ていきたい。

ユーミンの曲と消費の関係を紐解いていくにあたり、まずは経済学者でありかつ音楽評論を行う篠原章と酒井の文章を引用する。


「殺風景な中央高速がリゾートハイウェイに変身したり(「中央フリーウェイ」)、マザコン男が女の子に守られたり(「守ってあげたい」)、恋人がサンタクロースになったり(「恋人がサンタクロース」)とさまざまな恋愛パターンを描きながら、1億総中流化の担い手だった都市中間層の欲望を先取りするライフスタイルを提示し、ユーミンは高度大衆消費社会を引っぱってきた[1]」
「ユーミンの21世紀」『別冊宝島音楽誌が書かないJポップ批評16』2001年12月、p 158、宝島社


「八〇年代は、目に見える世界を豊かにすることが大切、という時代でした。できるだけ素敵なものを、できるだけたくさん所持したい。できるだけ条件の良い素敵な人と、恋愛したい。まさにそれは物質的な時代であり、私達は物質的豊かさが与えてくれる楽しさを、疑いなく享受していたのです。ユーミンはそんな物質的に豊かな社会を象徴するようなミュージシャンであると見られていました。スキー、サーフィン、ドライブ ・・・・・・と、ユーミンは若い男女に『素敵!』と思わせるライフスタイルを提示し、消費を牽引すらしたはずです」(酒井,2013:134-135)
酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社


ここではユーミンは恋愛、そしてライフスタイルを提示するような曲を発表し、高度大衆消費社会を牽引してきた存在として語られている。ユーミンの曲には、例えばドライブであれば1976年発表の「中央フリーウェイ」、スキー、サーフィンに関しては1980年発表の「SURF &SNOW」などが挙げられる。他にもユーミンは曲を通じて、特定のライフスタイルあるいはシチュエーションの実現を若者に欲望させ、消費を煽る存在であったようである。例えば、「中央フリーウェイ」にあるようなドライブをするために、車を購入する。またスキーやサーフィンに関するアルバム「SURF &SNOW」で歌われているようなレジャーを楽しみたい。酒井の前掲書から具体的には、スキーをしに苗場のプリンスホテルに行く、逗子の海岸でサーフィンをする。さらにはサーフィンそのものをせずとも、サーファーの格好やスタイルだけをまねた「陸サーファー」と呼ばれる人々となるべく、サーフブランドのTシャツを着て、サーファー風のレイヤードカットに髪型を変え、サーファー系と呼ばれるディスコで遊ぶということが、当時の若者の間で行われていた(酒井,2013:60-63、94-102)こうした若者のリゾートへの憧れをユーミンは煽っていたのである。またユーミンは曲により消費を煽るだけでなく、消費の参考とされるような存在であった。ユーミンを手本とする女性と交際していたライターである神宮五郎氏はユーミンに関して以下のように書いている。


「ユーミンの名はそこで何かと登場するのだったが、そこでもユーミンは音楽的関心ではなくて、いわば彼女たちの自己容認――遊び、恋し、オシャレし、流れゆく日々――のシンボルとして捉えられていた。ユーミンとユーミンの伝説は彼女たちのことごとくの生活の肯定と真似るべきサンプルとして夢見られた[2]」
「ユーミンはフロー型社会の波頭に立ったジャンヌ・ダァークだった」『月刊アドバタイジング』、1984年12月号、p 49、電通


このように彼女自身はあり方そのものがライフスタイルのサンプルの一つとして認識されており、曲単体ではなく、彼女の実践していたライフスタイルを含めて、消費を煽るような存在でもあったと考えられる。ユーミンが曲や曲以外で提示するようなライフスタイルに近づくべく、消費をする若者とはどのようなものであるか。神宮は具体的に以下のように記述する。


「私は二十九歳で結婚したが、相手はユーミンと同じ年で、絵に描いたようなユーミンのお得意様であった。夏は軽井沢かグアム。冬は苗場とXマスパーティー。持ち物はグッチ、セリーヌ、エルメス、ヴィトン等々。BFは最低クルマ持ち、同好会はテニス。初体験は高校か大学一年。時としてかなり年上の恋人あり。働く必要はないが世間を広くしたいのでそれを満たす所へコネないし採用者の下心で入社。勤めない場合はアルバイト。そこで相手が見つかれば幸いだし、見つからないにしても遊ばれるか、遊ぶかして、ゴールインとなれば過去は思い出[3]」
「ユーミンはフロー型社会の波頭に立ったジャンヌ・ダァークだった」『月刊アドバタイジング』、1984年12月号、p 50、電通


