第2章 理論と実践の分離
「理論」と「実践」というのは、多くの二項対立の中でも最も頻繁に引き合いに出されるものの一つであろう。医科大学の座学で学んだ理論が、臨床実践にどれほど役に立つのか。研修で学んだことが、日々の仕事の成果をどれほど上げるのか。意識しているとしていないとに関わらず、我々は理論と実践の関係が問題となる場面に多々出くわす。
ところで、理論と実践の関係というとき、それは文字通りの「理論」と「実践」の関係ということを超えている。ある種の人間関係もこの枠内で論ずることができるのである。例えば、経営者がプランを考え、労働者がそれを遂行するという場合、前者を理論の担い手、後者を実践の担い手として、その関係を論ずることができる。学校の教室で起きていることもそうなのかもしれない。すなわち、一人一人の児童・生徒はナマの具体的世界で日々活動している。そこに、抽象的な知識の担い手であるところの教師が相対しているということである。宗教における教祖をはじめとした理論的中核が、実際に布教や奉仕の活動を行う個々の信者と相対するというような場合はさらに露骨である。
ここで重要なのは、特に人間関係についていう場合、理論の方を担う層が、実践の方を担う層の上に立ち、前者が後者を支配することが少なくないということである。理論を構築したり、頭で考えたり、指示を出したりする人間が、実際に現場で手を動かす人を支配するということである。
これは奇妙なことといえる。というのも、理論は突然、無から生まれたのでなく、それは実践上の諸問題から生まれたはずものだからである。確かに理論がひとたび独立すれば、理論がさらに理論を産んだり、理論から実践が生まれたりすることはありえるが、元を正せば理論の出自は実践である。そして完全に実践を離れた理論を展開しても、その理論は信頼や価値を喪失し、命脈を断たれてしまう。このことは先に述べた経営者と労働者の関係、教師と児童生徒の関係、教祖と信者の関係などを考えればたちどころにわかる。このように本来は実践に立脚するはずの理論やその担い手が、むしろ実践やその担い手を支配するということになっているのが倒錯だということである。
私はなにも、理論やその担い手の存在自体が悪だというわけではない。実践から理論が生じたのは、その必要性があったからに他ならない。共同で社会を営む人間の数が多くなると、その人々を一つにまとめることには限界がある。また異なる人同士で意思疎通をする必要性も増してくる。こうしたことへの対処として、管理や一般的抽象的な理論を生み出すことに特化した人間が必要となってくる。こうして実践から理論が生まれるわけで、そのこと自体は良い。実際、理論は有益である。
しかし次第に、この理論の担い手が権力を握り、まるで理論が先立ちそこから実践が生まれたかのごとき優越した立場を担うようになる。本来人間が、自身の便益のために生み出したはずの理論の担い手が、かえって人間を苦しめるという本末転倒な事態が発生する。さらに悲惨なのは、こうした人間の役割分担は、進むことこそあれ後退することはほとんどないということである。一つの会社の中だけを見てもますます役割分担・専門特化が進み、理論を司る部署すらも細かく分かたれていく。社会全体で見ても専門特化は著しい。こうしてますます、人間は自分の有していたはずの部分を他の人間に明け渡し、それゆえ社会や組織全体を統括する部門に自分を委ねざるを得なくなってしまう。
では、どうすればよいのか。ひとつの方法はこうした理論と実践の分離を力ずくで廃止することである。例えば、ある人間たちが経営も労働も担うという具合である。しかしながらこうしたことができる場合は限られる。理論は実践だけでは立ち行かなくなったことから生じたという事情を思い起こされたい。もっとも、将来何らかの技術革新などがあって、こうしたことができるようになる可能性は否定しない。
最もありうる方法は、理論(およびそれを担う人間)と実践(およびそれを担う人間)の分離をそれはそれとしつつも、両者の対話が起こりうるように環境や社会をデザインするということである。実践は理論がなければまとめ上げることは難しいが、理論とて実践がなければ成り立たない。このことを意識にのぼらせ、調停を図る場を意図的にデザインする必要がある。それは経営者と労働者との対話や交渉であり、教師主導でも生徒主導でもない授業である。
理論と実践の分離。それに伴う理論による実践の支配。頭による身体の支配、指示命令系統による実働部隊の支配、などと言ってもよいかもしれない。このような分断をのりこえ、互いの緊張関係はそれとしても、共に社会を作っていく必要がある。
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