【格差】公正は常に望ましいのか?
よく「誰が言うか」「何を言うか」という二項対立諭が持ち上がります。
権威ある人物が間違った情報を提供することがある一方で、権威のない人物からの正確で価値ある情報が見過ごされることもあります。この二つの要素は、ビジネス、政治、教育、メディアなど、さまざまな分野でのコミュニケーションと意思決定において、常にバランスを考慮する必要があるからこそ、「公正」を絶対善として奉る人が後を絶たないのでしょう。
こういうことを言うと、誰が言うか派の人たちからは「意見を言いたいならば、結果を出して権威を持ってから意見せよ」という強い反論が返ってきますし、何を言うか派の人たちからは「じゃあ、間違ってるってわかりきってる仕組みや方法であったとしても、俺たちが権威を持つようになるまで黙ってろってことですか」という、やはり至極もっともなカウンターパンチをお見舞いされます。
こうなると泥沼試合の様相を呈するわけですから、その中道としての「バランスが大事」という派閥、一見すると最も優れたかのように見える、なんだか真のリーダーにも思えるような人たちが登場するわけです。
というようなことを書くと、今度は「そもそも派閥分けなどするな、お前のような者がいるから争いが起きるのだ、この戯け者めが」といったお叱りを受けるわけではありますが、しかしそれでは「バランス派」は本当に真の正解を語っているのでしょうか?
企業における人事評価制度の設計では、公正な評価を究極的な目標として設定します。
私自身は講師という役割が本業であり、日ごろは「Employee Experience=従業員体験=職場満足度やエンゲージメント」の向上へ寄与するために働いているのすが、その私の所属は「人事部」です。つまりは、社員・従業員の採用や評価にも関わっているからこそ、「誰が言うか派」「何を言うか派」「バランス派」の意見に共感こそすれ、否定の立場は取りません。彼らが「どうすれば公正な評価が可能なのか?」という問いに対して、常に向き合って頭を悩ませていることはよくよく知っています。
だからこそ、ここでは「公正性」について、別の問いを立ててみたいと思います。それは「公正とは本当に良いものなのか?」という問いです。
公正とは本当に良いものなのか?
そもそも公正がこれほどまでに望まれているのであれば、私たちの組織においても社会においても、公正は既に実現されるはずです。しかし、そうなってはいない。なぜなのか?一つの有力な仮説が「本音では誰も公正など望んでいないからだ」ということです。
私たちは、江戸時代まで続いた身分差別制度を撤廃し、民主主義社会を実現したということに、一応はなっています。 しかし、皆さんもよくご存知の通り、差別や格差は根絶されていません。 いやむしろ、江戸時代のように公然と身分が分かれていた時代よりも、差別や格差はより陰湿で、より潜在的になり、より一層の深刻な問題として私たちの生活に影響を及ぼしているように思えてなりません。
なぜ、このようなことが起こるのか?その理由は単純で、身分の差がなくなったことにより、建前上は「誰にでも機会が公平に与えられているからこそ、差別や格差がよりクローズアップされているから」です。
この問題を2000年以上も前に指摘していたのが、古代ギリシアの哲学者アリストテレスでした。アリストテレスは弁論述の中で次のように述べています。
江戸時代の封建社会では、人々の社会的な身分は出生によって決定されていました。このシステムの下では、社会の下層に位置する人々は、上層にいる人々と比較することがなかったため、羨望や劣等感を感じることもありませんでした。彼らにはそもそも比較の概念が存在しなかったのです。
しかし、身分差別が制度としてなくなると、誰もが理論上、上層に所属するチャンスを持つようになります。この状況では、自分と似た出自や能力を持つ人が素晴らしい立場にあるのに、自分が実際のところ「そう」はなれていない場合、「公平性が損なわれている」と感じることになります。一般に、差別は「異質性」から生じると考えられがちですが、実際には「同質性」が高い状況でこそ差別や格差が生じやすいと理解するべきなのです。
人種差別について深い考察を残したモスコビッシは、次のように指摘しています。
モスコビッシのこの指摘は、差別や格差の問題に関して、大きな格差よりも「小さな格差」こそが心理的に大きなストレスを引き起こすという点を強調しています。つまり、江戸時代のような明確な身分差別制度や、現代のイギリスやインドに見られる「クラス」に基づく分類では、「不公平」が人々の精神を大きく蝕むことは少ないと述べているのです。そういった社会では、人々がそれぞれの立場を受け入れているため、羨望や妬みのような感情が少ないのです。
もちろん私自身は、そのような「身分差別制度が望ましいと考えているわけではない」ということを、ここで強く強調したうえで話を前に進めます。
社会や組織が同質性を高めると、「妬み」という感情がより強くなる傾向があることを、19世紀前半のフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは指摘しています。彼は民主主義が平等を理想とする一方で、この理想が矛盾を引き起こすと論じています。
不平等が常態化する社会では、大きな不平等が見過ごされがちであること、そして一方で、社会が平等に近づくにつれて、わずかな不平等も大きな問題として感じられるようになるということです。
トクヴィルの指摘は、私たちが「公正な組織」「公正な社会」を希求することの本質的な矛盾を突いてきます。このような認識が成立した上でなお、私たちは公正で公平であることを希求するべきなのでしょうか?
