【シベリア鉄道旅行(4)】 灰色の「自由市」、スヴォボードヌイ
はじめに
こんにちは、前回は「死者の空間、ハバロフスク共同墓地」について書きました。noteの公式マガジンに掲載されました!良い反応をいただき嬉しいです!(≧▽≦)
今回は 灰色の「自由市」、スヴォボードヌイ
(Свободный)について紹介します。
左の赤い丸がスヴォボードヌイ(自由市)です。右の書かい丸であるハバロフスクから北西に約700km離れています。列車で約12時間かかります。
なぜ、自由市ですか?といいますと、自由がロシア語で「スヴォボード」だからです。
「ヤバ、寒すぎ!」本物のシベリア
2020年1月3日午後8時頃ハバロフスクを出発し、1月4日朝8時にスヴォヴォドニに到着しました。
列車から降りて、寒さに身を丸めて降りるロシア人がたくさんいました。
駅前の電光掲示板を見ると、なんと[「マイナス29度」でした。初めて経験する寒さで頭がクラクラしました。 このまま死ぬのか?
調べてみると、1920年代にシベリアに出征した日本軍が撮ったスボボドニーの写真が残っていました。1912年にアレクセイエフスクという名前で名付けられ、1917年のロシア革命後にスヴォボードヌイという名前が付けられました。
赤い丸が駅です。
朝からお腹が空いたので、どこかのレストランに行こうと思ったのですが、1月1日から1月7日までは一般的に連休なので、ほとんどのレストランが閉まっていました。
氷点下29度の街で朝食を提供しているレストランを探しに行きました。
少し街が荒廃している感じがしました。 人口は5万人くらいだそうですが、そんなに大きいのかな? と思いました。
少し街が荒廃している感じがしました。 人口は5万人くらいだそうですが、そんなに大きいのかな? と思いました。
氷点下29度では深呼吸をするのも危険だと思い、ショールで口と鼻を塞いでいました。 そのため、メガネに霜がつき、そのまま凍ってしまいました。
追跡者と大騒ぎ
レストランを探しに迷いながら公園を通り過ぎることになりました。 左側の看板に「I LOVE スヴォボードヌイ」と書かれています。
公園に貼られている強盗指名手配のチラシ。街は少し灰色がかった感じで、治安はあまり良くは見えませんでした。
ところが、突然公園の近くで、あるロシア人のおじさんが私に新年の挨拶をしました。 私も挨拶をしたのですが、突然私に一緒にご飯を食べようというのです。私は急に怖くなって、ごめんなさい、忙しいから先に行くと言って逃げました。
問題は、そのロシア人のおじさんがずっと追いかけてくるようになったことです。 天気も寒いし、公園で強盗指名手配のチラシを見たので、私はずっと逃げ回りました。
やっと運良く営業している食堂を見つけ、その中に隠れたのですが、そのロシア人のおじさんも追いかけてきて、私を探し続け、食堂で怒鳴り散らすのです。(赤い丸がロシアおじさん) あまりに怖くて隠れて、そのおじさんが食堂で暴れるところを撮りました。 幸い、食堂のおばさんがそのおじさんを叱り、ここですぐに出て行け、さもないと警察を呼ぶと叫び、その怖いおじさんは食堂を出ました。
そのおじさんが去り、私はやっと安堵のため息をついて朝食を始めることができました。緊張がほぐれると食欲が湧いてきて、ニシン、ラゾニック、ソーセージをガツガツと口に押し込みました。死ぬほど美味しかったです。
駅から朝食を食べたお店まで。
「スラセフカ」給水塔に向かう
食事を終えて、私は「スラセフカ給水塔」という場所に向かって歩きました。 ここは韓国史を勉強した人にとってはかなり意味のある場所です。 なぜなら、「自由市事件」という本当におかしな歴史的事件が起きた場所だからです。
自由市事件とは、1921年6月27日に自由市近くのスラジェフカ(Суражевка)で、朝鮮人軍がソ連軍(当時極東共和国軍)に鎮圧された事件です。 この事件は、ロシア革命当時、共産主義の実現方法における二つの方式、すなわち、労働者階級を資本家から先に解放するか、それとも帝国主義の下で植民地化された民族から解放するかをめぐって見解を異にする二つの朝鮮人共産主義勢力間の思想の違いによって生まれました。
