世界の中心にあって、それを展開せしめる須弥山
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ブッダの死後分裂を繰り返した部派仏教は、本来のブッダの教えから離れて様々な哲学思想を展開し、膨大な論書を集成していった。そんな論書のひとつに須弥山の世界観が記されている。
阿毘達磨倶舎論によれば、大宇宙であるところの虚空に、気体でできた風輪が、その大きさは文字通り宇宙大の広がりを持ってぽっかりと浮かんでいる。その上に太陽の直径の六倍ほど、800万Kmを超える直径を持つ液体の水輪が浮かび、その上に同じ直径で固体の金輪が浮かんでいる。金輪の上は塩水の海によって満たされ、その周囲を囲むように鉄囲山が取り巻いている。広大な海の中心には須弥山が聳え、その周りは七金山によって環状に囲まれている。その周囲にはやや離れて四つの島大陸があり、南側にある閻浮提(ジャンブドウィーパ)が古代インド人の住む世界だ。島の底は海中で金輪の下層とつながって、その金輪の地下深くに地獄界がある。須弥山には帝釈天や梵天を始めとした神々が住み、その頂付近を太陽(日天)と月(月天)が回っているという。
煩雑に過ぎるのでこれ以上の詳細な解説は控えたいが、金輪、水輪、風輪という名づけや上の概念図を見ると、それが明らかに車輪をベースにしていて、しかもシヴァ・リンガムとも酷似している事に気づくだろう。ここでは中央車軸のリンガが、須弥山に置き換わっている(パーリ語でこの車輪世界をcakka-vāḷaと言う)。
ちなみに仏典に登場するアジャータシャトル王の時代、ラタ戦車の木製車輪の周囲には鉄製の輪縁がはめられていた事が遺跡などから分かっている。須弥山の大海を囲む鉄囲山はここからの連想かも知れない。
須弥山とシヴァ・リンガムとの相似は、実は形だけではない。マハラシュトラ州を中心とした西インドで広く用いられているシヴァ・リンガムのデザインには、しばしば太陽神スリヤと月神チャンドラがあしらわれている事実があり、これは須弥山の中腹を回る月と太陽のイメージに対応するものだ。
これまで論じてきたチャクラ思想の広がりと重なりを前提にすれば、このシヴァ・リンガムの造形が成立する過程で、須弥山のイメージと相互に深く関わり合っていた事が推定されるだろう。
須弥山の世界観は、ヒンドゥ教やジャイナ教においてもメール山の名前で共有されている(仏教の須弥山はスメルの漢訳)のだが、前に説明した通り、ヒンドゥ教版のメール山はシュリ・チャクラを立体化させたものとして具象化されていた。このシュリ・チャクラは、シヴァのパートナーである神姫のデヴィ・シャクティを象徴するヤントラだ。
察するに、本来はメール山世界観のデザインであった車輪ベースの形を、シヴァ派の人々がシヴァの中心性を表すために流用してしまった。しかしメール山そのものを無くす訳にはいかない。そこでシヴァのパートナーであるシュリ・チャクラを立体化して山にする事によって、メール山に充てたのではないだろうか。
シュリ・チャクラの中心にある小三角にはシヴァとシャクティの結合を意味するビンドゥが打たれており、依然としてシヴァの中心性は損なわれていない。
もうひとつ、ジャイナ教においてもメール山の世界観は共有されているのだが、2010年の3月、私はラジャスタン州のアジメールでその実物モデルを見る事ができた。それは前掲した想像図にさらにスポーク的な放射状のデザインを加えたもので、メール山の世界観が車輪をベースにしているという仮説を強力にサポートするものだった。
ジャイナ教はインドでは滅びてしまった仏教を始め、古代の様々な宗教思想やデザインを、現代にまで保存継承している貴重な証言者だと言える。この実在の『メール山モデル』がシヴァ・リンガムそのものの形だった事を確認して、シヴァ・リンガムが車軸と車輪をベースにしているという仮説もまた、私の中で確信へと変わったのだった。
メール山の起源は、既に古層のパーリ経典にその原像があることからもとても古いことが分かる。その細部は時代によってあるいは宗派によってかなり異なっているので注意が必要だが、この世界観はメール山という名前とその中心性そして神仏が住まう至高性において汎インド教的に共有されており、カンボジアのアンコールワット・ヒンドゥ寺院やインドネシアのボロブドール仏教寺院などの構造的な思想基盤にもなっている。
