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ピーマン

嫌いな食べ物代表の、ピーマン。

においや苦みが苦手という人、かなりいます。

おとなでも嫌いという人、結構みます。


さて、嫌われ者のピーマンについて。

実はピーマンアレルギーというのもあったりします。

ピーマンを食べたくても食べられない、という人がいます。

好き嫌いとアレルギーは明確に違います。

体に取り込みたいと思うかどうかが好き嫌い。

その意思に関係なく体が拒否するのがアレルギーです。


それを混同している人、わりといます。たくさんいます。

好き嫌いをアレルギーのように見せてる人、多いです。

スウガク、シュウキョウ、ガイコクジン。

すこし難しいものの後ににつけがちです。

混同すると的を得ません。的を得ないと伝わりません。

伝わらなければ、見えるのは拒絶だけです。


それを取り込もうとするときに自分がゆらぐのはわかります。

そのゆらぎは苦しいです。

ただ、拒絶は外側から眺めると、暴力にしか見えなかったりします。

だから、

トラウマに触れて苦しくなるのはアレルギーと呼んでもいいのかもしれない。

苦しみの当事者が声を上げるのもアレルギーと呼んでもいいのかもしれない。

心が耐えられなくなって壊れるうつ病もアレルギーと呼んでもいいのかもしれない。


ただ、

理解できない話だから無視するのは好き嫌いです。

相手の言葉が分からないから攻撃するのは好き嫌いです。

男か女かわからないから攻撃するのは好き嫌いです。


好き嫌いでピーマンを食べないのとおんなじです。

どれだけ偉くても、どれだけ年を取っていても、好き嫌いです。


アレルギー反応を起こす抗体からは意思は見えません。

何かがやってきたら攻撃する、それだけです。

それが過剰なら体が傷つけられる、それだけです。


いっぽうで、人間には意思があります。

なにかに出会って、攻撃する意思を表現すると、それは攻撃になります。

攻撃を受けたものは傷つき、憎しみを持ち、新しい攻撃の意思を持ちえます。


だから、何か目的や理想があるのなら、それを伝えるための努力は必要です。

漱石先生の言うように、「精神的に向上心の無い者はばか」なのかもしれないです。

伝えることを怠った瞬間、抗体と同じ、意思の見えない攻撃するだけの物体になります。

人間が考える葦なのだとすれば、考えなければただの植物です。

せっかく持ち合わせた言葉を、表現を使わないのはもったいないです。


ところで、好き嫌いはいつの間にかなくなったりします。

ピーマンも細かく刻んでハンバーグに混ぜれば食べられたりします。

トマトも、パスタのソースにしたら食べられたりします。

嫌いと言って食べないのではなく、時には工夫をして食べる努力をしてみるのも健やかさのためには必要かもしれませんよ。

そして、案外食べられたりするものです。

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素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。