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バルバロイという考え方 ー理解できないものはダメなものー

年末になると今年一年の出来事を振り返るテレビ番組が増えます。今年に限りませんが、国内外で様々な衝突がありましたね。戦争のような大きな衝突から近所同士のいざこざまで。今日は、このような世の中の衝突について、私が普段考えていることを書こうと思います。

バルバロイとは

「バルバロイ」という言葉をいつ初めて知ったか全く思い出せないのですが、「訳の分からない言葉を話す者」として異国の人を差別した、昔の人の風習として学校で習ったような気がします。それ以上の知識はないのですが、何か世の中で衝突があるときに時々思い出す言葉です。

Wikipediaによると、バルバロイというのはバルバロスの複数形で、バルバロスは紀元前のギリシア人が他民族の人をこう呼んで区別したのが起源だそうです。

バルバロスは「聞き取りにくい言葉を話す者」「醜い言語を話す者」といった意味で、当時のトラキア人やペルシア人を指すそうです。自分たちとは違って「バルバルバル」と話しているように聞こえる(!)というのがその語源だそうです。トラキア人は奴隷として当時ひどい扱いを受けていて、このバルバロイが英語のバーバリアンbarbarian(野蛮人)の語源になっているそうです。全くひどい話ですね。

自己正当化の原理

さて、なぜこの言葉を思い出すかというと、日常生活の様々なところで「自分が理解できないものはダメなもの」と判断して無視したり排除しようとする人をしばしばみかけるからです。そう判断する根底にあるのは、自分は優れている、自分は常に正しい、と思いたいという基本姿勢があるように思います。そこに固執するのは、逆に自信がなく、自分の立場が脅かされるのではという不安があるからかもしれませんね。一種の防衛機制であり、自己正当化の原理が働いているのだと思います。つまり、どんな人でもある程度は生じうる心的メカニズムだと思うのです。

たとえば、「今の若い人たちのやることはわからない」と昔からよく言いますね。Z世代とか新人類とかカテゴリー化して名前をつけ、中高年である自分たちと区別しようとします。これはけっこう普遍的な現象で、おそらく古代の時代からずっとあるのではないでしょうか。その若い人たちの間でさえも、わずか1−2歳の違いで「全く今の1年生は」などといって自分が1年生だった頃と比較してダメだと言ったりします。

特に新しい、すぐには理解できないものが現れると、人は用心深くなって、否定したりネガティブな予想をして避けようとする傾向があります。カメラが普及したころ、写真を撮られると魂を抜き取られるといって嫌がった人々がいたし、AIが普及しつつある現代では、AIに対して同様の反応がみられると思います。言語の違いによる民族間の衝突の場合は、さらに深刻な事態になります。

バルバロイ原理を自覚する

ではどうしたらいいのでしょう。まずは、よくわからないものをダメなものだと思う傾向が、自分にあるかもしれない、と自覚することでしょう。逆に、よくわからないものを優れたものとして、極端に信じてしまう傾向のある人は、用心深くなった方がいいのかもしれませんが。つまり、意識的に「よくわからないものだけど、案外いいのかも」と考えるスペースを心の中に普段から作っておくのがいいと思います。そして次に必要なのは、わからないものを理解しようとする意思と努力ですよね。

どんな生き物も環境に適応して生きていく権利と義務があります。環境はどんどん変化していくので、理解できないものや生き物も次々と現れてくるでしょう。そのときにダメなものとして排除する前に、待てよ、これはお互いにうまくやっていった方がいいのかも、と立ち止まって、理解する努力を面倒くさがらずにやってみるということが平和につながるのかもしれません。

ところで,冒頭の美しい画像は、ChatGPTに「バルバロイというタイトルの画像を提示して下さい」といって作ってもらったものです。さらに、この絵の解釈は何ですかと尋ねると、

「文明化されたものと原始的なものの衝突」をテーマにしています。古代の廃墟が自然に飲み込まれていく光景は、文明がいずれ自然に回帰するという循環的な世界観を暗示します。また、廃墟に刻まれた神秘的なシンボルや燃えるような空は、文化と自然、創造と破壊の調和と対立を描いています。」

by ChatGPT

とのことでした。ChatGPTの考えるバルバロイはこんなイメージなんですね。たしかに、現実を表しているかもと思いました。




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