もちろんこの世界の中心であるメール山は、シュリ・チャクラやシヴァ・リンガムだけではなく、前回投稿で詳述した『万有の支柱スカンバ』とも重なり合うものだろう。その全てに通底するのは車輪世界における車軸の中心性に他ならない。
実はヒンドゥ教版のメール山には、デザイン的にいくつかのパターンがあって、その中にストゥーパそのものとも思えるドーム型の造形も存在している。その実物を、私は前回旅行時に南インドで目撃していた。
ストゥーパのドーム型をしたメール山。それは何か心の琴線に触れるものだった。
唐突に聞こえるかも知れないが、その時私が思い出していたのはあの法隆寺五重塔だった。実は五重塔の一階部分、初重と呼ばれる広間には、心柱を囲む形でリアルな須弥山の塑像が置かれている。本来ストゥーパである五重塔の内部中心に『世界の中心である須弥山』が築かれ、更にその中心から心柱が屹立している形になっているのだ。
世界の中心に聳えるメール山のストゥーパ型モデルと、本来ストゥーパである五重塔の内部中心に据えられた須弥山。この符合は意味深だった。
この五重塔に関しては、以前『法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ』の中で紹介しているので、もう一度振り返ってみよう。
日本全国に古い木造の五重塔は点在しているが、中でも法隆寺と並ぶ京都の東寺の五重塔には、心柱に関する伝承が残っている。8世紀の末に創建された東寺は、その20年後に嵯峨天皇によて真言宗の宗祖・空海に下賜され、以来真言密教の根本道場として栄えてきた。そのシンボルとも言える五重塔は高さ54.8メートルで、木造の塔としては高さ日本一を誇るという。
初重内部には、法隆寺のそれと同じ造作で須弥壇と心柱が置かれている。須弥壇には金剛界四仏像と八大菩薩像が祀られているが、真言密教の本尊である大日如来の姿はそこにはない。寺史によれば、五重塔建立を直接指揮した空海本人によって、中心に屹立する心柱こそがご本尊の大日如来として位置付けられたという。
ここで言う『須弥壇』とは須弥山の壇であり、おおよそ日本の伝統的な仏教寺院ではこの須弥壇こそが諸仏やご本尊の御仏を奉安する場になる。東寺五重塔の場合は、須弥山(を模した壇)に諸仏が居並び、その中心に心柱=大日如来が聳え立っている。
大日如来は密教における神的ブッダの代表格で、釈迦如来の延長線上に太陽神ヴィシュヌや原初の一者・創造神ブラフマンなどヒンドゥ的な主神格の要素をも一身に習合した、いわばスーパー神格だ。
心柱の基壇には仏舎利が収められ、それが大日如来だけではなくその化身としてのブッダ自身をも表していた可能性が高い。そう考えると、インドから数千キロ離れた極東日本の古代建築に、ブッダを含め主尊格の御仏が世界の中心軸柱であるスカンバであった証拠が見事に残されていたと言っていいかも知れない。
となるとひとつの仮説が浮かぶ。日本の五重塔建築は古代インドで一世を風靡したストゥーパの東アジア的な展開だった。ならばオリジナルのストゥーパの内部にも、この世界の中心たる須弥山が内在しているのではないか。
スカンバ柱については、ネパールやチベット、そして南インドのストゥーパ内部中心に、既に明らかな軸柱構造が確認できている。果たしてメール山の場合はどうか。
この点に関しては、2010年11月に訪ねたスリランカの仏舎利塔ダーガバの内部構造に、極めて興味深い発見があったので以下に取り上げよう。
これは首都コロンボの国立博物館の展示だが、ストゥーパの内部中心に聖室空間が設けられ、そこに七層石塔のメール山が奉安されていた事が明示されていた。
このメール山の周囲四方にはそれぞれに守護天が置かれ、この構造は日本の五重塔の多くで見られる構成と全く重なる。
更にこの石塔メール山の頂上に黄金の仏舎利容器が置かれており、これは構成上、須弥山の更に上の最高天(解脱界?)を表すと思われる。つまり世界の中心に聳える須弥山の更にその頂に仏舎利、つまりブッダ存在そのものが戴かれている。
こうなると、この様な形で須弥山を内包するダーガバ、つまりストゥーパそのものが、いったい何を表していたのか、という点が気になって来るだろう。
これに関しては突破口になったのは、ストゥーパの白いドーム型躯体が、『アンダ』つまり『卵』と呼ばれていた事実だ。確かに半球状の白いドームは半分にした卵の様に見えない事もない。しかし何故、巨大な半割卵の内部に仏舎利が収められる、などと言う事が起こりえたのだろうか?
