法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ
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次に私が焦点を合わせたのは当然のように仏教だった。ヒンドゥ教において、車輪の中心にありその回転を支える車軸=ダンダが至高の神を表すのならば、それは当然、仏教においてはブッダ(大乗においては法身の仏)である可能性が高い。つまり車軸はブッダであり、ダンダはブッダなのだ。
汎インド教的なチャクラ・シンボルの共有、という観点から直感的に私はそう考えたのだが、果たしてそれを具体的に証明できるデータが存在するだろうか。私はそもそもの原点である、古代インド仏教におけるブッダのシンボリズムを再検討してみた。
サンチーのストゥーパが華やかに荘厳されていた頃、ブッダは未だ人の姿をした仏像としては描かれず、様々な代用デザインによって象徴されていた事は前に書いた。それは法の車輪やブッダの舎利(遺骨)を収めたストゥーパ、その下で覚りを開いた菩提樹、聖なるチャトラ、清浄なる蓮の華などだった。以前と違ってすでに車輪と『車軸』というイデアを獲得した私の目には、やがてこれらの表象に一貫するある特徴が明らかに浮かび上がって来たのだ。
最初に法輪から見てみよう。ヒンドゥ教の場合と同じように、私はこれまでそこに車軸の存在をほとんど意識したことはなかった。そこで改めて様々な画像データを詳しくチェックしてみると、そこには目立たないながらも必ず車軸が描かれており、車軸が省略されて空洞のハブ穴が描かれたもの全く見当たらなかった。
そもそも「ブッダによって法の車輪が転じられた」という事は、ブッダが主語であり法輪は目的語である。つまり両者は明確に別々のものだと理解されるべきだろう。今までの流れから見れば、法の車輪が転じられたのならば、その中心にあって回転を支える車軸こそが、当然主語であるブッダという事になる。
この件に関しては、シュンガ朝の時代、BC1世紀前後の仏跡に描かれた法輪信仰に、とても興味深い絵柄があるので取り合えず紹介しておこう。
ストゥーパの欄楯彫刻の中で、人々によって礼拝されている法輪の中央にやや誇張された大きい車軸(あるいはハブと車軸の合体)が描かれ、その上に花輪と思われる飾りが献供されている図柄が確認できる。これは現代インドでも普遍的に行われている神々への供養であり、一般には神像の首に花輪がかけられる。
この誇張された車軸とそこに供養された花輪のモチーフは、当時の人々が車軸をブッダそのものだと認識していたひとつの表れではないかと私は思う。同じ図柄は同時代のサンチー第二ストゥーパにも存在し、その地理的距離から言っても、北インド全体で同じ様な信仰が共有されていた可能性が高い。
この「法輪の車軸がブッダである」という仮説は、後段においてストゥーパとのからみでより一層の整合性を見いだす事になる。
次にチャトラについて考えてみよう。ひとたび車軸を垂直に立てるという発想を得ると、それはチャトラの姿と明らかに重なり合う。手で持つ柄が車軸であり、その上で展開する傘が車輪だ。
思えば、私は既に第三章でチャトラに関して「その柄軸を伸ばして反対側にもうひとつ傘を付ければ、そのまま車輪として転がって行くかも知れない」と冗談を飛ばしていたが、かように輪軸とチャトラの相似性は高い。
私が知る範囲ではチャトラには二種類ある。傘の部分がまっ平らなチャトラはそのまんま車輪と車軸を立てたような姿で、これは初期の仏教美術などに多く見られる。もう一つは傘の部分がドーム状に湾曲したもので、現在私たちが日常で使用しイメージする傘に近い。
