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【シミュラークル】私たちを形作る「漫画の時代」

われわれは何かを選択するたびに、人格を作り上げているのだ――。

ジョン・C・マクスウェル


日々、私たちが選ぶ道には、果てしなく続く岐路が存在します。

それは、目に見える大きな分岐点だけでなく、日常の何気ない選択の中にも潜んでいます。

ふとした時に手に取る一冊の本、開くスマートフォンの画面、そして、心を躍らせる娯楽のひととき――。こうした選択が、私たちの未来を静かに形作っているのです。

「漫画なんか読んだら馬鹿になる。」

かつて、そんな言葉を耳にしたことはありませんか?昔の大人たちが語ったこの言葉には、どこか懐かしさを感じつつ、同時に少しばかりの違和感を覚える人もいるでしょう。

なぜなら、現代において漫画は、もはや「軽視される娯楽」ではなく、日本が世界に誇る「堂々とした文化」として確立されているからです。

しかし、文化としての誇りの裏側に、私たちはどのような「影」を引きずっているのでしょうか?足音が影と共に沈むように、私たちの選択が知らぬ間にどこかへ向かっているとしたら……。


素晴らしい漫画の世界

皆さんが好きな漫画はなんでしょうか?

つい先日、知人から「芸術の勉強をしているんですか?じゃあ『空をまとって』という漫画が面白いので、読んでみてください!」とお薦めをいただきまして、久しぶりに「ジャケ買い」をしてしまいました。

あらすじは、以下の通り。

「俺もいつかこんなヌードを描きたい――」

幼少時に見た絵画、「魔女のヌード」に魅入られた高校生・小川波路。

日々、独学でヌードを描く彼の前に現れたのは、「魔女のヌード」に描かれた女性に瓜二つの美女、神生伶だった。ハロは思わず、伶にヌードモデルになってほしいと頼みこむが…!?

目指すはヌードで藝大合格!! 肌色の青春劇、開幕!!

これは主人公が「ヌード描いて東京藝大への合格を目指す」という、立派なサクセスストーリーです。出てくる絵がね、これまた美しいんです。決して下賤なエロティシズムなど描かれませんので安心してご一読ください。なにせ、この漫画を私に薦めてくださったのは、女性ですから。

さて、漫画が文化として確立された現代において、それが私たちの日常にどのような影響を与えているかを改めて考えてみましょう。

たとえば、漫画は今や子供だけでなく大人も楽しむ娯楽として広く受け入れられています。通勤電車の中、カフェの片隅、自宅のリビング。そこかしこで漫画を手にする姿を目にするのは珍しいことではありません。その光景は、かつて「漫画なんか読んだら馬鹿になる」と言われていた時代を思うと、驚くべき変化と言えるのではないでしょうか。

この変化は一見、文化の進歩として歓迎されるべきもののように思えます。しかし、その背景にあるもう一つの側面を無視することはできません。

それは、漫画が「世界に誇る文化」として認められる一方で、私たちはそこに「どれほどの時間を費やし、何を得ているのか?」を、問う必要があるということです。

読んでいる間の高揚感や没入感は、私たちに一時の満足を与えてくれます。しかし、それが繰り返されるうちに、いつしか「選ぶ」という行為そのものが形骸化してしまってはいないでしょうか?ふと気がつけば、私たちは手軽で即時的な快楽に引き寄せられるようになっているのかもしれません。

20世紀初頭、アメリカの技術者フレデリック・テイラーは、労働の効率性を高めるための仕組みを研究し、それを「科学的管理法」として提唱しました。テイラーは、作業を細分化し、反復可能なルーティンとして標準化することで、生産性を最大化できると考えたのです。一見すると合理的で画期的な方法に思えますが、これは労働者から思考や創造性を奪い「歯車」として働かせる危険性があったのですね。

この構造は、現代の私たちが選択を行う姿勢にも似ているのではないでしょうか?ルーティン化された選択肢――例えば、定番のランキングから選ばれる漫画やアルゴリズムで推薦される作品――を無意識に受け入れ、深く考えることなく次々と「消費」していく。

こうした行動が習慣化する中で、かつて大人たちが言った「漫画なんか読んだら馬鹿になる」という警句が、現代にも新たな形で蘇っているように感じられます。

もちろん、漫画そのものを否定するつもりは露ほどもありません。漫画が持つ可能性や、文化的意義を否定することは、私が目指す議論の本質ではないのです。そうではなくむしろ、問題は私たちがその享受の仕方をどのように選び、向き合っているかにあるのだと思います。

もし、私たちが日々の選択の中で、このような無意識の「流れ」に任せるだけであるならば、その先に待つのは、本物と模倣の境界が曖昧になる世界かもしれません。

フランスの思想家ジャン・ボードリヤールは、現代社会において「シミュラークル」という現象が支配的になりつつあることを指摘しました。彼によれば、シミュラークルとは、現実を模倣するはずのものが独自の存在を持ち始め、やがて現実そのものを超えてしまう状態を指します。