最初のヒントは、リグ・ヴェーダの中にあった。
以前から言っている事だが、インド思想とは様々な意味が重合し輻輳しかつ錯綜した万華鏡世界だ。上の引用ではこの世界が重ね合わせた(天と地)二つの鉢として喩えられた事と、以前に紹介した「二個の車輪(天地)を車軸(インドラ)が引き離した」という描写が並置されている。これはどちらか一方が絶対という訳ではなく、祭祀において詩想の高まるままにその場その場のムードでそれぞれにそう喩えられたという事なのだろう。
ここで重要なのは、最初の描写である「二個の鉢を合わせた」という部分だ。この鉢とは一体何か?ネット上の原文およびその英訳を見ると、以下のようになる。
上の解説も併せて見ると、中村元博士が『鉢』としたものは食器としての丸い鉢である事が推定できる。ではその鉢とは具体的にどのような姿をしていたのだろうか?インド的な文脈で『鉢』と言うと、私などはまず『托鉢』のボウルをイメージするのだが…
ここで思い出されるのは、古代インドからネパール、スリランカに見られる一般的なストゥーパが『鉢伏型』と呼ばれる事だ。この『鉢』とリグ・ヴェーダの『天地二つの鉢』は、さも関係ありげにも思えるが…
次に目に留まったのは、ウパニシャッドにおける次の描写だった。
これまで本稿ではコスミック・チャクラに焦点を定めて論じてきたが、実はこの『原初の宇宙卵』もまた古代インド的な並行する世界観として重要なものだったのだ。
この原初の卵から宇宙世界が展開したとする思想は多くの古聖典で共有されており、『ブラフマ・アンダ=ブラフマンの卵』などとも呼称されている。これはブラフマンの車輪世界がブラフマ・チャクラと呼ばれた事の完全なパラレルだろう。
そしてこの上下二つに割れた卵のイメージは、最前の二つの鉢を合わせたというリグ・ヴェーダの表現にも合致する。つまり、「二個の鉢を重ねる」というのは、普通に置いたひとつの鉢の上に、ひっくり返したもう一つの鉢を伏せて重ねるイメージだ。
我々の住まう地表は、卵を二つに割った時の下半球の切断平面だろうか。そう考えると、上の半分は壮大な天の半球になるのかも知れない。
これはひとつの仮説だが、ひょっとするとストゥーパのあの白い鉢伏型ドームは、巨大な白い卵殻の上半分としての天の半球そのものであり、ストゥーパ・ドームの内部は世界そのものだったのではないだろうか?
それは我々に身近な例で譬えるならば、プラネタリウムのドームだ。
もちろん古代インドに、このような中空のドームを造る技術はなかった。けれど理念としてはあくまでもストゥーパ・ドームは天の半球であり、その仮想された内部空間は『全体世界そのもの』だった。だからこそ、その中心にメール山が置かれ、その頂に仏舎利が奉安された。
以前の投稿『法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ』の中で、私はナガルジュナ・コンダの古代ストゥーパが車輪様の内部基礎構造を持っている事を示し、それは法輪であり、その中心車軸なるブッダによって法の車輪が転じられた事を暗喩している、という趣旨を述べていたが、ひょっとするとそれは、法の車輪を含意しつつ、より壮大なコスミック・チャクラをも意味していたのかも知れない。
本稿冒頭に掲載した須弥山世界モデルを振り返って見れば、それは明らかに車輪様の円輪形をしており、その中心に車軸様の須弥山が聳えていた。あの絵柄の上に、すっぽりと天の半球ボウルを伏せたものが、ストゥーパのあの形なのではないか。
そう思って前掲のダーガバ画像を振り返って見ると、ダーガバ、つまりストゥーパの頂部ハルミカ部分には月と太陽が描かれ、その上は神々の住まいになっている。これは須弥山の構造と全く重なるものだ。
このダーガバ内部中心に据えられたメール山は小さな物だったが、しかし理念的にはある種五重塔の心柱の様に、あるいは万有の支柱スカンバの様に、ダーガバの天辺まで貫く高さを持ちその頂の周りを月と太陽が巡る、超高層の山だったのではなかっただろうか。
残念ながら、この様な形で内部中心にメール山を据えたストゥーパと言うものは、スリランカのダーガバ以外に私は見たことがない。そしてダーガバの基礎構造に車輪デザインがあるものや、その内部中心に心柱が聳え立つ例も未だ確認できてはいない(鋭意調査中)。