この資料で出てくる「絵に描いたようなユーミンのお得意様」という表現からは、ユーミンという存在が当時ライフスタイルを提示し、そうしたライフスタイルの実践を行うものがイメージできるという当時の状況がわかる。また「ユーミンのお得意様」であれば、レジャーの過ごし方から、持ち物さらには恋人、恋愛の仕方についてまで、どのような特徴を持っているかについてまで記述できることがわかる。彼女や彼女の曲を参考として消費活動を行うような若者が確かにいたことが確認できる。ユーミンが曲と自身のあり方で示すライフスタイルを、消費活動などで実践するユーミン的なあり方が存在した。ここでは第三章冒頭で引用した資料で語られていた、「消費社会の爛熟と文化が、結びつく」というような状況が見出せる。ここには音楽と若者の新しい関係、若者の新しい生き方が見出せるのではないだろうか?音楽で示されたあり方、ライフスタイルを実践すべく消費を行う。また恋愛に関しての実践まで、ユーミンの曲やあり方をサンプルにして生きようとする姿勢が見受けられる。音楽自体とその製作者を参考にして、若者としての自身のあり方や生き方を定めていくような状況が生まれているのではないだろうか。これは60年代末や70年代初頭にはないようなあり方であろう。そのような新しい生き方が生まれていることを確認し、さらにその新しい生き方がどのようなものであったかをより知っていくために、ユーミンに関する語りをさらに見ていきたい。


第2節 ユーミンと自分探し〈個性〉

    前節においてはユーミンを手本にして消費や自らのあり方を定めるような新たな若者のあり方が現れていたことを確認した。ここからはそのあり方についてより深く見ていきたい。ユーミンについて、フリーライターの高崎真規子の語りを引用する。80年代においてただの女子大生がテレビに出演するようになり、ある特別な才能を持った人だけがいられる世界であったはずの芸能界に素人に門戸が開き参入できるようになった、という文脈に続く文章である。


「ただ、いくらシロウトに門戸が開かれたからといって、誰でもいいわけではないことくらいみんな知っていた。だから、自分の切り札は何かと考える。すると、詰まるところ、それはその人らしさという漠然とした色合いなんじゃないかというところに落ち着く。才能はなくたって個性なら誰にでもあるというわけだ。(中略)いわゆる《自分探し》の時代はこうして始まったのだ。私もご多分にもれず、それに乗った一人だった。けれど、自分を探すには、まず自分独自の《目》が必要になる。ところが、ずっと恋愛とは、結婚とは、人生とは……こういうものだという既存の価値観の中で生きてきたから、自分の《目》を持つなんてことに慣れていないのだ。だいたい《自分探し》なんて言葉がもてはやされたのだって、女はいつか嫁に行くんだから……という発想があったからで、(中略)だから、何かを選ぶ指針も、ブランドだったり、流行だったり、世間の評価だったりと、当然自分の《目》ではなかったし、自分の価値観を持つことがどういうことなのかも、ピンと来ていなかった。私がユーミンに傾倒し始めたのは、この時期だった[4]」
「世代論としての『ユーミン神話』」『別冊宝島音楽誌が書かないJポップ批評16』2001年12月、p 151、宝島社


「ユーミンという一つの価値観に照らし合わせることで、雲をつかむようだった自分の《目》みたいなものが少しずつ見え始めたのは確かだ。それはたぶん、ユーミンが表現しているのが、具体的な歌というより、ユーミンという色合いだったからだろうと思う。その色合いを感じることで、自分の色も少しずつ感じ始めることができた。世間や親の世代の人や……そういったこれまでの既存の価値観に惑わされず、自分自身の感性で詞や曲を作り、着るものを選び、聴く音楽や読む本を決めている……自分の価値観を体現して生きているユーミンは、自分らしさを探すものたちにとって、まさにお手本のような存在だったのだ[5]」
「世代論としての『ユーミン神話』」『別冊宝島音楽誌が書かないJポップ批評16』2001年12月、p 152、宝島社


この文章からは、当時それまでには存在しなかった、新しい若者のあり方が立ち現れていたことがわかるのではないだろうか。その生き方とは、「自分の色合い=個性」を持ち、それを表現して、「自分の価値観を体現して生きている」というものである。当時は「何かを選ぶ指針も、ブランドだったり、流行だったり、世間の評価だったりと、当然自分の《目》ではなかったし、自分の価値観を持つことがどういうことなのかも、ピンと来ていなかった」というような時代であり、ユーミンのような「自分の価値観を体現する」あり方は、まだ誰もやっておらず前例のない、まさに「雲をつかむような」難しさを伴う、新しいあり方であったことが推測される。逆に言えば、70年代後半、80年代においてユーミンが活躍する以前の時代、フォークゲリラが行われた時代や私生活フォークがもてはやされた時代において「自分の色合い=個性」を想定し、それを体現しようと努めるようなあり方が存在しなかったと考えられるだろう。若者にそのようなあり方は存在せず、曲にそうしたあり方が示されることもなかったと考えられる。また「自分の価値観を体現して生きている」ことの内実は「これまでの既存の価値観に惑わされず、自分自身の感性で詞や曲を作り、着るものを選び、聴く音楽や読む本を決めている」と記述される。ここで特に着目しておきたいのは「自分の価値観を体現して生きている」ことに「自分自身の感性で詞や曲を作る」という表現行為と並列して、「着るものを選び、聴く音楽や読む本を決めている」という広い意味での消費活動を自分の感性で行うことが入り込んでいることだ。ここからは、ユーミンのあり方から「消費で自分の価値観を表現する」、あるいは「消費により個性が表現できるという期待を持ち消費活動を行う」ことを「自分の価値観を体現して生きる」方法の一つとして若者が見出していたことがわかるのではないだろうか。


