《オルガテック》 asplund ブースのバイオフィリックなデザインについて
グリーンのディレクターとして、オルガテック東京2023に出展されたasplundさんの展示を手伝った。【Work Plus】というオフィスを中心とした新しいシリーズを打ち出している。
コロナで大きく変わった働き方。家具業界もデザイン業界も様々にシフトせざるを得ない。本当の意味で「光冠(コロナ)」とできるかは、僕たちの知恵と、謙虚な振る舞い、「バイオフィリック」な精神を耕すしかなさそうだ。家具のデザインとしてはどこまでゴミを無くすか、資源を大切にするかという組み立てや、プライベートなお部屋のような家具のような、丸いおおらかなユーモラスな、でも人の身体にも寄そったなデザイン、やわらかな色彩が目立った。
バイオフィリック、SDGs、リトリート、、、キャッチフレーズが導くこれらの動向がグローバル経済と結びついてしまうのは仕方ない部分はあるだろう。しかし、風土が育んだ日本の暮らし方、庭づくり、空間づくりに十全な知恵、ヒントが本当はある。世界中に多様に豊かにあるはずだ。(写真;shinichi tsukada)
【みづとみどり】
水を意味する国語「みづ」から派生した「みづみづしい」という言葉があるが、「みどり」はその言葉と通じていて、色彩でいう「緑」というのはその言葉の意味するところの一部であり、本来は「みどりご」という言葉もある通り、みづみづしく、生き生きとして、艶々したものや状態を表すと言える。「みどり」とはつまり生まれたての、ピュアな、光と闇がであって誕生したばかりの何の色とも言えない、逆に言えば全ての色彩に変わることができる原色彩(虹色)をもち、この世に形となって現れたばかりの、柔らかでもろく光る存在のことである。みどり色した身体を持つ植物はそのその象徴でもあるので、一般的に植物のことも「緑」と呼ぶ。
【生の色彩と重さ】 みどり色した植物は、その幹や茎や葉や根や花弁から色を無くし、透視してみれば、水の身体である。水の道、通路が無限に張り巡らされ、それだけではなく呼吸をし、循環の大いなる回路であり同時に贈与者でもある。植物はだからゆっくりとした噴水のようなものだ。別の形をした水の営み。水の別形態。みづが届かなくなればしなしなとしなって、萎れる。もっとなくなると枯れる。枯れるというのは水分が無くなって(離れてしまって)軽くなる状態。水は重い。命あるものは重さをもつ。地球はそれを載せることができ、命あるものは丸い形をしている。水がそうさせる。
【日本庭園の方法】 バイオフィリックなデザインを日本でやろうとするなら、そのお手本は日本庭園にあると思う。最もシンプルな原型は山。あるいは島。いずれも沖、あるいは奥にある。遙かなそれを里や村に引き寄せ、庭の芯とした。世界の芯でもあるからだ。シンプルに小規模にした御嶽や神社のデザインがある。森のように木々に囲まれた厳かな聖地に入り、そこで祈ることで、原初的な時間、あるいは神話的な時間に立ち戻り、リセットする。日本庭園は水と緑の境界を通り抜け、遍路や巡礼や物語の旅の擬をすることで、自らの生を活性
化させ、また身体を透き通らせ、汚れを祓ってくれる装置でもある。新たなものに触れ、息吹を交換し、自分以外の生命と混じり合う時間を経ることで、自身の凝りや、疲れや、取り憑かれたものからのリリースが起こる。植物を水の回路と見て、流動し変化する自然の営みの中を人は歩き、通り抜ける。植物はそれぞれの形、色や香をもち、太陽をエネルギーとし、同じように太陽と地球の合いの子である。人と同じく植物は水の身体をもつ。しかもずっとずっと古くから地上で生きてきた。だからこそ共鳴し合える。彼らは宇宙の息吹きそのものだ。だから清める力を持つのだ。
【露路】
水のメタファーで構成されているのが茶の湯。「市中の山居」ともいわれ、水という流れゆくもの(行く川の流れは絶えずして、、、)を泉から汲み、それを運び、沸かし、水平を保ち、こぼさないようにし、次々移し、時に清め、臓腑に落とす。空間は侘びた門をくぐり、飛び石を歩き、山の杣道を時空を縮めて体験する。足元に目に見えない水がある。流れがある。渡ると手水鉢があり、聖なる室に入る前に身を清める。茶室は水に浮いた小舟であり、くぐり入るそこは子宮のもどきである。その聖なる室に入り、水を介した命の元で直心の交わりをすることで、人は生まれ変わる。命の元に触れる小さな旅。床の間には開く前の花が生けられ、路地の緑は「みさを」。床の間には陰陽の交わりの象徴として床の間があり床柱が立てられている。その一連の縮景の要素は石、水、木である。
