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シミュラークルに手を伸ばして
★長い前書き
最近、現実の非対称性についてよく考えている。正確には現実の記号化、コード化による各視点の非対称性だ。なぜ私たちは世界の捉え方を異にするのだろうか。
その要因は現実の非実体性にあるだろう。コード化による切り取り方が異なれば、視点もまた変わってしまうのだ。
私たちが現実だと思っているものは《共同幻想》であるとか《文化のフェティシズム》であるとか、その非実体性の告発はいくらでも行われてきた。
そんな現実の告発者のひとりにジャン・ボードリヤールがいる。彼の本は大変スリリングでおもしろく、よく読み返している(しっかりと読んだのはたった2冊だが)。ボードリヤールは現実が《シミュラークル》という現実に準拠しない記号に乗っ取られ《ハイパー・リアル》になるのだと言った。
なるほど、私たちはシミュラークルに取り囲まれているのかもしれない。ボードリヤールの議論をひどく矮小化すれば、フェイクニュースがはびこる現代の様相を説明するのにはうってつけだ。実際に私たちの日常は、真偽不明の情報に脅かされている。嘘によって現実が改変されるそのさまは、もはや現実ではなくハイパー・リアルだ。
しかし現実が大いなる幻想であったとしても、それは輪郭が曖昧なだけである。顔のどこからどこまでが鼻であるかを示す印が体になくても鼻はあるし、道路の白線が消えていても車線はあるし、嘘でも誠でも脅威は脅威だ。
ゆえに現実の非実体性を告発するだけでは何も生まれない。足場すら心許ないこの世界をいかに現実的に生きていくかは、私たちひとりひとりが考えていく必要がある。たとえ手に入れたものがシミュラークルでも、なにもないよりはよほど現実的である。
***
本記事の論旨は以上なのだが、せっかくなので私のボードリヤール解釈についても少し述べておきたい。この非実体的な現実を、皆さまと一緒に見つめていければと思う。おもに記号学(論)的な話になる。
「おわりに」を除いた、上記の5点について見ていこう。本当はいくらでも書くことはあるのだが、キリがないし私自身もまだ研究不足である。
記号の捉え方について
単に「記号」と言うと単一の記号素、言語記号であれば【犬】や【心】といった単語を思い浮かべがちだが、それらが連鎖して生まれた文章などもまた記号である。ここでは近代言語学の父とも言われるフェルディナン・ド・ソシュールを起源とする、ひとつの科学である記号学における記号観を導入しよう。
ソシュールのシーニュとは、ひとり単語を意味せず、それは文であり、言述(ディスクール)であり、テクストでもあるすべての言表(エノンセ)であることを想起しよう。
[※引用者注 非言語的記号について]
これまでは単なる物質的対象として個別に観察されていた非言語的記号作用も、その背後に隠された無意識的ラングという文化の価値体系における差異化活動として関係づけられ、身振り、手話、象徴的儀式、パントマイム、モードまでが、《コトバ》の特性のもとにその本質を現前する。
このように記号学における記号は、ただ事物を指したり何かの観念を表象したりするという、ごく一般的な記号観に収まるものではない。恣意的=社会的価値体系全般は記号学の対象となる。
本記事ではジャン・ボードリヤールらが用いた記号「シミュラークル simulacre」について言及するが、シミュラークルもまたディスクール=記号の連鎖=記号現象であると捉えてみよう。
シミュラークルとシミュレーション、ハイパーリアル
ひとまずは基本概念を押さえていこう。ボードリヤールらが用いた概念「シミュラークル simulacre」は「まがいもの、模造品」といった語義の単語である。しかしフランスの思想家たち、特にボードリヤールの文脈においてはより幅広い意味を含んでいるように思われる。これについては、次項の「シミュラークルの三領域」を参照のこと。
現実を記号化し、シミュラークルにする手続きを「シミュレーション simulation」と呼ぶ。詳細は「表象とシミュレーション」を参照のこと。そして、シミュラークルとなりかつての現実ではなくなった現実が「ハイパー・リアル hyper réel」である。