どちらにしても、これらチャトラの柄を車軸と見立てれば、傘は車輪であり、その中心から骨が放射状に展開する構造デザインは、スポーク式車輪とぴったりと重なり合う事が一目瞭然だった。
このチャトラは他のアイテムと共に現代ヒンドゥ寺院でも聖なる神器として継承されている。特に南インドのヴィシュヌ系寺院で盛大に祝われるヴァイクンタ・エカダシという祭りでは、境内を練り歩くご本尊のヴィシュヌ神像と共にこのチャトラを持ったバラモンが随行し、その両手で捧げ持ったチャトラの柄を回転して、傘をくるくると回す儀式が存在する。人は誰しも子供の頃に傘を背中で回して遊んだ記憶があると思う。傘を車輪の様に回すという行為は、私たち人間にとってごくごく自然な発想だと言えるだろう。
次にブッダがその下で覚りを開いた聖なる菩提樹を見てみよう。それは一本の主幹によって支えられた上に枝葉が樹冠となって広がっている。樹冠を真上から概念的に見れば、中心である主幹から枝が放射状に展開し全体として円輪形の広がりを持っていて、チャトラと全く同じ構造デザインをしていることに気づく。
そして聖なる蓮華もまた、水中からスッと立ち上がった一本の茎に中心を支えられて、その上で車輪のように花開く構図は全く同じものだった。
さらにチャマルと呼ばれる払子(聖なるハタキ)についても、柄を持って回転させて房毛を遠心力で円形に展開させる儀式がヒンドゥ教やシーク教に存在する事実がある。
全てに共通するのは、「シンプルな棒状の軸に支えられて展開・転回する円輪」という構造だ。これらの符合はもはや偶然の一致を超えている様に私には思えた。そしてそれを裏付ける事実がそこにはあった。
基本に戻って『ダンダ』の意味を辞書で調べ直してみると(ダンダにはदで始まるदण्डとडで始まるडण्डの二つがあるが、煩雑になるのでここでは一括りで『ダンダ』として扱う)、基本的な意味である『棒』や懲罰以外に、植物の茎や木の幹、そして道具の柄という意味が存在したのだ。
聖なるシンボルである車輪の車軸、チャトラの柄軸、菩提樹の主幹、蓮華の茎柄、これらの全てが、『ダンダ』というキーワードを共有していた。これは一体何を意味するのだろうか。
私が今まで読んだインド思想に関する一般的な説明では、チャトラがブッダを象徴するのは、本来王族など貴人の上に差し掛ける日よけの傘が転じて、偉大なるブッダを象徴する様になったというものだった。だがインドという酷熱の大地では日傘は上流社会のありふれた日常の道具であり、それだけではイマイチ弱い。
繰り返して言うが、ヒンドゥ思想において『ダンダ』は神であり、汎インド教的なイデアの共有を前提にした時、それは当然、仏教的文脈ではブッダ、あるいは大乗的に言えば法身の仏となる可能性が高い。
ダンダ=車軸がブッダであり、それに支えられて転ずる車輪が仏法であるならば、チャトラの場合は柄こそがブッダであり、それに支えられて展開するキャノピーが仏法を表す事にならないだろうか。仏に支えられて開かれた法の傘が強い陽射し(苦)を遮り、功徳(救済)という癒しの日陰を人々に差し掛けた、というように。
それは当然、ヒンドゥ教的文脈においては神の恩寵を表す。ここで思い出すのは、インドラが降らせた怒りの豪雨から人々を守るために、ゴーワルダン山を傘として持ち上げたというクリシュナ神話だろう。その光景は、正に傘の柄軸としてのクリシュナを表している。
それは菩提樹についても同じことが言える。本来はその下でブッダが覚りを開いたことから、菩提樹がブッダ自身を象徴する様になったという解釈だった。だが菩提樹の『主幹』こそがダンダであり同時にブッダであるならば、その意味は微妙に違ってくる。
一本の主幹に支えられた大木の樹冠という表象は、強い日差しや雨から人々を守るチャトラと見事に重なり合い、同時に樹木が花を咲かせ果実を実らせ、鳥などの小動物から人にいたる生き物に恵みを与える『生命の樹』とも重なり合う。
