海を渡ったルネサンス音楽
みなさんはルネサンス時代のヨーロッパ音楽が、当時の日本にも伝わっていたことをご存じでしょうか?
それは戦国時代の終わり頃から信長・秀吉が君臨した安土桃山時代を経て、江戸幕府の第三代将軍家光の治世に、いわゆる鎖国体制が完成するまでの約半世紀強の間のできことです。
いわゆる南蛮文化が花開いた時代、またはキリシタン(切支丹)の時代です。
ポルトガル人の種子島上陸による鉄砲伝来(1543年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの来日にはじまるローマ・カトリックのキリスト教の宣教活動開始(1549)年などを契機として、日本人がヨーロッパの人々及びその文化に出会うようになったことは、歴史の教科書にはかならず登場するので、一般的にもよく知られているでしょう。
以降の日本へのヨーロッパ文化の流入という観点では、やがて日本人たちによって南蛮人と呼ばれる、スペイン・ポルトガル人の商人たちの活動が特筆されます。しかし、当時は最果ての地と思われていた日本にまで、身の危険を賭して長い航海を経てやってきた宣教師たちの活動も忘れてはなりません。
宣教師たちが布教用に日本に持ってきた書物は、もちろん聖書の他にもたくさんありました。中には一般的なラテン語による賛美歌集、さらにはスペインやポルトガル固有の現地語による聖歌集もありました。
布教活動の自由を保障されたイエズス会士たちが、日本での司祭・修道士の育成を目指して西日本各地に建てたのが、セミナリヨとよばれる全寮制の神学校でした。その第一号が、1580年に信長のお膝元である安土に置かれたのも有名な話です(本能寺の変まであと2年!)。
程なく、有力なキリシタン大名で知られる肥前の有馬にもセミナリヨが開設されました。そこでの厳しい勉強・訓練の期間を経て、その成績優秀者から選抜されたのが天正遣欧少年使節団の4人、すなわち伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンでした。
そして驚くことにセミナリヨでは、神学やラテン語の他に、音楽の科目がとても重要視されていました。最低毎日1時間は音楽を学ぶ時間が設けられていたということです。
使節団の少年たちは、ヨーロッパへの長い航海の最中に、退屈を紛らわせるためにセミナリヨで習った楽器を弾いたり、歌を歌ったりしたという記録があります。さらにヨーロッパに着いてからも、オルガンをはじめとする楽器を求めに応じて演奏したり、滞在先の有力者に招待されたときに音楽の演奏を伴う盛大なセレモニーをいくつも体験しています。
ヨーロッパ滞在は7か月ほど。トータルでは8年に渡る長い旅路の末、使節団は日本に帰国しました。既に天下人の地位は信長から秀吉に移っていました。出発時はまで少年で今や立派に成人した4人が、聚楽第にて秀吉の前で西洋楽器による合奏を披露したというエピソードも有名です。もっとも、その時点では既に秀吉がバテレン追放令を出していたという事実も込みで、その後に起こったことを見ていくなら、4人の聚楽第での演奏は日本におけるルネサンス音楽演奏史(しかもリアルタイム!)の、ほんの一瞬の光であったと言えるでしょうか。最終的に棄教することになる千々石ミゲルや、壮絶な殉教死を遂げた中浦ジュリアンのことを知るにつけ、ヨーロッパ滞在時も含めて常に時代に翻弄され続けた使節団のことを思わずにはいられません。
使節団がヨーロッパからはるばる持ち帰った活版印刷機によって、短期間の間に次々と長崎で印刷された「キリシタン版」の中に、『サカラメンタ提要』と呼ばれる典礼書があります。そしてここに含まれている聖歌こそ、紛れもなく日本で活版印刷の形で流布した最古の楽譜なのです!
