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「サードキッチン」 白尾悠 ~幾重もの属性にからめとられながら連帯を模索する

よく「経験しなければわからない」と言われるように、人間の想像力はとても貧困だから、こういうフィクションに触れるのはとても大事。
日本人のほとんどが経験する機会のない、「人種的・言語的マイノリティになるとはどういうことか」を冒頭から味あわせてくれる。

主人公のナオミは、念願だったアメリカの大学に留学して1年目。
まわりの学生は自分より大きく、垢抜けていて、楽しげに交わされる会話の半分も聞き取れない。言いたいことがあっても正確なニュアンスですらすらと話すことができない。自分の発音は、ネイティブにとっては奇妙に聞こえるらしい。

軽くあしらわれたり、その場にいないかのように振る舞われたり、
あるいは、まるで知能が低い子どものように扱われたり。
それが毎日まいにち続く。
「人種差別だ」と正面きって糾弾できるほどあからさまに侮蔑的な態度や言葉を向けられなくても、疎外感・劣等感がつのるだろう。
自分の殻に閉じこもり、食事や睡眠にも影響をきたしていくナオミの様子を読んでいると胸が苦しくなる。

けれど、そんなナオミも、他方ではマジョリティの側に立っている。

「私はノーマルだから」という言葉が、ゲイの友人をどう傷つけるか。
(同性愛はアブノーマル=非正常?)
母国同士が紛争を続けている中東の友人たちの、微妙な関係。
平和でリッチな国からきた日本人女子学生に向けられる眼差し。

そ韓国のルーツをもつジウンとの出会い。文化の盗用、「逆差別」、そして、国や民族がもつ歴史を、個人がどう背負うか?という問題。
ナオミは何も知らなかった自分に気づいていく。

多様性は傷付けあうこと、面倒なことばかりだ。「悪気はなかった」というイノセントは免罪符にならない。
それは実は日本という島国の中にいても同じで、私たちは子どもの頃から、容姿や特性、家庭環境、経済状況などによる偏見を刷り込まれ、場合によって、傷つける側にも傷つく側にも立っている‥‥。

人が幾重もの属性にからめとられながら生きているという ”インターセクショナリティ” を鮮やかに描きつつ、それでも人は連帯できるという希望の見せ方がさわやかだ。

尖ったジョークに過激なダンス、そして美味しいごはん!
マイノリティ学生たちが集い、自主運営する食堂「サード・キッチン」で振る舞われる、チリコンカルネ、ビリヤ二、ボリビアのチョコ。

日本人にとって慕わしいおにぎりは、ここでは真っ黒い海苔に包まれた謎の「ライス・ボウル」。留学生たちに不気味な目で見られるそれを、ジウンだけは韓国の海苔巻き「キムパ」と重ねて見る。
それをただ喜ぶだけではなく、「もしかして、日本が支配していたときに伝わったもの‥‥?」と思いめぐらせるナオミ。
それが本当に成熟した大人の姿なのだろう。

2020年刊行だけど、舞台が1998年なのは筆者の実体験にもとづく小説ということなんだろうか?
25年が経った今は、アメリカの大学での日本人学生の数や見られ方も、日本人学生側の自意識の持ち方も、このときとはまた変わっているだろうなと思う。

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