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世界とわたしとあなたの幸せ

わたしはこの世界に生きる誰もが
じぶんの好きなもの、愛するものに自信をもって
「わたしはコレが好きだ」と言うことができて

誰もがじぶんの愛するものをいつくしむ時間をもち
誰もが好きなものを愛するじぶんを許せるようになる……
世界はそんな人たちでつくられるものであってほしい

そしたら、きっとみんな
幸せになれると思うのです


というのも、
「世界はどうなったらいい?」

そう聞かれたら
たいていの人が
「幸せになればいい」と

いろんな表現や具体例はあるにしても
最終的にはそこに集約される想いを
答えるとおもいます

もちろん、もれなくわたしもそうです

世界中、すべての人が
しあわせになってほしい


でも、
あなたは世界中のすべての人が
一人も取りこぼすことなく
幸せになることって
実現可能だと思いますか?

全員です
たった一人でも
不幸ならダメ

そんな未来は訪れると思う?
それを可能とする方法は
この世に存在すると思う?


わたしは考えるまでもなく
不可能だと思っていました。

そう、
思って「いました」
過去形

いま現在、わたしの意見としては
すべての人が幸せになることは
可能だと思っています



というのも、
かつてのわたしが
世界の幸せなんてファンタジーに過ぎない
そう諦めていた事実には

わたしがそう判断をしてしまう
「原因」があったのです

それは自分視点でしか
幸せを定義できていなかったから

知識の一つとして
幸せは人それぞれ違う
ということは理解しているけれど

きっとその真理に
リアリティを持ちきれていなかった



また一方で、わたしは長いこと
「ある人の幸せは他の誰かの犠牲のうえに成立する」
どこで誰から聞いたのかすらも覚えていない
ある意味ありふれたこの言葉に同意し
そういうものだと納得していた

だから、たとえば
わたしに魔法をつかう力があって
魔法で誰かを幸せにしてあげられたとしても
その裏ではまた別の誰かが泣くことになる

この方程式を崩すことはできなくて
わたしはすべての人を幸せにすることはできないし
世界中すべての人が幸せになることは叶わない

わたしがどんなに願っても
わたしがどんなにがんばっても
この世界を一滴の濁りもない幸福だけに
塗り替えることはできない
そう思っていたんです



でも、そもそも
「わたしが誰かを幸せにしよう」
その考え方が不健康だったと気付きました

幸せは極めて個人的なもので
共有不可能なもの

幸せは感覚的なものであり
幸せは状態のことであり

いま幸せかどうかを判定できるのは
本人だけ、じぶん自身だけ

人によって幸せは違う
じぶんには幸福な状態ではないと思うことでも
他人にとっては充分すぎるほど幸せなことは当たり前にある

他の誰かが「この人は幸せだ」と
判断することはできない



だから
じぶんの力で人を幸せにするというのは
自己満足にしかならない

「これをすればみんな幸せになる」
どんなに理論的に良いことだったとしても
その方程式をすべての人に当てはめようとすることは
個人的な正義や善意の押し付けでしかなくなるし

あるいは
人が幸せになったかどうかなんて
どうしたって真の答えは
確かめようがないのだから

「もしかしたら幸せじゃないかもしれない」
「この幸せの裏に他の不幸が生まれているかもしれない」
そんな疑いを常に抱えながら
永遠と誰かの幸せのために
じぶんを消耗していくことになる



じゃあ、やっぱり
この世界のすべての命が
幸福を得ることは不可能なのか?

そう簡単にYESとは言いたくないよね

先にも述べたように、
じぶんが誰かを幸せにするという考え自体が
そもそも的外れだったと気付いたことは
わたしには一歩進み直すヒントになりました

つまり、幸せというものを
誰かが提供してあげるものとか
誰かから恵んでもらうものとする世界では
みんなが幸せに到達することって
難しくなってしまうけれど

幸福はじぶんで見出すことができるもので
それを感じ取ったり、気付いたりできる感性や自信を
誰もがじぶんの中に宿しているなら
この世のすべての人が幸せになることは可能で

その感性や自信を養うことは
じぶん一人でも可能だし、
もしそれが難しかったとしても
ある人が別の誰かに、
たとえば、わたしがあなたに
できることだと思っています



じゃあ、その前提に基づいて
どうすればわたしたちは幸せになれるだろう
どうすれば幸せに至る感性や自信が身につくだろう

わたしの出した答えは
「好きなものを全力で信じる力」
これが重要な鍵になると思っています

自分が何を好きか知り、
その気持ちを認め、後ろめたさなく愛す……
推し活なんてまさにそうじゃない?



でも中には
好きなものを100%の気持ちで
好きと言えなかったり
好きなものがわからなかったり

好きな対象に心惹かれるじぶんを
否定しちゃったり
罰したりしてしまう人もいる

わかりやすい例が
いわゆる「スイーツ」
お菓子や甘いものだと思っていて

本当は大好きだし、食べたいし
でも食べた分だけ罪悪感も生まれて
両手放しに楽しめない
なんなら、好きじゃなければ良かった

わたしはメンタルケアや
自己肯定感を育むことを目的とした
お菓子教室を開催してきた中で
甘いものが好きであることが
自己否定に繋がっている方々に
これまでたくさん出会ってきました

でも、彼女たちも
わたしの開催するレッスンを通じて
じぶんの好きなもの(甘いもの)を
じぶんを傷つけることなく楽しめるようになり、
結果的に、精神的にも身体的にも安定して
「自然としあわせを感じられるようになった」
そんな感想を届けてくれるほどに変わりました


レッスンに参加してくださった方からいただいたご感想①
レッスンに参加してくださった方からいただいたご感想②
レッスンに参加してくださった方からいただいたご感想③


人が幸せに到達するには
好きなものに対して
じぶんはこれが好きだ
そう胸を張って言える自信が必要

そしてそれは性別や年齢、人種、時代さえも問わず
条件は命ある人間というだけで
手に入れられると思っています



好きなものが
じぶんを傷つける対象であったり
自由に愛することもできなかったり
そもそも好きなものがよくわからない……

それ以上にツラいことってあるのでしょうか?

好きなものが最大の味方だという認識と自信
それ以上の幸福ってないと思う

わたしは世界中のすべての人が
じぶんの好きなものに自信をもち

好きなものに対して
じぶんが愛するには充分すぎるほどに価値があり
誰になんと言われようと「それが好きだ」と公言できる
そして、限りなく愛することを満喫できる……

この喜びを堪能する感性と自信を
誰もが当たり前に身についている
そんな世界であってほしい

そうすればすべての人が幸せになることは
不可能ではないと思うのです

わたしは世界中がそうなることを望んでいるし
だからこそ、わたしができることとして
「クッキーセラピー」という
お菓子作りでセルフケアを叶える文化を
もっと広めていくことを決意しました



わたしは誰かを幸せにすることはできないし
誰かをじぶんの価値観で幸せにしようとも思わない

誰もがじぶんの愛するものに気付き
その愛で幸せに満たされますように

じぶんの心もカラダも
全身がじぶんの中から湧き上がる愛情で満たされる
そんな命が集まって、この世がつくられますように

サポートありがとうございます。実は2021年にハーブティー専門店の実店舗化に向けて動いていましたが開業資金の1200万円を諸事情で失いました。でもまだ諦めてはいないので、再始動のための資金として活用させていただきます。オープンの際にはぜひお礼の一杯をご馳走させてください!