こんなところだろうか。私の解釈が相当に混ざっていることをご理解いただきたい。
シミュラークルの三領域
ボードリヤールはシミュラークルの三領域として「模造」「生産」「シミュレーション」を挙げている。模造はまだオリジナルとそのコピーという二項対立が残っている、表象に似たシミュラークルである。生産に至ると同じシミュラークルを無限にコピーするようになり、どれがオリジナルでどれがそのコピーであるという対立は失われる。シミュレーションは記号の際限ない組み合わせ、差異の変調によりもとの現実とはまったく関係のないシミュラークルを生み出す。
ボードリヤールによれば各領域はより高位の領域に取り込まれるため、シミュレーションの時代においては模造も生産もシミュレーションによって行われることになる。シミュレーションの中核となるモデル(「シミュレーション・モデル」とも表記される)の形態は取り替え可能であるとされているから、模造はオリジナルに対応する記号を(そんなものがあるのかはわからないが)、生産は複製したい記号を準拠モデルとする、と考えればよい。よってひとくちにシミュラークルと言っても、絵画や写真などから大量生産品、流行までのあまねく記号現象が含まれうることを留意されたい。
先にボードリヤールの文脈における「シミュラークル」という言葉は、原義よりも「幅広い意味を含んでいる」と言った理由がはっきりしてくる。シミュラークルはもはや何かの模造品では収まらず、オリジナルのない複製=再生産でもあると言える。シミュレーションの領域におけるシミュラークルは、現実に準拠を持たない記号である。
表象とシミュレーション
ボードリヤールは著書『シミュラークルとシミュレーション』にて、表象とシミュレーションの相違を強調する。
○表象
「表象 reprèsentation」は記号と指向対象との等価性、交換可能性に基づく。「コトバはモノの名前ではない」とはソシュール=丸山圭三郎のテーゼであるが、特定の社会制度下においてはコトバさえもが記号となる。
しばしば「再=現前 re-prèsentation」とも訳されることからもわかるように、表象とは現実のとあるものを代行して表現・再現することである(塚原史『ボードリヤールという生きかた』p.133)。 【犬】という記号は「犬という実在の生物」を表現しており、またその実在と等価であると信じられているからこそ、私たちは【犬】を使ってその場にいない犬をも指し示すことができるのだ。
〈コード化された差異〉とは、既成の言語体系内の構造的差異を二項対立関係においた名称とみなし、これと交換可能な指示対象(事物および概念のカテゴリー)を実体視する場合にのみ妥当する概念ということになる。
今村仁司編『現代思想を読む事典』、p.219
ただし原文において太字は傍点(ヽ)
なお記号と指向対象の等価性、交換可能性が保証されているのは、硬直した特定の社会制度下「いま、ここ」においてのみである。記号は恣意的=社会的であるがゆえに、特定共時的な体系においては必然性を露わにし、同時に通時的な変化が生ずる可能性をもつ。
変化の例を挙げよう。【つま】という記号の意味(シニフィエ)の幅は古代においては「男女の配偶者」であったものが【おっと】との対立、差異化により現在のように「妻(男性に対する女性配偶者)」のみになったという(丸山『ソシュールを読む』p.160, 229)。つまり【つま】と交換可能な対象も「配偶者」から「女性配偶者」へと限定されたことになる。
特定共時的な必然性の例には虹がよいだろう。日本人にとっては虹の色は七色というのが常識であるが、他国では色数やその色の種類が異なるらしい。「私たち」という特定共時的な文化における当たり前は、決して普遍的ではないのだ。さきほどの【つま】の例も、古代の日本と「いま、ここ」の日本という特定共時的な文化が対立している。
このように表象文化は時代や場所によって非対称的であり、おそらく世界の見え方に普遍性などはない。究極的には個々人によっても世界の捉え方は異なるだろう。