それはブッダに中心を支えられて展開する仏法が、仰ぎ見る樹冠の高みで枝葉が繁茂する様に興隆し、人々の心の拠り所となり心の糧を与え、人生の苦からの避難所となる姿を象徴的に意味していたとも考えられるのだ。インドの酷熱の陽射しを思えば、これらの想定は一段とリアリティーを増すだろう。
蓮華についても同じ事が言える。『柄茎』であるブッダに支えられて、その上で清浄なる法の華が咲き誇り、その妙なる香りは世界の隅々にまで広がって、人々の心を潤していく。それは文字通りブッダにその中心を支えられて華開く、『妙法蓮華(サッダルマ・プンダリーカ)』そのものを表していたに違いない。
これらの仮説すべてが正しいとはにわかには判断できない。けれどダンダという言葉をキーワードに、これらのシンボルを検討し直す事によって得られた新たな意味世界の可能性は、私にとって新鮮な驚きだった。
では最後のシンボルであるストゥーパはどうだろうか。これについては特に印象的な記憶がある。あの盗難事件によってデリーに缶詰めになっていたとき、私は毎日日本山のストゥーパを仰ぎ見ていた。そして思ったのだ。そう言えばこのストゥーパも円輪形をしていると。
普段下から見上げている時はドーム状の形しか意識に上らないが、頂上に五重のチャトラを掲げた姿を真上から見れば、それはまさしくチャクラ・デザインそのものだった。だが一般にストゥーパのドームはプレーンな姿をしており、そこにはスポークに相当する構造・デザインは見当たらない。ここまでがインド再訪以前の思考過程だった。
2009年11月半ば、私はこの疑問を解決するきっかけを求めて、南インドのナガルジュナ・コンダを訪れていた。ここはアマラヴァティについで西暦3世紀ごろイクシュヴァク朝の下で仏教が栄えた土地だった。当時ここには世界でも有数の仏教大学があり、アジア各地から留学僧が集まったという。
それは仏像を造形表現として持たない時代から、仏像がその表現の中心へと移行する時代の事で、この地独特のストゥーパ文化が花開いた。これまでインドの主だった仏跡を訪ねてきた私にとって、ここは最後の未踏の地でもあった。
ベースとなるマチェルラの町に宿を取った私は、翌日雨季のどんよりした空の下、まずはナガルジュナ・サーガルへ向かった。このサーガルとは湖の事で、遺跡を含めた広大な土地がこのダム湖の下に沈んでいる。そして発掘された遺構は、水没を免れた小高い丘、現在は島となっているナガルジュナ・コンダに移設された。のどかな客船に乗って社会見学の学生たちと一緒に島に渡った私は、ここでど真ん中とも言える事実を発見したのだ。
小降りだった雨は、島に渡るとすぐにどしゃ降りに変わっていた。私は野外展示を後回しにして駆け込む様に博物館に入った。人の姿をとったブッダ像と仏伝に即したストーリー性豊かな彫刻表現、当時のストゥーパ崇拝をリアルに記録したパネルなど、どれも素晴らしい展示だったが、その中に遺跡の全体像を俯瞰する立体ジオラマの小コーナーがあった。いかにも地味なその小部屋に期待もせずに入っていった私は、のっけから脳天をどやしつけられる様な衝撃に見舞われていた。
そこにあったのは、レンガの基礎だけが発掘されたストーパ基壇のモデルだった。それが、見事なスポーク式車輪の形をしていたのだ。
「ストゥーパの造形の内部に、車輪のイデアが文字通り隠されていた!」
私はあまりの驚きに声が出なかった。
受付で販売していた考古局のブックレットの中にこの件に関する解説と図版があったので、下に引用しよう。
この報告のオリジナルは、1936年当時セイロン(現スリランカ)の考古局長官であったイギリス人A. H. ロングハーストによって書かれたものだが、明らかに彼はここで、このストゥーパの基礎プランが車輪とチャトラをベースにしている、と考えていた事がわかる。
