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空耳散歩#04『NOISE or NOT』公開しました。

【空耳散歩#04公開しました・補足コラム】
 すでに秋ですが、この夏に録音した「蝉の声」を2分45秒にまとめました。空耳散歩のコンセプトは「LISTEN/THINK/IMAGINE~目できく、耳でみる、全身をひらく」ですが、今回は「耳できく」要素が強く映像がシンプルですのでコラム/言葉で補足します(全編には蝉の声があふれていますが)。
 Youtubeが自動で選んだサムネイルをそのまま使用しています。『SKY HOLE』と名づけられたステンレス製の彫刻の内部から撮ったシーンですが、蝉の声がビジュアル化されたような面白さがありました。蝉の声は「NOISE(騒音)」扱いする文化圏(耳)がある一方で、日本ではツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ジージーゼミなど鳴き声を聞き分け、夏の風物詩として古来から親しまれています。しかし今回あらためて時間(季節)や空間(森)を切り離して「音だけ」にしてみると、想像以上に”NOISE”であることに驚きます。本当にこのNOISEの中で夏を過ごしたのかと。
 特に森に鳴り響く音は輪郭も指向性も曖昧で、まさに”カオス”。古代人はこのサウンドスケープから「宇宙の音楽」を想像したに違いないと直感しました。それほどに「スペイシー」なのですが、宇宙の音を聞いたこともないのになぜ「宇宙的」だと思うのか、考えてみれば不思議です。一方で姿の見えないソリストたちの存在感も際立ちます。ハルモニア(調和)とは一斉に同じ音を響き合わせることではなく、多様な音のカオスから生まれるのだと気づかされます。まさに調和は衝突なり。
 それにしても蝉の存在は何とも哲学的です(余談ですがアリストテレスは食べ物として好物だったとか)。例えば芭蕉がきいた「閑かさ」とは何か。そもそも「閑か/静か」とは何か。これはサウンドスケープの思考には欠かせないトピックですし、実際に蝉の声が鳴り響く環境に身を置いて、全身をひらいて考えてみなくてはなりません。
・蝉にまつわる文化史はWIKIだけでも非常に興味深いです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%9F
 映像はとにかく賑やかで驚きます。スマホのフルボリュームでも実音には追いつかない。「季節外れ」の違和感にも苛まれます。それくらい「夏」という時間や空間と結びついている。ところが「耳の記憶」を辿っても”具体的に”音が思い出せないのです。むしろ「しん」とした心情だけが蘇る。蝉の声の真ん中には、ぽっかりと宇宙につながる穴が開いているような感覚です。最初にも書きましたが、本当に自分はこれほどの「NOISE(騒音)」の中で夏を過ごしたのだろうかと他人事のように驚くのです。しかも人生のほとんどの夏を。
 今年はコロナ禍もあって、夏の終わりの静かな森を歩いている時にふと「もの悲しさ」を感じました(その気持ちをなぐさめてくれるのはキノコたち)。それは芭蕉が感じた「閑さ」ではなく、西洋思想の「沈黙=死」に近い感覚だったかもしれません。圧倒的に森を埋め尽くしていた蝉たちの声が消えてしまった。逆にそのことが蝉の「体」を想像するきっかけになりました。カオスのサウンドスケープがひとつひとつ解かれて、一匹づつの蝉の命と結びついていく。森の中に消えた声たちが「命の数」として迫ってきたのです。それは雨の森に彼岸花が咲き始めた頃。夏と秋、生と死の境界に立ち尽くすような感覚でした。
 そして人が音楽を作るのは、まさにこういう瞬間だろうと思うのでした。


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