【SDGs】 風土から感じ直す。温故知新。最も大事なことは母なる自然との紐帯を取り戻すことである。奇蹟を実感し、ミラクルなメタモルフォーゼが実装された世界で生きる存在であること。自然界に不安はない。疑いもない。
【見立て】
石を島に見立てたり、築山や池を歌枕の景勝の地に見立てたりする方法がある。
名付けによって仮のものの中に本来を呼び込む方法でもある。
漢字を「真名」、ひらがなを「仮名」としたように、仮のものは本物を借りてくることで、本来そのものではないが、本来に似て、どこか本来を背負ったものを現出させる。
ストーンキャストのプラントカバーは、石灰と樹脂とウッドチップでできている。このストーンカラーのプランターを滝組の石と見立て、大工さんに蓋を特注して組んで緑を配る。「枯山水」とは「仮の山水」。植物は水の見立てである。流れる落ちる水や立ち湧き出す水と見立て、岩山から流れ出す。つまり生命が誕生する源としての「磐座」を作る。小さな山という聖地であり、生命の樹、宇宙樹の役割を果たす。生気が溢れ出し、巡りはじめる。季節は間もなく立夏。水辺に咲く花菖蒲も活けた。
ラウンジの横に組まれた中心となる瀧から流れ出た水は流れて廻り、根から吸い上げられて幹を枝を伝い光合成する葉から蒸散していく。組まれたフレームにしつらえたウッドチップなどで作られたヘゴの柱を這い登る植物、チランジアなどで軽さを出した。商品の一つラタンと鉄のスタンドが軽く扱いやすいVIVI PLANT STANDに、上昇し光を求めて伸び上がる植物の様相を。
またもう一方のmeetingのフレームでは別の様相の植物がナチュラルキャストのRENATAや、見えない水の動きや植物と水との関わりを意識させるプランターに配され、安心感を与え、かつ空間を彩るディープな緑の室礼とする。
【負の方法〜見えないものをみる〜】 枯山水は、水を抜くことで水を見せる。
ここでは水の流れは作れないかもしれないが、植物のフォルムは水をとどめ溢れないようにしてゆっくりと巡らせ、送り出していく形になっている。植物は伸び上がり、広がり、光を求め、水を求め、空と大地に広がり差し込まれている。海辺のものも山脈のものも、荒地のものも、それぞれだ。葉は水の様々な姿態をしているのがわかる。水のメタファーとしての緑。あるいは植物が伸びていく方向をデザインとして示し、植物が求める太陽の存在を想起させる。
【対話と共話】 展示では架空の“バイオフィリックマニア“な人がそのオフィスに何人かいて、それぞれのコーナーがあって、チームでボタニカルライフを楽しんでいる。あるものでブリコラージュする。見立てによってどこかで見た風景を、workを共に楽しむ仲間として育む。植物と対話しつつ時空は共話によって作られる。朝のオフィスへ入った時、緑によって浄化された空間はとても気持ちいいので「おはよう」と言葉が自然と出てしまう。それぞれが特にお気に入りの緑もある。緑がいろんなつながりを作ってくれる。
【パサージュ 変容】 日本庭園は様々な素材や形状の園路が作られている。飛び石を渡るとき、砂利道を歩く時、土の上、音が変わり、質感が変わり、リズムが奏でられる。分け入ってウォークスルーすることが醍醐味だ。歩けば次の景色が開き、閉じたり開いたり、庭にはコンセプトもある。旅はその人を変容させる。庭は旅するように作られている。オフィスがパサージュできるお庭であったら素敵だろう。さりげなく人は彼らのギフトに守られ、促されているはずだから。
【お手入れ】
緑は生きている。変化し続ける。人と同じだ。
観葉植物が日本に入ってきた時、大きな常緑のみどりは主に「縁起物」として喜ばれた。生命はうつろいやすいから、常緑樹に対する人の思い入れは強い。クリスマスのもみの木、お正月の松、神社などでお供えする榊などを想起すればよくわかる。生命力の強い常緑樹にあやかり、健康と繁栄を願う。「青年の木」「幸福の木」「金のなる木」などは誰でも聞いたことがある。直接的なニックネームだ。お手入れは手当であり、ケアである。ケアするものもケアされる。