たとえば、漫画やエンターテインメントは現実を反映したものとして私たちを楽しませてくれます。しかし、その消費が過剰になると、私たちは現実そのものではなく、その模倣に過剰に依存するようになり、やがて何が「本物」なのかを見失う危険性があります。このような状況では、選択の重みが失われ、思考そのものが軽薄で表面的なものへと変質してしまうのです。


選択という旋律の行方

私たちが日々下す選択は、どれも一つひとつが独立した旋律のようです。それらが無意識のうちにばらばらの雑音となるのか、それとも調和の取れた美しい楽章を奏でるのかは、私たち自身の向き合い方にかかっています。選択とは、ただそこにあるものを受け入れる行為ではなく、

自らの価値観や意志を注ぎ込み、結果を編み出す行為です。

つい先日、私もそのことを実感する出来事がありました。ある立派な肩書を持つ方々が集まる会に参加したときのことです。最初は堅い話題で始まったその会も、時間が経つにつれ、いつの間にか漫画の話題で盛り上がりを見せました。それ自体は素晴らしいことです。漫画が世代や肩書を超えて共有できる文化となっている証でもあります。しかし、ふと私はこう思いました。

「彼らは漫画ばかり読んでいて、果たして大丈夫なのだろうか?」

という疑問が頭をよぎったのです。

その場の多くの人たちは、毎年この時期になると来期のマスタープランを作ることに追われていると口を揃えていました。けれど、その計画が具体的な成果に結びついているかというと・・・どうもそうではない様子でした。

限られた時間の中で、彼らは何を選び、どのように未来を形作っているのか。その選択は果たして、自分たちの意志に基づくものだったのか。それとも、無意識の流れ・・・上流から流れてくる指示に任せた結果なのか。

これは、仮説と呼ぶにはあまりにも拙い思索かもしれません。それでも敢えて言葉にするならば――「漫画なんか読んだら馬鹿になる」と、子どもたちに伝えるべき立場だったはずの自分自身が、その忠告を自らには適用させず、「日本の誇る文化だから」と都合の良い理屈を重ねた結果、「漫画ばかりに耽溺し、本当に思考を浅くしてしまったのではないか?」。そんな疑念が心を深くかすめます。

忠告は他者に向けたものであったはずが、やがて自らへの皮肉として跳ね返り、私たちの中に残るのはその静かな痛みと虚しさだけ――。このブーメランの行き先を直視せず、漫然とした選択を続けることが、私たちをさらに軽く、浅い存在へと変えてしまうのではないかという危惧を抱かずにはいられません。

漫画という一つの娯楽がどのように使われるかは、まさにこの選択の問題に集約されます。無意識の中でただ消費するだけなら、ボードリヤールの「シミュラークル」の罠に陥り、結果として空虚さだけが残るかもしれません。一方で、漫画から得た何かを自分の価値観や行動に結びつけることができれば、それは選択を通じた成長へとつながります。

アメリカの経営学者であるダグラス・マグレガーは、マサチューセッツ工科大学(MIT)での研究と教育に携わる中で、人間の動機付けと組織運営の本質に関心を持ちます。彼は、管理職がどのように労働者を扱うかという現場の観察を通じて、彼は二つの根本的に異なる人間観に気づきました。

一つは、人間を怠惰で、外的な監視や指示がなければ働かない存在と見なす「X理論」。もう一つは、人間を本来責任感があり、自己実現を求める存在と捉える「Y理論」です。この洞察を基に、彼は管理の基本的なパラダイムを再構築し、1960年に著した『企業の人間的側面』でXY理論として体系化しました。

この理論の重要性は、管理の手法ではなく、人間の可能性そのものをどう捉えるかという哲学的な問いです。Y理論では、環境が適切であれば、人間は自主的に行動し、創造性を発揮し、成長する力を持っているとされています。心理学者エイブラハム・マズローの「自己実現理論」にも触発されたこの理論は、個々人の「内発的動機の尊重」を説いているわけです。

この視点を現代社会の漫画文化に適用すると、漫画を消費物として受け入れるのではなく、その中から学びを得たり、自分の価値観や行動に結びつけたりする。これはY理論が示す「環境が人間の潜在能力を引き出す」という原則と一致します。逆に、無意識のうちに与えられるものを受動的に消費するだけであれば、選択の主体性が失われ、X理論のように他者に依存する存在に陥りかねません。

バッハの対位法が異なる旋律を調和させ、美しい音楽を紡ぎ出したように、私たちの日々の選択もまた、その意識的な編み方によって豊かな未来を生む可能性を秘めています。

「選択は無意識に任せるものではなく、意識的に紡ぐもの」。その意識が、結果として私たち自身の調和した人生を奏でるのです。先日の会で感じた疑問は、そのまま私たちへの問いかけです。

「その選択で、本当に大丈夫なのか?」


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