![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171933168/rectangle_large_type_2_6deae19cd9dc166e6367e96a0dc2e673.jpg?width=1200)
理と解
真理、心理、物理、
倫理、生理、総理、、、
理がつくことによって、この世の理(ことわり)についてまるで分かった気になるのはなぜだろうか。
そもそも、ことわりを筋道のこととすれば、
それが分からないものだと前提しては存在し得ない"理"論なんでしょうが。
そして私は特に、真理というもの(現象?錯覚?存在?)に憧れている。
真の理。混じりけや嘘偽りのないことわり。
なぜかといえば、それが思考の最終到達点だから。
思考が山道を歩くことだとするなら、真理は頂上なのかそれとも山そのものなのか。
何となくだが山そのものな気がする。それも例によって分かった気になっている。
分かった気になっていると気持ちがいい。自信が漲る。コーヒーやワインを片手に、今日に感謝するキモチが湧いてくる。
けれどそんなキモチも束の間、次の瞬間にはまた疑問が浮かび上がる。
果たしてこの山は存在するのか?と。
しんり違いで言えば、心理もまたその存在を無視できない大きなテーマである。
心理というなら心理学が‥となるとまた別のニュアンスなので、ここでいう心理はココロのことわりそのものということにする。
心ほど、曖昧で抽象的な存在はない。
精神と心を分解するならば、ここで問いたい心は魂のようなものかもしれない。
魂が肉体に働きかけ、精神が宿る‥そんなイメージ。
この世に魂が無いと説明がつかないことが多すぎる。心理学でいう深層心理に近いかもしれない。
これ以上踏み込むと少し宗教思想的に偏るので端折るけれど、
そもそもなぜ理のことを分かり(解り)たいと思うのか。
これはきっと淘汰のプロセスなのだ。
理(道筋を作る、縛る、集める)を
解で放し、またバラバラにする。
それをただやっているだけのプロセス。
平家物語で誰かが言ったように
盛者必衰の理はまるで、
"ただ春の夜の夢"であり"風の前の塵"のようなものなんだから。