チャイ6はいいぞ〜


ひみつのダイアリーがお送りするくねくね鬱クラシック入門。
本日はチャイコフスキーの特集となっております。
ひみつのダイアリーは音楽の専門教育を受けておらず、趣味としてクラシックを聴いているだけのごくごく普通の一般人です。音から想像できることを独自の感性でベラベラと喋ってますので、よくご存知の方はDMでこっそりご指導いただけますようお願いいたします。🌷



チャイコフスキーの(音楽以外の)人生をぱぱっとまとめていきたい。
チャイコフスキーは家族の仲の良い音楽好きな一家の中で育つ。繊細で内気な性格。人間関係を築くのが苦手で、陰キャか陽キャか問われれば一目瞭然というタイプ。その時代にSNSがあればきっとXではなくTwitterをしていた。幼少期より音楽的才能があったが、両親の勧めで法学部的なところを出て結局法務省に就職。でもやっぱり音楽がしたくって23歳から音楽の道へ。遅咲き音楽人生コースである。音楽家としての実力をめきめき伸ばす傍ら、28歳で大好きな女の子(アイドル)に出会いそりゃもうメロつきまくっていたもののあっさりと失恋しめちゃくちゃ引き摺る。そうこうしているうちにおまえLGBT系か?と疑いをかけられ(これがこの時代非常にまずい)、まずぎて病む。途中で身の潔白を晴らすため、自分のことが好きそうな人と結婚をしたものの愛のない結婚生活は失敗し病む。人生のうち何度も自殺しようとしては未遂に終わっている。生まれ持った優しさと繊細さがずっとかげをしのばせている人生。
そういうわけである。そんな人生に心当たりはないだろうか?


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チャイコフスキー 交響曲第6番

チャイ6は、チャイコフスキー最後の交響曲である。別名、悲愴。チャイコフスキーは初演の9日後に死亡する。コレラ説、自殺説、諸説あるが自らの死期が近いことをわかって書いた曲であるに違いない。
わたしが最も好きな交響曲のひとつである。

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↑まずはこちらをお聴きいただきたい。悲愴フルバージョン。46:47。音垢のみなさんならアルバム1個分で1曲〜?!となるのだろうか。フィッシュマンズのロングシーズンみたいなもんですよ。
こちらの動画はカラヤンの指揮でウィーンフィルの演奏である。

第1楽章

1楽章は序奏とソナタという構成。
じめじめした虚な開始。そこは寂しく暗く寒い。地下の底の懺悔から始まる焦燥感。
闇とか絶望とか死とか、人生の暗い側面をこれまでぼくは幾度と感じてきた、ソレはどんなときもぼくの人生に付き纏い、遠くで眺めて笑っているのである_____といったところだろうか。そんなものを伝えようとしてるんじゃないかなあと思ったりする。5分すぎたあたり以降で展開される安寧ミュージックたちはまるで夢を見ているようである。
9分半ばからの戦闘的な音楽はなんとなくくるみ割り人形のねずみたちと戦うシーンのよう。暗い場所で戦っているんだろうな、多くの悪きものと戦っているんだろうな。
10分頃より反撃開始。12分前後めちゃくちゃかっこいい。何を表そうとしているのだろうか。抽象概念同士が戦っている気がする。

人生とは暗くてつらい、でも目線を変えればこんなにも美しいものがすぐ身近にあるんだよ、人生とは楽しく美しい、でも、すぐうしろまで絶望は迫ってきているんだよ と教えてくれているような音楽。


第2楽章

↑指揮ペトレンコ、演奏はベルリンフィル。
2楽章はこちらの演奏がかなり好みである。もしよかったら聴いてみてほしい。きらきら輝く星々が演奏に散りばめられている。


2楽章は交響曲の前例にない5/4拍子である。よく聴くと、123と12に別れている。演奏する時は絶えず頭の中で「いち、に、さん、いち、に」と歌っていた。スラブ民族のステップが見える。ステップ、ステップ、ターン、ステップ、ジャンプ、ターン、ステップ。足取り軽く、それはくるくると回転しながら踊っているようである。女性のドレスの裾が回転に合わせて揺れ、翻り、ひらひらと舞う様子がイメージできる。まとめた髪から溢れたふわふわとした髪。その髪は光を透かしたステンドグラスのように神聖である。きょうのきみはどんなきみよりうつくしい。
チェロの旋律から対旋律への流れ方はまるで花咲く浅い小川のようでありアンティークの家具のように艶がある。木管高音たちは絹のようにするすると滑らかに奏でる。それはまるで小鳥たちの祝福。細やかなリズムの刻みはステップを踏む先の細い靴。くるくるまわる。きみの微笑みがすごく近くで一瞬見えた。また裾がはためく。きみのターンが作った風から春の匂いがした。
フロアのまんなかにはぼくときみがいる。ぼくときみはふたりでこの世界に没頭している。邪魔するものは誰もいない、時間ですら邪魔できない。幸せで優美なワルツ。