またユーミンのあり方を手本とするような若者であった高崎の記述からは、この時代に生まれた若者のあり方をさらに具体的に知ることができる。それは「自分探し」という感覚である。「自分の色合い」「個性」、あるいは「自分らしさ」があるはずだという期待を持ち、それを探すというそれ以前にはなかった営みを彼女たちはしているのである。ではユーミンと「自分探し」をする彼女たちのあり方はどのような関係にあるだろうか。ユーミンは「自分の価値観を体現する」人物であり、彼女たちのお手本であり、「傾倒」するような対象であった。「ユーミンという一つの価値観に照らし合わせることで、雲をつかむようだった自分の《目》みたいなものが少しずつ見え始めた」という言葉にあるように、ユーミンとユーミンの曲は自分らしさを確立するための一つのテキストブック、参考書のようなものであったのだろう。高崎のような若者のあり方とは、ユーミン自身とその曲をテキストブックのようにして、「自分探し」=「自分らしさを見つける」ことを試み、その試みに伴って既存の価値観とは違う価値観を模索するあり方である。そして「自分らしさ」=「自分の価値観」を消費により体現しようとするあり方であったのではないだろうか。

また「自分らしさ」を探す作業を彼女たちがしていたとはいうものの、彼女たちは「自分らしさ」を体現しようとしつつも、結局はユーミンを真似た、ユーミンのコピーのような存在にしかなれなかった側面があるのではないかと察せられるような記述が前述の資料に続いてなされている。


「あるときはサーフィンを、ラグビーを、スキューバを、そして恋愛をと、アルバムにときのトレンドを込め、ユーミンは消費を煽ってきたという人がいる。けれど、実は彼女が表現し続けてきたのは、ユーミンという色合いだった。それは彼女のセンスであり、生き方だから変わりようがない。ただ彼女は、それを楽曲に表現する類まれな才能を持っていただけだ。ところがである。彼女はその色合いを押し付けたわけじゃない。常にあなたにはあなたのそれがあると言い続けた。ユーミンのファンはそれをわかった上で、彼女のセンスを『わかる』と自負したのだ[6]」
「世代論としての『ユーミン神話』」『別冊宝島音楽誌が書かないJポップ批評16』2001年12月、p 152、宝島社


「彼女はその色合いを押し付けたわけじゃない。常にあなたにはあなたのそれがあると言い続けた。ユーミンのファンはそれをわかった上で、彼女のセンスを『わかる』と自負したのだ」という文言からは、独自の「色合い」=「個性」があるとユーミンに言われていると感じながらも、自らの個性を体現するのではなく、「ユーミンのセンスを自負する」つまり、「ユーミンのセンスがわかる自分達」として肯定し、「ユーミンのセンスに追随していた」ことがわかるのではないだろうか。彼女たちの自分探しの試みは結局のところ、ユーミンのセンスつまり、彼女が楽曲などで提示するようなライフスタイルの消費やその実践に回収されてしまうような場合もあったのではないだろうか。その結果「ユーミンは消費を煽ってきた」と言われてしまう状況が生まれていたとも考えられる。ユーミンのセンスを肯定し、追随し、ユーミンナイズドされた若者が多くいたことは「絵に描いたようなユーミンのお得意様」という前傾の資料の表現からも察せられる。

ユーミンに関しての新しい若者のあり方について要点をまとめる。若者はユーミンが音楽で示すようなあり方、ライフスタイルを実践すべく消費を行う。ユーミンの曲やあり方をサンプルにして生きようとする姿勢が誕生している。また既存の価値観から離れて「自分自身の価値観を体現して生きる」あり方が若者によって志向されており、「自分らしさ」が誰しもにあると想定され、その「自分らしさ」の表現の仕方には消費活動が入り込み、「個性を消費により表現する」という感覚が生まれていることがわかる。そしてユーミンはそうしたあり方のお手本とされていたと考えられる。

次回の第4章では、1〜3章をまとめて、政治について再考し、音楽をめぐる消費の実践に関しての政治性について記述する。ここまでお付き合いいただいたことに感謝したい。

参考文献など

・酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社
・岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著 2009「ガイドマップ60・70年代」『戦後日本スタディーズ②』p9-45紀伊國屋書店
・『別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評16 されど我らがユーミン』2001年12月 宝島社
・『月刊アドバタイジング』 1984年12月号 電通


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