私のパリ散歩2022【後編】
後編は、さらに現地で撮った画像が多めでまいりましょう。
前編はこちら。
https://note.com/contrapvnctvs/n/ncc4303225b5f
前回の記事の最後の地点、すなわち「クローヴィス通り」を、「デカルト通り」との交差点を過ぎてさらに歩いて行くと、これが出現します。
ジャジャーン!
中世のパリ市街を囲んでいた城壁が、見事に「それらしい形で」残っている箇所。
感動ものではありませんか?
こうして反対側から見ると、さらに奥行きを感じます。
ここではわざわざ、フィリップ・オーギュスト(すなわちフィリップ2世)が築かせた城壁の一部であることを示すプレートが、壁面に直に設置。
私が片手に持って歩いている『パリ歴史探偵』によると、ここに12世紀と刻まれているのは正確な情報ではなく、セーヌ川の左岸にあたるここ一帯に城壁が築かれたのは、次の世紀に入ってからとのこと。
さらに歩くと、市民の憩いの場所になっている、ちょっとした広場がありました。
この広場の名前は・・
「コントレスカルプ広場 Place de la Contrescarpe」。
Contrescarpeとは、「堀の外側の斜面」の意味だそうです。
つまりこの広場はかつての城壁の外で、中世のパリの町にはギリギリ属さない地域だったことが分かるのです。
地名にも、こうして城壁の名残りがあるのですね。
『パリ歴史探偵』では、ここから先の記述は途絶えるのですが、ひょっとするとまだあるかもしれないと思って、古地図も参照しつつ歩いて行くと・・
むむ、見るからに「におう」ぞ!
確かに城壁はこの辺りまで伸びていたはず。
この通りもまた、古いお洒落な建物がかなり残っていて、町並み全体としても印象的な地域でした。
パンテオン付近ほど観光地化されてないので、喧噪に疲れた方にはお勧め。
さて、ここでちょっとズルをさせてもらい、近くの駅からメトロ(地下鉄)に乗ってセーヌ川を再度渡りました。
(以前現地在住の方から聞きましたが、私の乗ったメトロ7号線は昼間でさえ、車内及び駅内の治安が悪いそうなので、ご乗車の際はどうぞお気をつけ下さい。)
ポン・マリー(マリー橋)駅で降りると、学校の広い敷地の前に出ました。
中には立ち入りできないようになっていますが、こうして遠目にもはっきりと、城壁が相当部分残っているのが分かります。
すぐそばにある通りの名前は・・
「シャルル=マーニュ通り Rue Charlemagne」でした!
何やら世界史で習ったフランク王国の建国の歴史をたどっているようですね。
ちなみに記事の最初に出てきた「クローヴィス通り」があったのは五区で、先ほど川を渡ったことで、今度は四区になります。
ここから東に行けば、リセ・シャルルマーニュ(Lycée Charlemagne)の建物があり、これまた城壁がはっきりと残っている場所があるそうですが、今回はここまでにして、逆に西の方へ向かいます。
『パリ歴史探偵』でも紹介されていた、パリ市内でも特に古い建物が2軒並んで現役というのが本当かどうか、確かめるために。
ありました。
一目見て、「これは古い!」と納得。
フランソワ・ミロン通り(Rue François Miron)の11・13番地の建物がそれでした。
またあのプレートがありました。
15世紀初頭に遡る建物らしいですね。
日本だと金閣が建てられた頃?
日本と違い地震がほとんどない土地柄とはいえ、五階建てでこれまで持ちこたえてきたのは立派です。
少し歩けば賑やかなショッピング街なのに、この辺りは時が止まったかのような風情があります。
さて、お次はこの通りの名前・・
「バール通り Rue des Barres」。
Barresとは「柵」の意味で、中世に城壁が築かれるよりさらに前の、盛り土の上に柵を張った原始的な砦を想起させます。
この通りにも、先ほどの建物といい勝負に思われる古い建物が健在です。
反対側を振り返ると、大きな教会の裏口になります。
これがサン=ジェルヴェ教会です。
正式名称はサン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会(Église Saint-Gervais-Saint-Protais)。
礼拝中だったので写真撮影は遠慮しましたが、内部はバロック美術の宝庫です。
後方のオルガンに注目しましょう。
1653年に建造されたオルガン。
まだルイ14世の親政開始前ですね。
この教会のオルガニストは、代々クープラン(Couperin)一族が務めており、中でも有名なのがこちらの人物。
フランソワ・クープラン(François Couperin、1667~1733)です!