だが一般に円形ドーム状の建造物を建てる場合、その基礎として放射状の支持構造を用いるというのは極めて自然な発想で、そのことだけを持って、これが車輪やチャトラをベースしている、という明らかな証拠にはならないだろう。
だが次のマハ・ストゥーパの基礎プランを見た時に、ロングハーストの見解は私の中でよりリアリティを増したのだった。
ここナガルジュナ・コンダの遺跡は大学と僧院が同居した複合施設なのだが、その広大な敷地のあちこちに小ストーパが点在していた。そしてそのほとんどが4本から12本(すべて偶数本で実際の車輪におけるスポーク数とも重なり合う)のスポーク構造の基礎プランを持っていた事がわかっている。中には明らかに卍の形をした基礎プランも存在し、それが単なる物理構造ではない事を主張していて非常に興味深い。
そして、メインとなる巨大なマハ・ストゥーパの基礎プランは、それらとは一線を画した重層構造をしていた。おそらくそれはサイズの問題がひとつの理由で、支持構造としての強度をより高めるためもあったのだろう。その基礎プランはそれぞれが隔壁によって区切られた三重の同心円チャクラだったのだ。
そのデザインを見た瞬間、私はまったく違う場所で見た別の図柄を思い出していた。
それは以前にも引用した、カイラーサ寺院の屋根に見られる蓮華輪デザインだった。比べて見れば一目瞭然なのだが、カイラーサ寺院の蓮華輪デザインは内輪と中輪、中輪と外輪の花弁の中心軸が交互にずれており、その構図はそのままマハ・ストゥーパの基礎プランと重なり合うのだ。
同様の蓮華輪デザインは、カルカッタのインド博物館に展示された、ガンダーラ地方のストゥーパの表面にも施されており、その他、インド全土の吉祥蓮華輪においても遍く共有されている事実がある。
この時代、聖なる車輪と蓮華輪が一体視されていた事を前提にすれば、ロングハーストが言う小ストゥーパの基礎プランは法の車輪を、さらにマハ・ストゥーパの基礎プランは重層蓮華輪をベースにしていた可能性が、十分に考えられるだろう。
蓮華輪や聖車輪の基礎プランと立体化したチャトラの結界によって上下を挟むことで、その内部空間(実際にはすべて土で埋められていた)は完全に聖別され、ブッダや高僧の舎利が持つ法力を永遠に保存する密閉カプセルとなったのだ。
次に、これは未だ実見できてはいないのだが、もうひとつ北インドの仏跡で発掘されたストゥーパが同じように輪軸の基礎構造を持つとの報告があったので紹介しよう。これは北西インドのチャンディーガルから西に約 40 キロ離れた、パンジャブ州のサンゴールという場所で発掘されたクシャーナ時代のストゥーパ遺構だ(ロングハーストの時代には未発見だったか)。
ここで明らかなのは、第一にストゥーパの内部基礎構造が車輪様の二重スポーク構造を持っていた事(その後、三重である事を確認)、そしてその中心から軸柱が立っていたと推定されている事(軸柱が埋まっていた穴などがあったのだろうか)、更にその軸柱が立つ中央地下に仏舎利容器が埋められていた事、そして最後に、この報告者がこの軸柱をパラソル、つまりチャトラの柄軸と見立てている事だ。
最後の「中心の軸柱をチャトラの柄軸と観る」点に関しては、先に取り上げた、イギリスの考古学者 A. H. ロングハーストの報告とかなり重なるものだ。ただしそこではストゥーパのドーム構造それ自体をひとつの大きなチャトラ、と見ていた訳だが…
確かにサンチーなど他のメジャーなストゥーパでは、チャクラ・デザインとの関連性を指摘できる様な証拠は未だ確認できていない。だが、地理的にも相当離れた複数地点でデザインの符合が見られる事から、ストゥーパの基本設計に車輪や蓮華輪そしてチャトラが深く関わっていた、という仮説は十分以上の蓋然性を持っていると私は判断している。
