「おうち」がある幸せ。
昨日、
コメントをいただき、
気が付きました。
自分の言葉のようで、
完全には自分の言葉でなかったのかも、と。
今まで、
自分が学んだことを
noteでアウトプットしてきました。
学んで自分が感じたことを
織り交ぜながら書いてきて、
自分の言葉のつもりでした。
しかし、
学んだことがどんなに良い事であっても、
アウトプットする人間が、
何故それを必要としていたのかだったり、
学んだことでどう変わったのかがあることで、
より言葉に血が通うのだと感じました。
最近文章の感じが変わったと、
教えていただけて良かったです。
ありがとうございます。
やはり、noteって良い場所ですね。
私は今年一年、
心の在り方や
自分とつながる方法を
学んできました。
手帳術の講座を受けたり、
「現実に使えるスピリチュアル」を
凄い面白く教えてくれる元芸人さんから
学んだり、
人気のあるコンサルタントさんの
有料講座を受講するなどしてきました。
どうして
「心の在り方」や
「自分とつながる方法」
を学びたくなったかというと、
私にはいま「おうち」があるからです。
私にはいま安心していられる
「おうち」があるから、
やっと落ち着いて自分自身と向き合う
ということに自然とたどり着いたのだと思います。
なぜ「おうち」というフレーズを使うか、
というと。
今年の春先くらいに、
かつてテレ東で放映されていた
「こねこのチー」という3DCGアニメを
アマゾンプライムでたまたま観て、
そこから
「チーズスイートホーム」
というアニメを観るようになりました。
(原作漫画は、こなみかなたさん)
母猫ときょうだい猫たちから、
はぐれてしまった子猫のチーが、
元々暮らしていた「おうち」に戻れず
別の家族に保護されて、
段々とチーにとっての「おうち」は
その保護してくれた家族たちとの暮らし
になっていったのです。
チーが「おうち」のリビングのクッションで、
幸せそうに眠っている姿が
何となく自分と重なりました。
今の私は心から安心できる場所にいる、と。
ここ最近気が付いたのです。
ただ、
気が付きかけたばかりのころは、
戸惑っていました。
結婚当初は営業職を続けていて、
それからすぐ有期雇用ですが、
週四日フルタイムの事務職として
働いていました。
しかし、
感染症が猛威を振るい始めてから、
週四日でも激務になり
体調不良で退職しました。
働いてもいない。
専業主婦だけれど、
子育てをしているわけでもない。
家にいるだけ。
今思えば、
資格試験の勉強に励んだのは、
罪悪感をかき消すためでした。
無事に資格は取れました。
そしてさらに難しい資格を
目指そうとしています。
それはそれでしたいのだけれど、
何となく苦しかったのです。
何となく苦しくて、
今までも苦しい時期を、
自己啓発や心理学であったり、
スピリチュアルなどの本
を読んだりしながら
自分なりに乗り越えてきました。
ですが、
今回の「苦しい」の原因が
なかなか分かりませんでした。
そして、
分からないなりに
「このままでは嫌。」と
もがきながらたどり着いたのが、
「自分自身とつながる事」
や「心の在り方」を学ぶことだったのです。
それらを学んでいくことで、
段々と「自分として居るだけでよい。」
と思えるようになって、
今いる「おうち」で安心して
ぬくぬくと暮らしても良い
と感じられるようになりました。
「自分として居るだけで良い。」
と思えなければ、
沢山勉強して、
沢山資格を取ったとしても、
「ありのままの私」であることを
許可できないでいたら、
欠乏感は一生埋まらなかったでしょう。
今は安心していられる「おうち」があって、
「ありのままの私」であることを
自分自身に許可出来るようになっていました。
「ありのままの私」であることを、
自分自身が許せていないと、
自分を満たすために
何かを買ったり、学んだりしても、
それがすべて欠乏感を埋めるためのものだから、
「苦しい」ままなのです。
何を買っても、
何を学んでも、
美味しいものをたくさん食べても、
自分という存在を
自分が許可しなかったら
その満足感を
受け取ることは出来ないのです。
そのためにも、
「おうち」という安心できる場所が
有るということが大切で、
それが有ることが幸せで有難いと
感じている今日この頃です。
『絶えずあなたを
何者かに変えようとする世界の中で、
自分らしくあり続けること。
それがもっとも素晴らしい偉業である。』
エマーソン
この歌を聴いていると、ほっとします。