【バイオフィリック デザイン】 オフィスでのバイオフィリックなデザインとは、ほどこされた植物との対話やケアを通じて、自然や歴史の根源や生命の源へと経路が開かれていくものなのだろう。私たちの暮らしは元々、季節に応じた様々は祭りや行事が暦にセットされ、やってくるものを迎え、もてなし、送るというサイクルが日常に新たな息吹をもたらし、リズムを生んできた。日本庭園のコンセプトもより深くそうしたストーリーを身をもって感じるものだし、家の庭もそうだった。さりげなくもたらされる自然の豊かさと儚さ。それを感じ、今ここを受け取り、リセットできる空間だった。
オフィスの植物も季節のサイクルを人と同じく感じている、だが、それは外より静謐であり、ゆっくりである。屋内という環境で限られた土中環境がそうさせる。彼らの速度は性急な仕事環境をなだめる役割も実は持っている。日本庭園とまで行かなくても、私たちが大切にしてきた季節と身体を交感するコンセプトをオフィスに導入してみたい。
オフィスに遊びや余白を生み、息が通う空間ができれば、小さな森を心身でなぞることができれば、日常を脱却できる場がちょっとでもあれば、細胞は活性化され、マインドセットが変わる。より大きな地球という生命体からのギフトがいつもいつも届き、連鎖していく生命の奇蹟を立ち止まって想像するほんの少しの時間があればいい。
「手間隙(テマヒマ)」という言葉があるが、手間暇かけて、、、というのはいい丁寧な仕事のことをいう。手間はわかるが「隙(ヒマ)」というのは意外な感じがする。しかし手間ばかりでは手詰まりで息苦しくなってしまう。隙はそこに風を通し、息を通わせる。国語の意味は「霊(ひ)間(ま)」とされ、スピリットがそういう隙間に入るのだ。感じの「隙」という字も篇は「神様の登り降りする階段のことで、旁は光が放射する形だ。暇にこそ、神々しいものが宿る。ビオフィリックが日本庭園のコンセプトを取り入れることができれば、日々の暮らしに風が吹き、光が揺れ、水のように生命はゆらめき、様々な渦を生みつつ、流れ始める。
【バイオフィリック デザイン】
オフィスでのバイオフィリックなデザインとは、ほどこされた植物との対話やケアを通じて、自然や歴史の根源や生命の源へと経路が開かれていくものなのだろう。オフィスに遊びや余白を生み、いながらにしてリセットできる場があれば、細胞は活性化され、マインドセットが変わる。
間もなく日本列島は「端午の節供」そして「立夏」を迎えるが、私たちの暮らしは元々、季節に応じた様々は祭りや行事が暦にセットされ、やってくるものを迎え、もてなし、送るというサイクルが日常に新たな息吹をもたらし、リズムを生んできた。日本庭園のコンセプトは、より深くそうしたストーリーを身をもって感じるものだし、小さな家の庭もそうだった。さりげなくもたらされる自然の豊かさと儚さ。それを感じ、今ここを受け取り、リセットできる空間だったのだと思う。
オフィスなど屋内空間に用いられる観葉植物も季節のサイクルを人と同じく感じている、だが、それは静謐でゆっくりに見える。屋内という環境で限られた土中環境がそうさせる。鉢植えという方法で大きな景色を小さくしてもたらす。そうやって引き寄せ、遥かなものを想うというのは日本庭園の「引き寄せ」というコンセプトでもある。彼らの存在は性急な仕事環境をなだめる役割も持っているだろう。日本庭園とまで行かなくても、私たちが大切にしてきた季節と身体を交感するコンセプトをオフィスに導入することはできるはずだ。
この展示ではアスプルンドさんのバリエーション豊かなプランターや、リサイクル素材のプランターを使い、みずみずしい緑の身体を持つ植物を水と「見立て」て緑の空間を組み立てた。水のないところに水を見る。これも日本庭園の「引き算の手法」だ。
日本列島の多様性を生む象徴である山奥の磐座を展示会場の中心に据え、流れ出た水は四方へ流れ、屋内での暮らしを豊かにする。配置された家具に波動が届き、その水は植物の身体を通って空間を上昇し、まためぐる。人もその恵みを受け取って集中とリラックスを繰り返すことができる。
温室 塚田有一