チャイコフスキーの人生で1番好きだった誰かと、素敵な音楽で永遠に踊り続けることを想像してかかれた曲なのではないだろうか。心の慰めは盾となって絶望から守る。
曲が中間にして落ち着いてしまったのは、ぼくがいつか来る終わりを察してしまったから。永遠がないことを知ってしまったから。

人生の希望という側面を表情豊かに描いている。
楽譜上の発想記号でdolce(甘く、優しく)が出てきたかどうか全然覚えていないが、この曲以上にdolceな曲はきっとない。galante、galante、cantabile。


第3楽章

3楽章はなぜかクライマックスのようになっている。4楽章を残して……。
わくわくした胸騒ぎ。次々に溢れる楽しいアイデア。
ジブリ映画の感動ハッピーなクライマックスたちを次々に繋げた映像のような音たち。キキが間一髪トンボを救ってみんなに祝福されたシーン、千と千尋のお父さんとお母さんを見つけたシーン、君たちはどう生きるかのカラフルな鳥がはためきまくっているシーン。
わたしはこの楽章を完全に躁転していると捉えている。だんだんと盛り上がっていきそのクライマックスは天井を知らない、と言わんばかりの作りになっている。焦燥感。この世に嫌なものなんてないんだ、今のぼくは何もかもを心の底から愛することができるから、今ならなんでもできる気がするんだ。勇みあし。胸の舵を握るのは高揚感。
大きな重たい木の扉の先から眩しい光が溢れている。その扉をゆっくりと開く。直視できない光たちにからだが包まれだんだんと空中を浮遊していく。「おめでとう!」「人生は最高!」「あいしているよ!」頭の中のもう1人の声が脳にずっと響いている。前までの自分ひとりじゃこんなところまで来られなかったよ!こんなところまで来てしまったよ!

カラヤンはこれに関しほんと天井知らずの大躁転をしてくださるので、聴き手の高揚感がすごいことになる。日曜日の朝、早起きができたらこの曲をスピーカーの音量マックスにして家中を掃除したらどれほど気持ちの良いことか。


第4楽章

さきほどの3楽章から転がり落ちるように大きな悲しみの渦中にいるようなスタート。
鬱々と暗い。木の芽時に明るくなったり暗くなったりする室内でずっとずっとベッドに横になって涙を流し続けたことがあるひとには何かを思い出させるトリガーになりうる。

「あのときあんなことしなければよかった、あのときのぼくはきみに正しく声をかけられなかった。そんなぼくのせいできみを泣かせてしまったんだ。でもそれには意味があるはずなんだ。まだその意味がわかっていないだけだ。」そんなようなことで脳の全てを支配されているような音楽。涙で濡れた布団が重たくて冷たい。布団の上から動けない。でも時々思い出す、楽しかったこと。それと一緒にでもやっぱりダメだったんだということも思い出す。

チャイコフスキーがほんとうに思っていたことなんてわたしはわからない。すごい学者なら何かを研究しているからこの曲を正しく解釈できるのかもしれない。

わたしにはできない。わたしが発する稚拙な言葉たちで作られた脳みそと感受性ではこの解釈でいっぱいいっぱいである。でもきっとチャイコフスキーは何かを後悔して、何かが悔しくてでもそんなのどうにもできなくて無力感とか非力さを改めて実感してこの曲を書いたんじゃないか。救いがそこには一切ないことが唯一の救いになっている、と思ってるんじゃないかって。
この曲の終わり方が正しい終わりかどうかわからない。聴き終わったあと、すごい絶望に包まれる。突き落とされた。2楽章や3楽章はなんだったんだろう、ゆめなのかもしれない。何もしたくない。

その大きな重たい扉は閉じられることなく、大きな漆黒の虚無を前に半分開きっぱなしになっていて、そこに吸い込まれたぼくの生活の形跡が生々しく残っているのであった。という感じだろうか。
こんなに暗く悲しい終わり方をする音楽は、この曲以外にこの世にない。
そしてそこが魅力である。チャイコフスキーは人の心をこんなにもぐちゃぐちゃにできる。


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