日本の五重塔における心柱、ネパールやチベットのストゥーパにおける内部中心の軸柱、一部南北インドのストゥーパで確認されたその基礎構造における輪軸デザイン、そしてスリランカのダーガバにおける内部中心のメール山。これらが果たして相互に重なり合うものか否か、今のところ私には立証する手立てはない。
けれど時代的あるいは地域的な脚色に留まらない、一貫して筋の通る汎インド教的な普遍性を、これらストゥーパに感じずにはいられないのだが、読者の方はどう受け止めるだろうか。
ここで私が思い出したのは、以前書いた『法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ』の中で取り上げた、イギリスの考古学者 A. H. ロングハーストの報告だ。そこではストゥーパのドーム構造それ自体をひとつの大きなチャトラ、と見ていた様だが…
そう、確かにチャトラのキャノピー・ドームもストゥーパのドーム構造の起源としては有力だった。ならば、と、チャトラについて改めて検索してみると、以下の様な情報が上がってきた。
このサイトの信頼性については不明だし、情報ソースとしてチベット仏教に傾いているきらいがあるので、古代インドのオリジナルのチャトラ観にどこまで適用可能かは分からないが、そこには非常に面白いタームが並んでいる。
チャトラは「王権の保護の象徴」で、様々な文脈で「サハスラーラ」と称され、「精神的な保護の象徴」でもあり、「チャトラの下は宇宙の中心」であり、「最も大きく最高位のチャトラは白い日傘」であり、それは「天空のキャノピー」であり「頭頂部のサハスラーラ・チャクラの保護特性」を表し、「転輪聖王の宝のひとつとしての眩く白い傘」としても描かれる。
(ここで特徴的な『白色』はブラフマンの清浄性を含意している可能性)
これらのそれぞれについて、今すぐ全てその典拠を当たって確認する事は出来ないが(一部はWikipediaでも確認できる)、ストゥーパのドーム構造とその意味するところを考える時に、極めて示唆的な情報であり、個人的には全く違和感を感じない、どころか、正に「これだ!」感が強い。
それを非常にざっくりとだが、以下にまとめてみよう。
まずストゥーパのドームそれ自体を宇宙的に巨大なチャトラと見る。これは先に紹介した宇宙卵の上半分の天蓋に相当する。
この宇宙的なチャトラは仏法の保護あるいは慈悲の傘を意味し、同時にその軸柱は車輪世界の中心に聳える車軸としてのスカンバであり須弥山でもある。
その輝く白い色は最高位のチャトラを表すと同時に宇宙卵の殻(あるいは白身)の白さであり、その白はひょっとするとブラフマンの清浄性を含意しているかも知れない。
Stupa(パーリ語はThūpa)が頭頂部や頂点をも意味する事からその呼称自体ブッダの悟りの至高性を表し、それはストゥーパの最頂部(天の半球の頂点)に軸柱に支えられる形で掲げられたチャトラの傘によって象徴されている。
そして理念的にはそれら全てを基壇から支え貫いている軸柱は、まさしくブッダそのものであり、仏像表現が登場する以前の段階ではご本尊としての御仏として祀られていた。
このような心象世界の起源とも言える様な詩節がRig Vedaに発見できたので、以下に引用しよう。
天界の丸天井の英語はVaultであり原語はnā́kamになる。これらは円蓋のドーム天井に他ならず、そこにはスカンバという軸柱の存在も明記されている。
ブラフマンたるスカンバが万有世界の中心に聳える神的柱であると同時に、そのブラフマンの身体が世界そのものだった両義性(宇宙樹になぞらえれば、ブラフマンは幹であると同時に総体としての大樹全体=世界そのもの)を考えれば、ブッダ存在たる心柱を内包し円輪ドームとして展開するストゥーパは、ブッダあるいは仏法によって守護されたこの『万有車輪世界』そのものであると同時に、(密教的な観点からみれば)それは神的ブッダの身体だったのかも知れない。
今回タイトルの『須弥山』から始まり、いつの間にかストゥーパがメイン・テーマになってしまったが、インド的な宇宙・世界観というものが『中心なる車軸とその周りで展開する車輪世界』という共通する思想によって貫徹されており、その基盤の上に様々なイデアやシンボリズムを展開していた事実が、次第に明らかになってきたと思う。
そこには確かに、世界の構造その基盤を『チャクラ・ボディ』と見立て、その中心の車軸を、至高なる神仏と見立てる思想があった。
最後に、旅の途上で体験した印象的なエピソードを綴って本稿を終わりにしたい。
