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記憶は真偽があいまいで、不意に眼前に浮かぶ点だ。映画「ロングディズ・ジャーニー この夜の崖へ」を見る(※ネタバレあり)。
父親の死を機に、12年ぶりに故郷に帰ってきた男。
彼はその地で、若くしてマフィアに殺害された幼馴染や、
自分を捨てて養蜂家の男と駆け落ちした母親の記憶のかけらを
拾い集めるように、思い出の街を彷徨(さまよ)っていた。
そして何よりも彼の心を惑(まど)わせたのが、
ある運命の女のイメージだった。
その女は、自分の名前を
香港の有名女優と同じ、ワン・チーウェンだと言った。
男はその女の面影を追って、
現実と記憶と夢が交差する、ミステリアスな旅に出る―。
唐突に、中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」が流れる。
携帯の着信音であったり、映画館のなかで、ひび割れ、歪んだ音質で。
中国でもよく知られた曲なのか、選曲の意図は判らない。
映画は前半と後半に分かれる。前半は夢のような話だ。
夢と同じように、時間の順序や因果関係が定かではない。
脈絡もなく、実際に起きたのか、起きなかったのか。
夢の中で、「運命の女」との思い出を辿り、行き先を訊ねる。
だがそれは、母を訪ねる旅のようでもある。
後半は男が見る映画、あるいは映画館の中で寝入った男の見た夢という体裁をとっている。
いわば劇中劇のような構図。
自分が自分の映画、夢を見ている。
この後半は、60分間にも及ぶ、ワンシークエンスショットである。
確かに少年の登場シーンから、空中を浮遊するシーン、家が回転するシーンまで、背景は様々に変わるが、シーンがつながっている。カメラは追いかけたり、追い越したり、先回りする。
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後半部の内容は、前半の幾つかのエピソードに対応する。
自ら幽霊を名乗る少年が現れ、男と会話を交わし、卓球の試合をする。
頼まれて男は、少年に「白猫君」というあだ名をつける。
マフィアに殺された幼馴染の名前をもじったものだ。
前半、女が子供を身ごもったことを告げるシーンがある。
男の子かもしれないと話す。
男は、アスリートになるかもしれない、
卓球だったら教えることができると返す。
しかし、すでに堕してきた、と女は付け加える。
刑務所に収監された女が、「盗みに入った家で、呪文を唱えて、家が回転するのを待ったが叶わなかった」と語る。
それを聞いていた男は、夢の中で出会った女と火事で燃え落ちた家に入る。
呪文を唱えると、家がゆっくりと回転しはじめる。
男が幼いとき、出奔した母と出会う。
それも時間を遡り、養蜂家と駆け落ちする、まさにその時に。
駆け落ちする理由と、愛する人がいないのかと尋ねる。
母の答に納得したわけではないが、少し気持ちが整理される。
男は、独白する。
「映画と記憶の最大の違いは、
映画は必ず虚構で
シーンをつないで作っているが
記憶は真偽があいまいで
不意に眼前に浮かぶ点だ。」
記憶に「偽」が紛れ込む理由は何だろう。
忘却があり、それによる記憶の修復があるだろう。
しかし最大の理由は、思い出したくない出来事を、
自分に受け入れやすい記憶に作り替えるからだ。
いわば、こうであってほしかったという希求により、記憶は改ざんされる。
後半は、記憶の中で、半ば宙ぶらりんになっている出来事を
丹念にすくい上げ、落ち付きどころを見つけている。
自分にとってそうあってほしかったという希求。
自分の中に澱のようにたまる、過去への思いを断ち切るように。
2018年公開の中国映画である。日本では2020年公開。
監督は、ビーガン。公開当時29歳の若さであった。これが長編映画2作目。「運命の女」をタンウェイが演じている。
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(2024年12月現在、Amazon Primeなどで配信されています。)