表象の非対称性についての具体例をもうひとつ挙げておこう。私が臨床哲学を実践できる数少ない分野に「現代4コマ」がある。これは従来においてほぼ同じ価値を持っていたふたつの記号【4コマ】と【4コママンガ】を明確に対立させ、前者の価値の幅を拡げんとする運動である。よって一般的にはまったく4コマではないものまで4コマと呼ぶことができる。【4コマ】は現代4コマの記号体系において、非常に大きな価値を担っている記号であるということになる。なおここで言う価値とは記号学的な意味においてであり、決して「値打ちがある」ということではない。「意味として実現しうる可能性の大きさ、幅の広さ」とでも考えていただければよい。
4つ並んでいる小石を見て「これは4コマである(4コマを表象している)」と言うとき、指向対象であるそれらの小石と【4コマ】は等価であり、交換可能だ(正確に言えば【これは4コマである】というディスクールが、4つの小石と交換可能な記号であろう)。しかしこの等価性が通じるのは、特定共時的な体系をある程度共有している、現代4コマに関わる人たちのみである。またこれは一般人に理解されにくいゆえんでもあり、大概の人には「いったい何を言っているんだ」と問われることだろう。
現代4コマ関係者のなかではもはや当たり前かのように思われる「何かが4つあれば4コマである」という考え方は、汎時的視点に立てば極めて異質だと言える。これはあくまでも現代4コマのコミュニティ内という「いま、ここ」でのみ通用するのだ。ここにカルチャーの非対称性が見出される。
○シミュレーション
表象が現実と記号の等価性に基づいていたのに対し、「シミュレーション simulation」は現実に対応をもたない記号「シミュラークル simulacre」を生み出す。
表象とは記号と実在が等価であることに由来する(たとえこの等価がユートピア的であろうと、これこそ根本的な自明の理だ)。シミュレーションは逆に、等価原則のユートピアに由来する、価値としての記号をラジカルに否定することに由来し、あらゆる照合の逆転と死を宣告するものとしての記号に由来するものだ。そこで表象はシミュレーションを、誤ったシミュレーションに解釈することでシミュレーションを吸収しようとし、シミュレーションはあらゆる表象の体系全体をシミュラークルとしてつつみ込むのだ。
『シミュラークルとシミュレーション』p.8
ただし原文において太字は傍点(ヽ)
シミュレーションは現実ではなく先行するモデル(シミュレーション・モデル)を準拠とするとされ、これもまた記号、あるいはシミュラークルである。
モデルと呼ばれる増殖の中核を起点として、方向転換がおこなわれ、この時、われわれは第三の領域のシミュラークルの時代に入る。第一の領域の模造も、第二の領域の純粋な大量生産も、もはや存在せず、あらゆる形態を差異の変調にしたがって産みだすモデルが登場する。この段階では、モデルにつながることだけが意味をもち、すべてのものはその固有の目的に従ってではなく、「準拠枠としての記号表現[※引用者注]」としてのモデル(それだけがかつての合目的性同様、唯一の本物らしさをもたらす)から生じることになる。
※引用者注:ソシュールにおける記号は記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の二面をもち、特定共時的な体系内において両者は不可分一体となっている。記号の表現と意味は分離できないということだ。ボードリヤールは記号表現と記号、記号内容と指向対象を同一視するという誤謬をよく犯している。この箇所においても記号表現は記号へと読み替えるべきだろう。
『象徴交換と死』p.133
[省略]それともあらゆるコミュニケーションの可能性を事前に断つ(実在に終止符を打つモデルの先行)抑止的目標を担ったシミュラークルが、まず先行したのか、などと問うのは無駄だ。どちらが先かなどと問う必要もない。初めも終わりもないのだから、それは円を描くプロセスだ[省略]
『シミュラークルとシミュレーション』p.105