信念のために死に、生きることが結局人間の歴史なのかと思うことがあります。私を構成するアイデンティティは「韓国人」ということもありますが、私が住んでいる日本のある地域の「外国人住民」でもあり、ある日本企業の「社員」でもあります。 思想的には、資本主義を擁護する側面もあれば、ある面では社会主義を擁護する側面もあります。このように、私は自己のアイデンティティをできるだけ多様化して生きていきたいと思っています。 なぜなら、一つの基準で自己を規定することは「アイデンティティの貧困」を生み出し、世界観が狭くなると思うからです。
誰かはそのような行動を「グレー分子」と批判するかもしれませんが、私は問答無用で一つの主義を盲目的に擁護することは避けたいと思っています。人間は機械じゃないんですから、状況に合わせなければなりません。
さて、いよいよ問題のスラセフカ給水塔に到着しました。 あの中央に立つ堂々とした塔で、悲劇的な「自由時事事件」が起こりました。
給水塔の上の高架橋から列車を眺めると、本当に美しいですね。 グレーと白が絶妙に調和した灰色の自由市、スヴォボードヌイ。
そんな歴史的背景とは関係なく、給水塔の内部には近所の若者が書いたような落書きがあり、ゴミが散乱しています。こういう時、人生とは若者の好奇心旺盛ないたずらだと思うことがあります。
その悲しい歴史に頭が重くなりました。 その憂鬱さを一気に吹き飛ばすべく、ロシアの伝統的な銭湯「バニャ」に向かいました。
朝食を食べた食堂から給水塔まで。
ロシアの銭湯「バニャ」
ロシアの伝統的なサウナは「バニャ」と呼ばれます。ロシア人が大好きなんです。 給水塔の近くにバニャがありました。 入り口の前には、入浴途中のロシア人おじさんが立っています。エキサイティングです。挑戦してみましょう。
外観がとてもクラシックです。幼稚園のような感じです。
一人のロシア人がバニャに入ります。私も一緒に入ってみます。
内装もとても庶民的で良いです。
内部の装飾がとても可愛らしいです。
どこの銭湯に行ってもそうですが、着替える場所をロシア語で「ガーデロヴナヤ」と呼びます。
私も先ほどのロシア人おじさんのようにお風呂の途中で出て、熱い体と冷たい外のコントラストを楽しんでみました。 とても新鮮で良い経験でした。マイナス20度の寒さで半袖なんて、皆さんもぜひ体験してみてください。
「自由市事件」の記念塔を探し
私の列車の出発時刻は午後10時頃でした。最後にこの街を離れる前に、一つだけ行きたい場所がありました。先ほど話した「自由市事件」を追悼する記念塔が最近この街にできたと聞いたので、行ってみたかったのです。 探したところ、ある墓地の近くのどこかにあるという話だけで、正確な場所は分かりませんでした。近所の人に聞いても、だいたいどこかの近くにあるという程度しか教えてもらえず、見つけることができませんでした。
上の写真は「自由市事件」の慰霊碑です。 韓国のある報道機関で撮った写真です。ああ、本当に見つからないのでしょうか...。
時間がなく、この小さな街でタクシーを捕まえるのも無理で、バスもなかなか見つかりませんでした。時間が遅くなってくると、私も寒さで耳が凍りつき、危機感を覚えました。 電車に乗れないのでは? そんな心配です。 結局、駅から遠すぎるため、私は早く駅に戻ることにしました。
悔しさを残しつつ
列車が出発したらどうしようかと心配しましたが、幸いにも列車出発の5分前にギリギリ駅に到着しました。 このように、シベリア鉄道の旅は、列車に乗る時間を毎回合わせるスリルもあります。もちろん、スリリングはスリリングなだけで、乗り遅れると大変なことになりますので、ご注意ください。
碑石を見ずにこの街を離れるのがとても残念でした。 なかなか再び来ることができない場所なので、私が死ぬ前にもう一度ここに来ることができるでしょうか? 人生はどうなるか誰も分からないので、小さな希望を持ちます。疲れた体を寝かせて目を覚ますと、車窓にはシベリアの眩しい夜明けが差し込んでいました。
そうしてシベリア横断列車は西に向かって走り続け、私もその中で次の目的地でやるべきことを計画しました。 列車の中では、その場その場の即興性に身を任せました。 次はどんな場所なんだろう、とても楽しみだなあと思いながら。
デジタル歴史家
ソンさん
【参考】