一度チャラにして「疑えないこと」から再スタートしてみよう
「思考」に関するキーコンセプト
よくある「思考の落とし穴」に落ちないために
41:コギト
哲学史上、おそらく最も有名な哲学命題の一つである「我思う、ゆえに我あり」。(ラテン語で「コギト・エルゴ・スム」)
デカルトは言います。「存在の確かなものなど何もない。しかし、ここに全てを疑っている私の精神があることだけは、疑いえない」。
現在を生きている私たちが唐突にそのように指摘されれば「ええ!?それはまあそうでしょうね・・・」と答えるしかないように思われるわけですが
デカルトはなぜ、かくも自明なことを大げさに指摘したのでしょうか。
わかりやすく言えば、これはデカルトなりの「シャウト」だったということです。
当時の権威であったキリスト教やストア派哲学に対して喧嘩を売りながら「徹底的に自分のアタマで考えろ!」ということです。
これがいかにすごいことだったのか、デカルトの生きた時代背景を知らずに共感することは難しいかもしれません。
出ましたね、彼らが生きていた時代背景。。
デカルトは宗教戦争の時代を生きた哲学者です。
プロテスタントとカトリックが信仰や教義のあり方について、言うなれば、どちらこそが「真理」なのかということを争っていました。
しかし、両者による真理問題で泥仕合をしている様を見て、中世の知識人と言われる人たちはさすがに「これはどっちが正しいとか、そういう問題じゃないだろ」と思い始めました。
「キリスト教が示す真理」という物語への疑いがコップからいよいよ溢れそうになっているというティッピングポイントに、デカルトは「この際だから、ぜんぶチャラにして、もう一回確実なところから始めてみようじゃないか」と言い始めたわけです。
しかし一体、確実なものなんてあるのか?
目に見える現実だって錯覚や夢かも知れないと考えれば、確実とは言えない。そうやって全てを疑っていったとき、最後に「疑っている自分がいる」ということだけは疑えないことに、デカルトは気付きます。
マトリックスの世界か。そう考えれば、あの映画は哲学の映画なのか。
デカルトのコギトから、私たちは様々な洞察を得ることができます。
まず「プロセスからの学び」ということでは、その社会において支配的な枠組みをいったんチャラにして「本当にそうなのか」と構えつつ、自分のアタマで考えることの重要性が挙げられます。
しかしまた一方で「アウトプットからの学び」ということでは、あまりにも厳密に考えようとすると、意外と不毛な結論しか得られないんだな、ということも挙げられるでしょう。
それはデカルトが示した「我思う、ゆえに我あり」という命題が、後世に続く哲学者の思考の出発点としては結局、採用されなかったという点からも明らかです。
よく分からないが、とにかく自分のアタマで考える事が重要という解釈で良いのかな。
この本の考察も残り僅か。反復して身に付けたい。。