キリシタン迫害の波によってキリシタン版の典礼書の多くが紛失し、現在『サカラメンタ提要』は全世界で数冊が残るのみ。こうした聖歌もまた、コレジヨでの音楽教育に使われ、本格的な迫害時代に入っても細々と歌い継がれていったに違いありません。
私と同時期にバーゼルの音大で学んだオルガン・チェンバロ奏者、ジョアン・ボロナートは、使節団が他ならぬ自分の出身地アリカンテから、ジェノヴァに向けて出航したという事実を知って運命的なものを感じ、私と天正使節団の事績に関わる演奏会をスペイン企画でしたい!と持ちかけてきました。そこで2人でじっくりと時間をかけて使節団の手紙や報告書、現地での記録などの資料を精査し(その多くが、まだ日本語訳がされていないポルトガル語やスペイン語、ラテン語によるもの)、演奏レパートリー・楽器などを吟味しました。
その過程で宣教師たちが伝えたヨーロッパ音楽、キリシタン迫害時代に口承で伝えられた聖歌なども加えて、より奥行きを持たせたプログラムにしようという方向性が定まり、『De Missione Musicorum』(音楽と宣教の旅)というプロジェクトとなって結実。
まず2016年春にこのプログラムをバレンシア大学で初演、その他2公演をスペインで行った後で、同年秋に待望の日本ツアーを行いました。
各方面からのご協力によって、このときは大阪、宮崎、熊本、奈良、愛知、東京の順に5公演が実現。九州ではセミナリヨや天正遣欧使節団にゆかりの深い場所でも、演奏することができました。
その翌年には、このプログラムでも我々が歌っている曲が含まれる、ユネスコの文化遺産になっている神秘劇の上演で有名なエルチェでも公演。最近にも、アリカンテ周辺を中心にスペインで複数回公演を行いました。
公演を重ねる中で我々は確かに自信をつけていったのですが、どうしても2人というミニマム編成では、プログラムに入れたくても入れられない音楽がありました。
理想を言えば我々の他に2人加えることで、セミナリヨで高度な音楽教育を受けてヨーロッパに渡り、その当時の後期ルネサンスの音楽を実地体験した4人の少年たちにちなんで「4人とも楽器を弾き歌いする」というのを基本編成にできたりはしないだろうか、と考えたのでした。
するとそのタイミングで、以前こちらの記事(最古の活版印刷楽譜)の演奏会の際に出演した、ルネサンス音楽を専門にとりあげるReRenaissanceの運営チームから、「日本人とルネサンス音楽との出会い」というテーマでプログラムを組み、アンサンブルを監督・指揮してくれないかとの依頼が私にありました。
公演の趣旨に同意してくれるなら、共演者及び編成は私の裁量で決めて良いという条件だったので、ジョアン・ボロナートと相談の上、2人の男性歌手に出演を依頼したところ、いずれも快諾してくれました。
彼らにとっても、これらは実質未知のレパートリーのはずです。
その演奏会は、来たる11月26日(日)にバーゼル歴史博物館の中で行われます。
4人編成となりパワーアップしたプログラムのタイトルは、『ぐるりよざ!海を渡った音楽』です。イエズス会の宣教師たちによって、海を渡って伝えられたヨーロッパ音楽の対象を、日本に限定せずに南北アメリカ大陸も含めました。
私は今まで、演奏会の告知にはっきりと「指揮」(ドイツ語:Leitung)と書かれたことがありません。こういう役回りは極力避けてきたこともあるのですが・・しかし、こうして依頼を受けたことを光栄に思い、今は最後の追い込みです。
新たに加わった頼もしい仲間をご紹介しましょう。まず1人はカウンターテノールのドロン・シュライファー。
バーゼル界隈きっての知性派歌手として活躍し、複数回にわたって来日公演の経験もある彼は、天性の声の持ち主でありポリフォニー音楽の経験が豊富。このシリーズではすでに共演済みです。
ちなみにスイスに留学する前の時点で、常用漢字を一通り書けたほどの日本通でもあり、この前に仕事で一緒になったときの空き時間に漢詩の読解法を教えたら、あっという間にマスターしてしまいました!
もう1人はテノールのイヴォ・ハウンで、彼については以前こちらの記事(弾き語りがブーム)でとりあげています。
リュート弾き語りの腕に最近ますます磨きをかけている彼は、ルネサンス時代のイベリア音楽教育法(主に対位法の即興)の研究と実践を、弾き語りと並ぶライフワークの柱としています。しかもポルトガル語が母語。まさにセミナリヨの音楽教師役として、ぴったりではありませんか!
私は今回彼にリュート演奏を全て任せることにして、その代わりにリュートと調弦が同じであるこちらの楽器を演奏します。
南蛮絵画のモデルとして描かれている、「ビウエラ・ダ・マーノ Vihuela da mano」です。この楽器は実際に日本に持ち込まれて弾かれていたであろうと考えられています。
それから、キリシタン関係の文書に初期の頃からたびたび登場する「ヴィオラ・ダルコ Viola darco / ヴィオラ・デ・アルコ viola de arco」を含め、天正少年使節が持ち帰った西洋の弦楽器が具体的にどんな形状、また調弦のものだったのか、様々な学説があって確定させることは難しいのですが、イベリア地域において「ビウエラ」(イタリアならヴィオラ)は弦楽器の総称であったため、先ほどの楽器と対になる弓で弾くビウエラ、すなわち「ビウエラ・ダルコ Vihuela d'arco」は日本で演奏されていたことはまず間違いないので、今回はそちらも演奏します。
ですから、私の今回のプログラムでの肩書は、当時の慣習に従うなら「ビウエラ/ヴィオラ奏者かつ歌手」ということになるでしょうか。
一見すると、普段自分が名乗っている「リュート奏者」からは随分と隔たってしまった感じを受けるかもしれませんね。でも、ルネサンス時代の演奏家のあり方からすると、実はそんなに場違いなことでもないのです。
様々な地域に伝わった音楽を扱う関係上、歌う言語も多岐にわたります。
キリスト教の典礼に必須のラテン語は、歌われた場所に応じて発音の方法を変えます。そして宣教師たちの母語であったカスティーリャ語、カタロニア語、ポルトガル語に加えて、ガリシア語、ケチュア語、ナワ語、そしてもちろん日本語!
ラテン系の言葉が半数強とはいえ、こんなに頻繁に言語がコロコロ代わるルネサンス音楽の演奏会もそうめったにないでしょう。
とにかく歌う側としては、気を付けないと頭が混乱しそうです。
いずれにしても、個人的にかなりこだわり抜いたプログラムで、いろんな意味でにおいてここバーゼルでないと実現できない演奏会だと思います。
公演詳細はこちらのサイトからどうぞ。(ドイツ語サイト)
日本の方々に向けて、いつかこれを生でお届けできる日が来ることを願っています。