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「世界は一面の荒野だ」映画「象は静かに座っている」を見る(※ネタバレあり)。

もくじ
0.はじめに
1.ストーリー
2.閉塞する時代と崩壊する社会
3.座った象を見に
4.象が表すもの

0.はじめに

「世界は一面の荒野だ。」
主人公ブーの同級生が言う。彼は不良のシュアイに挑んだが敗れ、命ぜられた床拭きを延々と続ける。シュアイの家庭は富裕層に属する。親の世界の序列が、学校内のカーストに持ち込まれる。やりきれない社会。世界は悪意と暴力に満ち、誰もが押しつぶされそうだ。


1.ストーリー

満州里の動物園に一頭の象がいる。
その象は、一日中ただ座っているというーー
朝。
<チェン>
親友の妻の部屋で目覚めたチェン(チャン・ユー)。
一服していると、不意に親友が扉を叩いた。
「誰かいるのか」
隅に隠れやり過ごそうとするが、扉を開けて親友が入って来る。
「お前だったのか」
チェンを一瞥し、親友は目の前で窓から飛び降りた。
<ジン>
窓際の狭い一畳の空間で寝起きする老人ジン(リー・ツォンシー)。
「文教地区の家賃は通常の3倍かかる」
孫娘の進学のため、娘夫婦は引越しを機に彼を老人ホームに入れる気だ。
「お義父さん僕たちも辛いんです」身勝手な家族たち。
散歩に出た先で、ジンの愛犬が他の犬に噛まれてしまう。
<リン>
リン(ワン・ユーウェン)は暗く閉め切った部屋で身支度を整えている。
空き缶が床に散乱し、洗濯物は干したまま。トイレはまた水漏れを起こしている。
リンに水をかけられ起きた母親。
「ケーキがある、あんたに買ったのよ」
机には箱が潰れたバースデーケーキ。
溜息を吐きながら向かった学校で、関係を持つ副主任の元を訪れる。
<ブー>
ブー(ポン・ユーチャン)の友達・カイが携帯を盗んだ嫌疑で、不良のシュアイに絡まれている。
「彼は盗んでない」カイをかばうブー。
怒ったシュアイがブーの鞄を掴んで押さえつけた。振りほどこうとするブー。
その反動でシュアイが階段から転げ落ちる。辺りに響く鈍い音。
ブーは駆け足でその場から逃げ出した―――― 。
逃げるブーとそれを追うシュアイの兄・チェン。バスの中で拾った大サーカスのチラシを見たブーは、一日中ただ座り続けているという奇妙な象の存在に興味を持ち、ジンやリンを誘い遠く2300km先の果て・満州里に向かうために画策する―――― 。

公式HP

2.閉塞する時代と崩壊する社会

炭鉱業が廃れた中国の田舎町。
急速な近代化の中で、貧富の差が拡大し、ゆがみが社会のいたるところに顕在化する。

学校の統廃合が進み、ブーとリンの通う学校が廃校になる。副主任は自らの雇用のみが関心事で、生徒たちがどうなるなろうが、知ったことではない。

子供の教育のため、家賃が高く、部屋の狭い、文教地区の家屋への引っ越しを計画し、ジンを老人ホームへと追いやろうとする娘夫婦。

弟を溺愛する父母に疎まれ、町のチンピラになったシュアイの兄のチェン。その妻との不倫が原因で親友を自殺に追い込む。

賄賂で会社をクビになり、朝から酒浸りで、息子の金をくすね、家族に口汚くあたり散らすブーの父親。

営業の仕事が忙しく、酔いつぶれ、家の中を片付けようとしないリンの母親。リンにつらくあたるのは、別れた夫への憎悪のため。リンは母親をだらしのない女と思い、母親もまた娘のことを、ふしだらな女と決めつける。

「こんな惨めな暮らし、吐き気がする。」
学校にも、家庭にも、どこにも居場所はない。
崩壊する社会に、政治はまともに向き合っていない。

4人はそれぞれのトラブルの中にある。
「ひとつのトラブルが、また次のトラブルへ。」

社会を憎む。だが、憎悪は自分にも向く。
自分を決して好きになれない。
クズな自分。
救いはどこにもない。

時代は閉塞し、社会に窒息させられる。

3.座った象を見に

4人はそれぞれに、象の存在を知り、見に行くことを考える。

青い鳥の物語は、日常的な生活の中に幸せをみつけるという物語である。失いそうになってみて、はじめて身近にあった幸せに気づく。

4人の登場人物の置かれた状況、直面するトラブルは深刻で絶望的だ。
気休めは必要ない。

満州里に行くこと、座った象を見ることによってのみ、現状は変わる。
最後、ジンは満州里に行くことをためらう。どこに行っても、ここに残っても同じだ、何も変わらない。家に帰ると告げる。
ブーは引き止める。「行こう」。それ以上に説得力のある言葉はない。

座った象を見て、具体的に何が、どう変わるか判らない。だが行動すること、それなしには何も始まらない。結局は元どおりかもしれない。
だが行動をきっかけに何かが変わる。変えることができる。

4.象が表すもの

座る象は何の象徴か。

ここまで書き進めると、象は自分を暗喩するものだと思えてくる。
社会との接触に傷つき、怯え、一日中静かに座っている。
象を訪ねる行為は、傷ついた自分を客観的に見ること。

なぜ象なのか。象は本来、力を持っているから。
自分の力に気付かず、一日中静かに座っている、座らされている。
それは滑稽な話だ。
傷つき惨めなその姿、自分を直視する。
2300kmも遠くに行く程、困難な行為だ。

監督はフー・ボー(胡浪)。29歳のときの映画である。公開後、監督は自らの命を断つ。
もう彼の映画を見ることはできない。

自分を直視することは、誰にとっても辛い行為である。
だが象を見に行く。

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