教師の本懐
普段から,人類において教育とはどういう行為か?学校とは?授業とは?という課題について考えている.絡み合っていて他人に上手く説明できずに困っていたのだが,夢現の中で一本の筋になったのでここに書き留めることにする.
有限な存在である我々は自身の能力の限界を謙虚に受け止めねばならない.
我々には未来を決定することなど不可能で,希望をもち,祈ることしかできない.「明日天気にな〜れ」「豊作でありますように」「この子が健康に育ちますように」などと.
我々にできることは「今,ここ」を大切に生きることのみである.
この感覚を薄くしてしまった原因は文字への過剰適応では無いだろうか?
声の文化では文字の文化の我々が考えるような正確な記録というものを残すことは不可能に近い.複数人で記憶が食い違ったら正しいのはどちらだろうか?
声は「今,ここ」の現象であるが,文字はそれを時間の流れの中で固定化し,時空を超えて保存することを可能にした.科学的なデータは自然界における因果関係を明確にし,家畜の貸借りや収穫量の記録は未来を約束し始めた.
科学の発展は未来の予測精度を上げた.
未来の生活が安定するようにと社会制度は改良され続けた.
それに慣れてしまった我々は,未来予測どころか未来を作れると思い上がっていないだろうか?
「未来」は「今,ここ」をつむぎ続けることで目の前に現れる「今,ここ」なのに.「今,ここ」の喜怒哀楽を忘れ,未来を作るために無理をしていないだろうか?若者に対して「未来の幸せな生活のための高給な仕事を得るための良い学歴を積むための試験で高得点を取るための勉強」を要求していないだろうか?新たな知識や技術を得ることは,それ自体が嬉しく楽しい事であるはずなのに?
教室における授業という「今,ここ」を共有している仲間たちと学ぶことが嬉しく楽しいと感じてもらいたい.そのような希望をその場のみんなで分かちあうことが教師の本懐なのだと信じる.
*「人類にとって教育とは何か?」という問いを持ちながら,様々な地域の様々な時代の人達が,神話・伝説・昔話がどのように伝え(口承文芸,発達心理学),自然や神をどのように考え(宗教),どのように生活(社会学)をしてきたか?声の文化や文字の文化において人々はどのように情報(言語学,メディア論)を伝えてきたか?科学・宗教・社会の関係性はどのようなものであったか?などを書籍から学んだり,PodcastやYouTubeでの耳学問であったり,歴史ものの小説や映画から想像したりしてきた.各分野の専門家では無いけれども「教育とは何か?」という問いを持ちながら得られた現時点での結論である.