元不登校の実話③中野さん(仮名)の場合①。
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大阪の吹田市でフリースクールと放課後学習スペースを運営してます、NPO法人トイロです!
秋になって、過ごしやすくなり、食欲が増してくる時期になりました。
秋の味覚。さんま。
最近は、さんまを家で食べなくなってきているそうです。
においがつく。グリルを洗うのが大変。子どもが食べない。など。
確かに、夕方、さんまを焼くにおいで、今日の晩御飯はさんまかなと楽しみになることが減ったなと思います。
それとも換気の機能が向上したのでしょうか。
今日は、そんなさんまの調理法に詳しい、スーパーの鮮魚コーナーで働く、中野さんの不登校体験を書いていきたいと思います。
最後までご覧ください。
中学校の雰囲気が異常過ぎて。
起立!気をつけ!・・・・・・・・礼!お願いしまああああす!
中学校のある授業の前の挨拶です。
その時間だけ教室が軍隊のようになり、これにぼくは耐えられませんでした。
中1が始まってすぐ、この授業に行く事が恐怖で、歩いて10分の距離を30分位かけてたどり着いていました。
その教科の先生は、すぐ怒鳴る、罰を与える、無理やり勉強させるなど、恐怖政治が好きな人でした。
そんなこともあり、ぼくの学年は、入学して早々、学校に行きたくないという生徒が続出しました。
ぼくは最初の「甘えた人間」として位置付けられました。
当時の学校では、「不登校=甘え」として、学校に行けないくなることが、まるで人生の落伍者であるかのように捉えられていました。
ほとんどの先生が口を開けば「社会で通用しない人間になる」と、そんな言葉をぶつけてきました。
教育ママと根性論パパ。
中学へ入学して学校に行けなかった僕に、母と父は毎日のように怒りをぶつけていました。
そして、「自分たちの子ども時代は」や「学校は我慢をおぼえるとこだ」など、自分たちの価値観を押し付けてくる毎日でした。
ぼくにはどこにも居場所がありませんでした。
週に4回しかない授業を我慢すればいいだけだったのかもしれませんが、ぼくにとってはその4回が耐えられないくらいの恐怖でした。
毎時間誰かが怒鳴られ、誰かが居残りをさせられ、夜の睡眠時間を削らなければいけないほどの宿題を出されたり。
この恐怖を誰にもわかってもらえなかった事が一番の辛さでした。
誰でもいいから、大人の人が受け入れてくれていたらぼくは救われていたと思います。
本音は、父と母にわかって欲しかった。
「そんなに辛いなら、休んでもいいよ。」
この一言でぼくは学校に行けたと思います。
「いい学校に行って、公務員になりなさい」と言っていた母。
「男は学歴と肩書」と考えていた父。
到底叶えられない夢でした。
居場所。
学校にいけなくなり、父も母も、ぼくにありとあらゆることをさせました。
不登校支援の施設に連れて行ったり、家庭教師をやとったり、時には二人がかかりで学校に連れていこうとしたり。
今でもトラウマになっているのが、良く分からない大人が来て、見知らぬ家に連れていかれて、1泊させられたことです。
朝起きて走らされたり、まずい野菜ジュースを飲まされたり、大きな声であいさつや親への感謝を言わされたり。もう、頭がおかしくなりそうでした。
こうして、父も母も、なんとか学校に戻そうと必死でした。
その度にぼくは疲れ果てていき、とうとう布団から出ることができなくなりました。
ぼくの居場所は、ベッドの面積のみでした。
人と話さない毎日。
ぼくは完全に不登校になりました。
布団から出ない。着替えない。風呂に入らない。部屋から出ずに、父と母を避ける毎日でした。
父も母もあきらめたのか、もう学校に行かそうとはしませんでした。
それは、不登校のぼくを受け入れたのではなく、初めから息子なんて居ないんだと思うようにしていると感じました。
それもまた辛かったです。
かといって、自分がどうしたらいいのか、どうしたいのかが全く分からず、焦って余計に殻に閉じこもるばかりでした。
だから、誰か助けてと、他力本願にしか物事を考えられなかったです。
本当に毎日が苦痛で、次第に、あの先生を呪うようにもなりました。
そして、ぼくはゲームの世界に自分の居場所を見つけるのでした。
ゲームの登場人物になりきって、現実を忘れることにしました。
それが、中学を卒業するまで続き、結局高校にも進学しませんでした。
その時の両親の顔は今でも忘れません。
それは、感情が全て取りはらわれた表情がぼくに向けられていました。
まるで、ぼくの父と母ではないように感じました。
この瞬間、ぼくはこの世で独りぼっちになりました。
そして、母はこのあとからどんどんおかしくなっていくのでした。
つづく。
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