仏教が滅びると共にそのストゥーパ文化もインドでは滅んでしまったが、アショカ王の時代から続く仏教国としての長い歴史を持つスリランカ、密教が伝わったチベットやネパールなどでは、現在に至るまでこのストゥーパ文化が継承されている。私はかつてアジアを放浪した時に、ネパールとスリランカを訪れて実際にストゥーパも見ている。そしてチベット仏教ついては、亡命政府のあるダラムシャラーをはじめインド各地で多くの寺院を見ることができる。
それらに加え、ネットを渉猟して集めたデータを総合すると、ストゥーパと輪軸との不可分一体の関係性が更に浮かび上がってくる。
その後2011年に訪れたネパールで、私はストゥーパ内部中心を貫く軸柱構造が文字通り『柱そのもの』である事を確認した。パタン博物館の展示の中にストゥーパの内部構造を示すものがあり、そこには基壇から頂部のチャトラを貫く一本の柱が明示されていたのだ。興味深いことに、やはり柱の基壇下には仏舎利が埋葬されているという。
この基壇から立ち上がり頂部相輪までを貫く軸柱構造は、正にサンゴールの研究者が語っていたチャトラを支える中心柱そのものだろう。
考えてみれば、サンチーのストゥーパの頂部中心にもチャトラが据えられており、当然それは柄軸で支えられている。実際のストゥーパ内部は確認できないが、理念的にはその柄軸柱は内部を貫き基壇にまで達するもので、傘ではなく軸柱それ自体を「ブッダそのもの」として祀っていたのではないだろうか。
チベット仏教に伝わったストゥーパの中にも、中心軸柱構造が確認できるので次に見ていこう。下図の解説では中心柱は「生命の樹」とされているが、車軸やチャトラの柄、そして菩提樹の主幹がダンダでありブッダそのものであったという私の仮説が正しければ、本来その中心軸構造こそがご本尊の『御仏』そのもののメタファーであった可能性が高い(チベット仏教は密教なので、その御仏は釈尊以外の尊格か)。
さらに調べると、このチョルテン・ストゥーパの内部中心軸を瞑想する御仏の背骨と重ね合わせる思想がチベット仏教自身の中に存在する事が分かった。これは後に論じるヨーガの『メール・ダンダ』とも重なり、とても興味深い。
この様な中心軸柱は、実は日本仏教の五重塔にも存在する。『心柱』と呼ばれる長大な柱が塔の中心を貫くように屹立しているのだ。
それは建物の支持構造とは直接の関わりをもたず、頂上の九輪を支えるだけであり、その存在理由についてはこれまでも様々な事が言われてきた。法隆寺五重塔が創建以来千数百年の間一度も地震などで倒れていない理由として、この心柱が持つ緩衝作用によるというのもひとつの仮説だ。
だが、インド仏教のストゥーパ文化が長い旅路の末に極東アジアの果てにある日本にたどり着いた、それこそがこの五重塔であり、東アジアの木造建築としてそのデザインは方形多層だが、五重塔は本来的にはストゥーパであった。ならばこの心柱もまた『御仏』そのものを象徴していた可能性が十分に考えられる。
それが思いもかけず五重塔を地震などの災害から守ったとしたら、これこそ正に御仏の加護と言わなければならないだろう。
そう思って調べると、あにはからんや「心柱こそが御仏そのものであった」という事を明示する証言に出くわしたので以下に紹介したい。
法隆寺の場合は存在しないのだが、京都東寺の五重塔の場合、心柱についてのある言い伝えが残っていたのだ。そもそも8世紀の末に創建されたこの東寺は、その20年後に嵯峨天皇によって真言宗の宗祖・空海に下賜され、以来真言密教の根本道場として栄えてきた。そして五重塔は空海自身の指揮下に建設され、その心柱は密教のご本尊である大日如来と位置付けられていたという。