シミュレーションは記号に準拠するのだから、シミュラークルは記号の記号、いわばコピーのコピーである。シミュラークルが蔓延すれば表象は「シミュレーションを、誤ったシミュレーションに解釈することでシミュレーションを吸収しようとし、」またシミュラークルとしての記号を生成する。これはモデルに準拠したシミュレーションの過程そのものだ。こうして表象は破産し、シミュラークルをモデルとしてシミュラークルを生む円環状のプロセス、シミュレーションに至る。
ボードリヤールはあらゆる手続きを経て現実がシミュラークルに乗っ取られ、「世界の構築に先立ってモデルが出現する」(リチャード・J・レイン『現代思想ガイドブック ジャン・ボードリヤール』p.55) ような事態「ハイパーリアル hyper réel」になるという主張を強調したいようである。つまり私たちの文化はつねにすでにシミュラークルであり、ハイパーリアルのただなかにあるということだ。
実は時代や地域、個人ごとの表象の非対称性そのものが、現実をコード化して捉えているがために生じることであり、文化が現実を反映しないシミュラークルであることの証明になっているように思われる。虹の色やその区分を表す記号は、現実に前もって与えられている(ア・プリオリに存在している)純粋な観念を反映・表象しているわけではない。これは自然言語ごとにコード化された現実、シミュラークルの顕れなのである。反映論が正しいのだと仮定すれば、虹の分節は汎時的に不変であって然るべきであり、その見え方が多様化することに対しての説明は大変難しいものになる。
シミュレーションの段階においては、始まりと終わり、真と偽、オリジナルとコピー、男と女、現実界と想像界といった、二項対立的差異は問い直されることになる。
あらゆる照合系は、自らのディスクールをメビウス的円環の強制に巻き込む。
『シミュラークルとシミュレーション』p.26
メビウスの輪には表と裏がない。シミュレーションは「初めも終わりもないのだから、それは円を描くプロセス」である。ハイパーリアルの世界とは、相対主義の行き着いた先にあるのかもしれない。誰かにとっての真実は、また別の誰かにとっての偽りなのだ。いや、反映論は否定され、言語共同体──究極的には個人──によって言語外現実の分節は異なるのだから、あなたが真、私が偽と考える観念「x」の輪郭さえもが一致しないだろう。
あまねくモノや観念は、実のところ不定形で頼りない実体である。それらが重なり合うことで、メビウスの輪のような不安定な形象をとっているのではないだろうか。対立はコードによる差異化から生じるが、それらはもともと始まりも終わりも、表も裏もない連続体なのだ。
シミュレーションは截然と分けられているように見えた私たちの現実を、シミュラークルしかないハイパーリアルへと移行させてしまう。そして私たちは危うい表象の世界──内も外もなく、すべてをメビウスの輪に包囲された世界──のなかで生きている、という事実を思い出させてくれるのである。
モード
ボードリヤールが一例として挙げているモードは、まさしくシミュレーションの最たるものだ。
あらゆる領域は、程度の差こそあれ、みな同時にシミュレーション・モデル、差異のクールなたわむれ、価値の構造的遊びに近づいてゆく。この意味でなにもかもがモードにつきまとわれているといってよい。なぜなら、モードはもっとも表面的な遊びであると同時に、もっとも奥深い社会的形態(フォルム)──コードによるあらゆる領域の仮借なき包囲=執着──でもあるのだから。
『象徴交換と死』p.211
彼はモードと美術館とを重ねる。両者は貯蔵庫に置かれた記号の組み合わせによって、アクチュアルではない現代性を作り出す効果を持っているのだ。モードを構成する記号も美術館の所蔵品も「かつて存在したもの」であり、けっしてアクチュアルな「いま、ここ」の時間をもたない。しかしそれらを組み合わせ、循環させることによって、そのたびにもっともらしい新しさを演出できる。
身近なモードを見てみよう。「大正ロマン」や「昭和レトロ」というモードは、その時代の様式(le mode)をミニチュアール化し、現代に流行(la mode)させたものだ。昨今ではもはやこれらのモードも様式として定着しているように思われるが、令和の時代になってからは「平成レトロ」と呼ばれるモードも出現した。これらのモードはこれからも様式化と小流行を繰り返し、他の記号と組み合わさりながら私たちに遊びを提供してくれることだろう。
