第1章 反心理主義
この世の問題の大半は人間の行動によって引き起こされている。
暴飲暴食によって健康は害され、天然資源の浪費によって環境破壊がもたらされ、資本家の苛烈なマネジメントによって労働者は苦境に立たされている。これらの問題を解決するためには、原因となる人間の行動を変えなければならない。
では、そうした人間の行動の原因とは何か。多くの人間は、「その人の心や意思」であるという。われわれは心の中で「食べたい」と思うから暴飲暴食するのであり、「腹が立つ」から他人への暴力を振るう、といった具合である。
もしそのような前提に立つならば、次のことが導かれなければならない。すなわち、「人間の行動を変えるには、その人の心を変えなければならない」ということである。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の原因がウイルスなのならば、そのウイルスを除去すれば感染しない、というのと同じ理屈である。このように、ある問題の原因を特定することは、その問題をどう解決するかという方法論と不可分なのである。
では、以上のことを踏まえたときに、「人間の行動の原因は心」という立場に立つことは得策といえるだろうか? それすなわち「行動を変えるためには心を変えるべき」という立場をとることに等しいが、それは本当に効果的なアプローチなのだろうか?
残念ながらそうではない。
第一に、心というのは目に見えず、触れることもできない。したがって、身体からがん細胞を除去するようには、心をいじくることはできない。「ある励ましの言葉が『心』を動かした」などという美談は巷にあふれているが、これすらも、「心」なるものに直接触れているわけではないことは、あなた自身が同じ立場に立ったときを考えればわかるだろう。したがって、心に対して何らかのアプローチをとるという方法は、「心」なるものが不明瞭で捉えどころのないものである以上、目隠しをしてアーチェリーをやるようなものなのである。そのような方法は、ときたま効果がある(アーチェリーでいえば的中する)ことはあっても、平均すれば効果はきわめて小さくなる(アーチェリーでいえば的中率が低い)。
第二に、心に対してアプローチをする方法は、対症療法でしかない。心に対してアプローチをするというのは、基本的には、その個人ひとりだけに対するアプローチである。ある集団のメンバー全員に対するアプローチではなくい、全員にアプローチするには、人数分繰り返すしかない。よって、我々の主眼がある集団のメンバー全員の救済である場合、心に対するアプローチで何とかしようとすることはきわめてコストがかかる。しかもメンバーは常に増え続ける。ある会社の社員が全員同じ問題を抱えるという状況がある場合、その全員に対して処置をしたとしても、新しい社員が入ってくればやはり同じ問題が発生するのである。これは、天然痘の治療法が確立されたとしても、感染対策を徹底したり天然痘ウイルスを根絶したりしない限り、やはり天然痘の患者が生じるのと同じことである。
第三に、心に対してアプローチをする方法は、自己責任論を助長する。心といえば、普通は、その個人の内にあるものと考えられている。したがって心に行動の原因があるとみなす場合、諸悪の根源を、その個人の内に求めることになる。このような立場を取っていると、意識してにせよ無意識にせよ、社会の側を改善しようという発想よりも、個人を何とかしようという発想が先行するようになる。結果として、ますます個人に対してもろもろのプレッシャーがかけられることになる。
人間の行動の原因を心に求める立場を「心理主義」とすれば、以上よりわれわれは心理主義を超えたアプローチをとるべきである。それは端的にいえば、人間を取り巻く物理的な環境(社会など)を変更することによって問題を解決するアプローチである。
この立場、すなわち「唯物論」をとった著名な人物はカール・マルクスである。マルクスは生産諸関係、すなわち実際に社会で動いている経済こそが物事の根本にあり、宗教や政治、道徳などといった精神的な事物はそうした物理的な条件から派生したものにすぎないと考えた(マルクス『経済学批判』序言をみよ)。したがって、もし道徳などといった問題を解決したければ、道徳そのものを変えようとするのは単なる対症療法にすぎず、土台であるところの生産諸関係を変えなければならないということになる。具体的にマルクスが企図していたのは、諸悪の根源であるところの資本主義社会の打破である。したがってマルクスはこう述べた。「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。だが大事なのは、世界を変革することである」(『フォイエルバッハについてのテーゼ』)。
こうした、生産諸関係を万物の根源とみる見方には批判も多い。そうした批判はあってしかるべきである。しかし、「生産諸関係という物理的条件に万物を帰する」ことが棄却されたとしても、「物理的条件に万物を帰する」ことが棄却されるとはかぎらない。確かにマルクスは間違ったのかもしれない。しかし、「間違った唯物論」に対立するのは「より妥当な唯物論」であって、「間違った唯物論」を棄却した後に心理主義に後退するのはナンセンスである。
実際、他にもさまざまなオルタナティブが提唱されている。有名なのは心理学者B. F. スキナーが創始した「徹底的行動主義」である。ここでスキナーの理論を詳細に述べることはできないが、ともかくもスキナーは、人間の行動をそれを取り巻く環境の関数ととらえ、実際に行動の予測や制御に成功した(詳しくは「随伴性」で検索せよ)。こうした立場から執筆された書籍『自由と尊厳を超えて』は、まさしく人の心でなく周囲の環境を改変せよと訴える書物であり、アメリカで大きな波紋を呼んだ。スキナーの試みもまた不十分な点はあろうかと思うが、このようにして「心より環境」という立場に立つ問題解決方法はさらに追及・発展されていくべきである。
以上のことから私は、問題をややこしくし、ひいては自己責任論を助長する心理主義を拒否するのであるが、だからといって個々人のレベルでいえば、行動を心で説明することを妨げようとまでは思わない。行動を生産諸関係で説明するのか、随伴性で説明するのか、神仏で説明するのか、心で説明するのかは、個人レベルでは趣味や信仰の問題にすぎない。問題なのは、その立場が社会に影響を与え始めた時である。社会にとってどうかということを考えれば、当然、先に心理主義について述べたような良し悪しが生まれてくる。
結論。心理主義は労多くして益少なし、場合によっては害にもなる。そのような立場を自分や為政者(心理主義は自己責任論と親和性が高いことに注意せよ)がとることを、われわれは批判していかなければならない。この反心理主義の立場こそが、社会変革の根本に必要なのである。
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