もし社会や組織が公正で公平であるのであれば、その中で下層に位置づけられている人には逃げ道がありません 。人事制度や社会制度に不備があるから下層にいるのではなく、まさしく「自分の才能や努力といった点で、人より劣っている」からに他ならないからです。
序列の基準が正当ではない、あるいは基準は正当であっても、評価が正当になされていない、と信じるおかげで、私たちは自らの劣等性を否定することができます。
しかし「公正な組織」「公平な組織」では、この自己防衛は成立しません。私たちが安易に「究極の理想」として掲げる「公正で公平な評価」は、本当に望ましいことなのか。仮にそれが実現したときに「あなたは劣っている」と評価される多数の人々は、一体どのようにして自己の存在を肯定的に捉えることができるのか。
そのような社会や組織というのは、本当に私たちにとって理想的なのか。「 公正」を絶対善として奉る前に、よくよく考えてみる必要があると思います。
最後に
本記事のタイトルは「格差」であることから、本来であればモスコビッシに触れた方が良いだろうと思うのですが、それでも敢えてトクヴィルという人について触れておきたいと思います。
トクヴィルは、フランス革命の影響を受けて育ち、その後、自由と平等を追求する新たな価値観に基づいて、ジャクソン大統領時代のアメリカを詳細に観察しました。時は1831年、ちょうどアメリカ建国の父たちの時代が終わりを告げたころでした。
この時期、アメリカはヨーロッパを追い抜き、一人当たりの収入で世界をリードしていました。トクヴィルらはフランス政府から得た機会で、アメリカの刑務所制度を研究する目的で派遣されたことから始まりました。しかし、彼らの関心はすぐに刑務所制度を超え、アメリカの経済、政治体制、社会のあらゆる側面に及びました。
なぜか?トクヴィルはそもそもヨーロッパの政治こそが最先端であるという価値観を根底に持っていました。そんな彼がいるフランスでは、帝政や王政といった君主政治が繰り返され、7月革命の後も王の暴走を止めるべく憲法を主軸にした政治にしたとはいえ、それでも立憲君主制が敷かれていました。
彼らは本来、「刑務所の制度を視察しに来たはずなのにも関わらず、ヨーロッパよりも遅れていると思っていたアメリカが、フランスよりも広範な土地を持つアメリカが、なぜ共和制(政治エリートらによる意思決定を主とする政治)が成り立っている(ように見える)んだ!さらには民主政治(より多くの人々の政治参加)が成り立っている(ように見えるんだ)んだ!どうやったらできるんだ、これー!」といった具合かどうかはさておき、大層驚いたと言われています。
実際のところ、政治エリートたちの議論がお粗末なものであったことを、教養のあるトクヴィルはすぐに見抜いてしまうのですが、トクヴィルが真に驚いたのは、「市井の人々」についてだったと言われています。
これを平たく表現すば「アメリカ市民、めちゃめちゃ政治を自分ごととして捉えてるじゃん!すげー!」ということです。
この視察から帰国後、トクヴィルは「アメリカのデモクラシー」を著し、その中で当時のアメリカを近代社会の最先端と見なし、新時代の先駆的役割を担うと述べました。しかし、彼はまた、経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言しました。トクヴィルは民主政治を「多数派による専制政治」と見なし、その多数派の世論を形成するのは新聞、今で言うところのマスメディアであると考えました。
トクヴィルの教訓を現代に活かそうとすれば、つまりは、私たち一人ひとりが「前に倣え!」という古き悪しき慣習に反抗し、いかにマスメディアによるプロパガンダに惑わされることなく、よりよい社会の創造のために主体性を持てるかどうかが「カギ」になると、私は思うのです。
僕の武器になった哲学/コミュリーマン
ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ
キーコンセプト②.格差
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