普段から「お世話になっている」作曲家の一人。
そのまま教会内部を突っ切る形で、正面に出ました。
大きな木が邪魔していますけども、ここの教会のファサードはパリ市内の建築の中でも、いわゆるバロック様式を採用した初期の例ということで貴重。
サン=ジェルヴェ教会におおよそ向かい合うかのように、パリ市庁舎(Hôtel de Ville de Paris)があります。
この建物にも、圧倒されますね。
さらに足を延ばします。
前日にすぐ近くまで来ていたのですが、やはり気になってこの通りに行きつきました。
「バルタン・ポワレー通り Rue Bertin Poirée」。
ここに前回紹介した、著名なヴィオール奏者マラン・マレが住んでいました!
ただし、番地までは特定できませんでした。今では取り壊された要塞の傍ということなので、おそらくセーヌ川の岸に近い方の、番地の若い家を順に見て当たりをつけるしかありません・・
まあでもこれで、精一杯といったところです。
そして、このマレが住んだ通りのすぐ近くには・・
ユニクロがありました。
さすがのマレも、自分の家の近所に日本発の店ができていたなんて知ったら、びっくりでしょう。
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ここからは最終日の記録。
午前中に再度、サン=ジュヌヴィエーヴの区画に向かいました。
パリに詳しい人に聞いたところ、取り壊されたサン=ジュヌヴィエーヴ修道院の建物の中で、教会の鐘楼が「クローヴィスの塔 Tour Clovis」として現存していることを教えていただきました。
前日録った写真では見切れてしまっていたので、ちゃんと確認も兼ねての再訪です。
これがクローヴィスの塔。前日と違って快晴でした。
18世紀の絵で確認すると・・
なるほど、ほとんどそのままです。
特徴的な小さな4本の尖塔が目印になりますね。
破壊を免れた、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の建物と並んでいる様子を撮ると、こうなります。
想像するに、マレがあの曲を作った時には、両者の教会の鐘が同時に鳴ることがあったでしょう。
ですから、あの曲の表題が意味するところは、サン=ジュヌヴィエーヴ教会の鐘(現在のクローヴィスの塔)だけではなくて、隣の教会も合わせて複数の鐘がやかましく鳴っている様子も含んでいるのだろうかと、思いました。
もう一度、この名曲を聴きたい方々へ。
https://www.youtube.com/watch?v=tLugJIWdpCM
その後は、またルーヴル近辺を少し歩きました。
ルーヴル通り(Rue de Louvre)にある、中世の城壁の一部を成していた塔の残骸。まるでえぐりとられたようになっています。
(実は、前日訪れたルーヴル美術館の建物も、そもそも要塞として築かれたのがスタートになっていて、地下には今も要塞の石積みがたくさん残っていたります。)
それから、いわゆる「ベタな」パリのショッピング街を歩いて・・
泣く子も黙る、オペラ座(ガルニエ宮)。
一帯は日本料理店も多いのですが、あえて庶民的なクレープの店に入って、そのあとの散策のための腹ごしらえ。
最後はオペラ座からパレ・ロワイヤルの北側にかけての地域を中心に歩きました。
この豪勢な作りの家にふと目をやると、プレートが気になって・・
太陽王の庇護のもと権力を欲しいままにした作曲家、ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully、1632~1687)が住んでいた建物でした!
このプティ・シャン通り(Rue des Petits Champs)と、これまたフランス史上の人物を冠したリシュリュー通り(Rue de Richlieu)の交差する地点には、昔の石工のサインらしきものが。
ちなみにこの向かいには・・
「おむすび権兵衛」がありました。
懐かしくなって、帰りの車内で食べるために、いくつかおむすびを買って帰ったことは言うまでもありません。
さて、先ほどのリュリの旧居は下調べせずに偶然見つけたものでしたが、このときの真の目的地はここ。
フランソワ・クープランが晩年住んだ家です。
1724年から没年の1733年までと、はっきり書かれていますね。
この近くには、パリならではのアーケードすなわちパサージュ(Passage)やギャルリー(Galerie)があって、これらの中を探索するのもタイムスリップした感覚になってすごく楽しいです。
こんな感じで、3日間パリを歩き倒しました!
バーゼルに戻ったら、ちょっとだけ筋肉痛になりました・・
体の動くうちに、行きたいところはなるべく行っておこう!と強く思った次第です。
では2022年のパリ訪問記、これにてお開きです。