美術館は「○○展」や「××展」と銘打った所蔵品の入れ替え、組み合わせの変更によって、そのたびに新しい体験を鑑賞者へと提供する。「なにもかもがモードにつきまとわれているといってよい」のであれば、つまるところ美術館のシステムもシミュレーションであり、モードに接近している。
また現代4コマからも例を挙げさせていただこう。拙作のスタイルが現代4コマのコミュニティ内で流行し、様式化したことがある。
![](https://assets.st-note.com/img/1738667666-wzFfCs0lEWG7dIAOT9VX5va6.jpg?width=1200)
この『サーモンおいしい』は現代4コマ作品を受け付け代理投稿するプラットフォームである、Xアカウント「現代4コマ」から2023年12月5日に公開された。色遣いがあまりにもサーモンらしくないため、当初は「生レバー」や「マグロ」と言われ、全体的に見ても反応はかんばしくなかった。私は『サーモンおいしい』のほかにも、事物を4コマに抽象化し、それに筆記体を添えた作品をいくつか発表したため、それらは「筆記体シリーズ」と呼ばれることになった。
私自身も一過性のネタとして捉えていたこれらの作品群が、2024年なかばからしばしば話題に出るようになる。明確に流行りだしたのは、いととと氏が筆記体シリーズをまとめた記事を発表してくれたころからだと思われる。これ以降、X上で言及される頻度が格段に増えた。
このあたりから私も、特に『サーモンおいしい』に対して愛着が湧いてきた。そして2024年8月に銀座で開かれた「現代4コマオールスター展2024」に『サーモンおいしい』が出品されることとなった。いととと氏の後押しもあって、この作品はキャンバスアートとして販売され、売れた。この出来事が決定的となり、『サーモンおいしい』のパロディ作品がいくつか作られた。
この作品のエッセンスと言えそうなものを抽出すると「『○○おいしい』という作品タイトル」「筆記体の画像内タイトル」「事物を長方形に抽象化したもの、あるいは何かを4つ並べる」が挙げられるだろう。「おいしい #現代4コマ 」と検索すれば、すべてではないが『サーモンおいしい』のパロディを見ることができる。
明らかに流行と呼べる現象は「オールスター展」の直後に限られたが『サーモンおいしい』のエッセンスが垣間見える作品はいまだ作られているし、時たま言及もされる。なにより「サーモンおいしい」という軽快な文章は「現代4コマ周辺流行語大賞2024」にノミネートされた。元ネタは2023年なのにも関わらずだ。2024年9月には、雀100氏も記事を書いてくれた。これは『サーモンおいしい』の実証研究の成果である。
以上からモードは貯えられた、アーカイブされた記号を「いま、ここ」にシミュラークルとして再生産するオペレーションであることが理解できる。初投稿から月日を経て『サーモンおいしい』が再注目され、その後流行→様式化したのだ。ボードリヤールは「流行(la mode)はいたるところにひろまり、単なる生活様式(le mode de vie) になり、まだモードからまぬがれているあらゆる領域を包囲する。誰もがモードを担い、再生産する」(『象徴交換と死』p.241、ただし原文から表記を変更) と言っている。まさにこの通りのことが起きたわけだ。
あなたの周囲にもモードが潜んでいるのではないだろうか。記号の組み合わせを循環させることによって、シミュレーション・モデルはさまざまな形態をとり、それをもとにモードが再生産される──という視点を持っておくと、なかなかおもしろいと思うのだ。
おわりに
実は「シミュレーション・モデル」について考えてみる章も書いていたのだが、それはいつになるかわからない次回以降の記事に回すことにした。このモデルという概念はけっこう曖昧であり、私が読んだボードリヤールの入門書のいずれでも、あまり検討されていないように思われる。これの読解は今後の課題ということにさせていただこう。
私は記号学を学び、そしてボードリヤールを読んで世界の見え方がすっかり変わってしまったのだが、あなたはどうだろうか。
(了)