ネパールのストゥーパ同様、日本の五重塔の多くで、その心柱の基壇直下に仏舎利(と称されるもの)が奉納されている事を考えると、本来的に中心車軸である軸柱こそが『御仏』である、という事の整合性は、より一層高まるのだった。
そして更に、車輪と車軸の構造を内包するストーパ自体が巨視的に見れば車軸となるという、ロシアのマトリョーシカ人形の様な『入れ子構造』が明らかとなる。成道の地ブッダガヤで訪ねたチベット寺院で、私は実に印象的な仏塔を発見した。中心にあるスリムなチョルテンを車軸に、巨大化した欄楯をリム・タイヤに見立てれば、それは車輪システムそのものの姿をしていたのだ。
この『車軸としてのストゥーパ』はネパールのカトマンドゥにあるボダナート・ストゥーパを見るとよりリアルに実感できる。航空撮影で露になるその俯瞰的な構図は、正にチャクラ・デザインの核心にある車軸としてのストゥーパの存在を鮮明に描き出し、同時にその全体像はシヴァ・リンガムとも見事に重なり合う。
ここではバランス的に、仏眼のあるハルミカより上が車軸で、鉢伏型の躯体がハブという感じだろうか。その全ての中心を見えざる軸柱が貫いて立ち、その基壇にはブッダそのものであった遺骨が埋葬されているという構成になる。
ネパールのストゥーパ、その中心ハルミカに描かれた眼は仏の知恵を表すと言うが、それはまさに、中心の車軸である『ご本尊としての御仏』そのものと、私の目には映る。
下の画像はパキスタンのペシャワールのストゥーパの内部から発掘された、実際に仏舎利を収めていた小容器だが、円筒をベースに蓮華輪デザインをあしらった蓋の中央車軸の位置に、ブッダが掲げられている。
通常は取っ手となる部分を大胆にもブッダにしてしまうというこの構成は、中心車軸をブッダとして観ていた事を前提にしなければ説明しにくい様に思われるが…
そしてもちろん、これら実際に発掘された仏舎利容器の多くが、日本の五重塔と同様ストゥーパの円輪基壇中心部分に埋められていた、という事実がある。
私の中で、もはやストゥーパと車輪との関係性そして中心車軸=ブッダという読み筋は、確信に近いものに変わっていた。
以前に言及したが、この様な「円輪の中心軸に主神格を据える」構図は、曼荼羅やシュリ・チャクラ、インドネシアのボロブドゥール仏教遺跡などでも普遍的に確認する事が可能だ。
現在全インド教に共有される『右繞』という礼拝作法がある。これは寺院の本殿やご本尊をお参りする時に、人間の体の浄なる右側を中心に向けて歩いて回る礼拝儀礼で、その起源は古代仏教のストゥーパ文化にまで遡ると言われている。
ストゥーパの右繞礼拝において、中心の仏舎利を車軸に、アンダ躯体をハブに、そして欄楯を車輪のリムあるいはタイヤと見立てた時、その間を回る信者の動きはスポークに相当する。信者自らが法の車輪のスポークとなってそれを支え回す姿は、在家主体の大乗仏教思想を象徴しないだろうか(これは、それを回す事によって功徳を得るというチベット仏教のマニ車とも関連してくる)。
この右繞に関しては、とても面白い絵柄がある。
これはその後訪ねたラクナウ博物館の展示に発見したものだが、アショカ石柱と思われる柱の周りを、王侯らしき信者二人が右手で柱に触りながら礼拝している。わざわざその一人を後ろ姿で描いている事から、これは右繞している最中の動的表現と見て間違いないだろう。
このスタンバを車軸に見立てれば、右繞する信者の動きは正しく車輪の回転そのものになる。ならば、ひょっとして、このアショカ石柱なるモニュメントは、本来ストゥーパの内部に屹立している筈の車軸柱を単立の柱として取り出した、ブッダそのものとしてのご本尊ではないのか?
この疑問から始まり、話はやがて宇宙的なまでに壮大な『万有の支柱スカンバ』の思想へとつながって行くのだった。
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