2010年4月初旬、私は北インドのサールナートに来ていた。ここにはかつてインド放浪をしていた時に最もお世話になった日本寺の法輪精舎があり、いわば私自身のチャクラ意識の原点とも言える土地だった。
2年振りに再会した住職の後藤恵照師は相変わらずの和尚節で私を歓迎してくれ、本稿に関する話題を二人で語り明かした。運営する学校の為に和尚さんが募金活動をする昼間、私は改めて州立博物館を訪ね国章のライオン・ヘッドに瞠目し、ブッダの初転法輪像に礼拝した。
そして自然な流れで隣接する鹿野園の遺跡公園をぶらつきながら、足掛け15年にわたるインドとの様々な関わりを思い返した。
ふと見上げた私の視線の先に、ダメーク・ストゥーパが立っていた。それはアショカ王がブッダの初転法輪を記念して建てたと言われるストゥーパだった。
だがそれを見た瞬間、私の心にある違和感が生まれていた。この形はつい最近見たことがある。そして気がついた。そう、それはアジメールで見たジャイナ教のメール山モデルとよく似ていた。
ダメーク・ストゥーパはその名前を裏切るように、一般に見られるドーム型のストゥーパよりも、むしろ円筒状のタワーに近い形をしている。それが私に、世界の中央に屹立するタワー状のメール山を思い出させたのだ。
何だろう、この感覚は?さらに何かが引っかかる。そう思った次の瞬間、刹那の閃きと共に私の意識は鳥となって空に舞い上がり、気がつけばダメーク・ストゥーパの天辺に立っていた。
灼熱の地上とは打って変わって、そこには強い風が行き交い暑さはさほど感じない。周りに広がるのは北インドの大平原。遠くには、遥かにかすんで円弧を描く地平線が見える。その地平線を見渡しながら視線をゆっくりと転じてゆけば、大地は地平線によって360度切り取られて、あたかも丸い円盤であるかの様に見えた。そして、その円盤の中央には、大地を貫いて頭を出したかのようなダメーク・ストゥーパが、車軸のように、あるいは巨大なリンガのように、屹立しているではないか。
私はその大地の中心に屹立する頂上から円輪なる世界を俯瞰しながら、全てを理解していた。これこそが、古代インド人が世界を車輪のモチーフと重ねて描き出した、メール山の原風景なのだと。
頭の中のシミュレーションから我に返って、私は大きく息をついた。そうなのだ、それがストゥーパであれ大地に屹立する孤立した岩山であれ、地上から遥かな高みに登って周囲を見渡せば、大地は360度に広がる円輪以外の何ものでもない。その単純な事実に気づいた古代インド人は、自ずからこの世界を聖なる車輪と重ね合わせたのだ。
そしてそれが、月星太陽など回転する天体の運動と相まったもうひとつの『天界の車輪』とのセットとして把握された時、当然の様に、そこには天地の両輪を繋ぎ支える神的な『車軸柱』が想定され、相前後して車軸なる須弥山が構想された。
私はダメーク・ストゥーパを見つめながら、あまりにあっけない謎解きに、しばし立ち尽くすばかりだった。だが考えてみれば、この認識はある意味現代においても十分に通用する普遍性を持っているだろう。
宇宙ステーションに乗って周回軌道上の遥かな高みから地上を見下ろせば、地球はやっぱり丸いんだなと理解できる。事実としてそれは球状なのだ。
しかし私たちの視覚が、両眼視によって擬似的に立体視を可能にしつつも常に事物をある一面からしか見ることができない以上、実際には球状の地球は丸い円盤にしか見えない。それは実際には球状の月や太陽が、地上からは丸い円盤にしか見えないのと同じ理屈だ。
ならばもし、北極の高高度上空から地球を見下ろし、自転軸と経度線を可視化してイメージすれば、それはまさしく、回転する巨大な車輪そのものに見えるに違いない。
古代インド人の輪軸世界観。それはまんざら、当たらずと言えども遠からず、ではなかっただろうか。
この車輪をベースとした須弥山世界観は、やがて超弩級スケールの蓮華蔵世界観へと驚異的進化発展を遂げるのだった。
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サールナート法輪精舎の後藤恵照和尚さま(インド名プラッギャラシュミ長老)は、2016年11月にお亡くなりになりました。ご生前のご厚誼に感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします。
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