小さな赤い本〈Life as Music60⇔90ages〉
60歳の記念を何にしようかと悩んで、2011年震災以降の日々の暮らしを撮りためた記録から、家の中と近所の散歩風景だけを集めた〈家族限定〉の赤いフォトブックを作りました。ほぼ50枚に絞りましたが、たぶんこの10倍くらい記録があります。解像度の低い古いスマホから覗いた世界が自分には等身大で心地よい。言い訳ではないですが、もともと近眼なので(今は老眼で)、最近の解像度が高くてピントがクリアな写真にはどこかリアリズムを感じない。自分の身体感覚から乖離せずに、なるべくリアルな知覚を残そうと思いました。年齢的にも、ここからどんどん知覚世界はぼんやりしていくし、その世界の変化を肯定し楽しみたいと思っています。
そして何よりも驚いたのは、震災以降の人生が本当に〈激動の時代〉だったにも関わらず、2000年代10年間に発表した音楽〈耳〉と写真〈目〉の世界観が同じだということです。見事に何も変わらない(苦笑)。つくづく自分は〈聴覚と視覚の境界〉を生きているのだと自覚しますし、知覚を通して〈Peace and Quiet〉と世界中で名付けられた〈静寂〉を探し求めていることが解ります。それは〈嵐の後の静けさ〉というよりは〈嵐の前の静けさ〉かもしれない。いずれにせよ、直訳の〈平和と静寂〉ではなく本来の熟語の意味に近い〈時間のプロセスの中にある一瞬の静けさ〉だと思います。
2000年代の作曲活動は、西洋ロジックに則った《音の芸術》として〈音の関係性〉を追及するというよりは、日々の暮らしの中で出会う多様な〈関係性の境界〉に生まれる〈美〉を音で記録する/再現するような行為でした。だから内なるオンガクに共感する演奏者との出会いが何よりも大事だった。2011年の震災以降はその感覚がさらにひらかれ、障害のある人たちとの即興からはじまり、今は音のない世界に生まれる〈ろう者のオンガク〉を〈きく〉とは何かを考えています。オンガクとは何かを考える上で〈音〉は必須条件ではないというか。
ですから、この写真集は私にとっての〈オンガク〉の延長にあると思っています。特別な場所や時間を探さなくても、日々の暮らしの中にある一瞬に感じた《美》を、聴覚/視覚のいずれかで記録する。その違いに過ぎないのでした。
タイトルの意味は、両角翠舟の号で作られた90歳父の俳句を巻末に10選載せてあるからです。同じような世界を見たり、感じたり、聴いたりしている。親子とは不思議なものだなと思うのでした。
この家の中を含めた半径300メートルくらいのミクロコスモスは、コロナ禍の自粛期に映像作品〈空耳散歩 LISTEN/THINK/IMAGINE〉にして「東京アートにエールを!」に出品しています(専用サイトでは4000回以上の再生を頂きました)。サウンドスケープの哲学を中心に、ミクロコスモスとマクロコスモスをつなぐこころみです。後半にはろう者の舞踏家・雫境さんが私の言葉を踊りで奏でて頂いています。
この〈極私は普遍に通じる〉という信念は、先ごろ亡くなった奈良たんぽぽの家の代表・播磨靖夫さんから頂いた言葉です。大きく広い世界は自分を見つめて足もとを掘り下げた先にも広がっている。〈暮らし〉の中にも普遍的な〈美〉があることを忘れてはならないと思うのでした。
最後に写真と共に一句ご紹介します。散歩の途中で見かけた屋根の上のアオサギです。月を見上げているような、超然とした美しさを感じました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?