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眠れない夜におもいだすこと

周りの田んぼ風景に彼岸花が咲き出す頃、朝晩が涼しくなった季節に当時の匂いが蘇って胸がぎゅうっと締め付けられる。

なんだろう、イライラする、と思っていたけれどこれはそうか、あの時を思い出して少しセンチメンタルな気持ちになっていたのだと気付いた。


私がその人に出会ったのは、新しく始めた仕事先の上司としてだった。
最初の印象は恐ろしく無口だという事。後にも先にも彼よりも無口な人には出会った事がない。

だけれど、彼の仕事ぶりは無口に比例するかのように恐ろしく早く、見た誰もが驚く程だった。
例外なく私もその1人で、彼の仕事が捗るようにと、何故だか仕事を始めたばかりのひよっこだったくせに役に立ちたい!と強く願うようになる。

そんなものが恋の始まりだと、自覚するのにそう時間はかからなかった。
可笑しいのだ。寝ても覚めても彼を思い出す事が。仕事に行けば上機嫌になる事が。彼がストレスなく仕事が出来るよう必死でサポートする自分が。ふと私に見せた笑顔がずうっと頭から離れない事が。

彼が問題なく仕事を終えられる事が私の喜びだった。話す事は朝の挨拶程度だったがそれでもよかった。まるで中学生みたいな恋をしていると自分で嘲笑した。

とあるキッカケで、共通の話題が見つかり彼と話すようになった私は分かりやすく高揚した。
共通の話題をずっと話していられるようにその話題について家に帰ってからも掘り下げるようになった。

嬉しかったのだ。とにかく。
当たり前のように私と話してくれる事が。その話題になるとまるで子供のような顔をする彼が。職場で私以外とは誰とも話さない事が。まるで自分だけが特別になったかのような感覚に陥るほどに。

ある時、彼は朝イチで私に声を掛けた。

「ホタルって興味あります?」

いきなりの話題に私はたじろいだ。ホタルなんてものは生まれてこの方一度も見た事がないから。
そしてその時の私はロマンの欠片もなかったのだ。今思えば素敵なお誘いだ!なんて思えるのだけれど、そう思うには当時の私には経験値が足りなかった。

「え!?ホタル!?ないです!!虫でしょ??」

最悪である。

何をどう転んでも最悪の返答だった。

彼の言いたい事としては「ホタルは綺麗!」「今日しかないから!今日なんです!今日見に行ってください!」
みたいな事だったのだが、今ならこれが多分ホタルを今日見に行こうというお誘いだったのだと分かるのに、当時の私は彼を好き過ぎるあまりその誘いに乗る勇気がなくスルーしてしまったのだ。

最悪である

その後帰宅した私は、彼の言う場所で本当にホタルが見れるのかを調べるのだけれど、話をした前日にホタルが見れる日程が終わっていたと知るのだ。

もしその誘いとも取れない誘いに乗っていたら、と思うとなんとも言えない気持ちになる。
めちゃくちゃ気まずかったんだろうか、とかじゃあ別のどこかに行こうという話になっていたんだろうか、とか答えのない事を脳内で何回も考えた。


彼とは結局何も発展しなかった。そしてその後彼は仕事を辞めた。

私がただ好きで、一方的に好きで、大好きで、心が締め付けられるほど、しつこく一途に思っていただけだったのだ。

それでも未だに、休みの日に職場に顔を出したら今まで仏頂面で仕事をしていた彼が破顔した事や、話をする為にシフトが被ってる日を見つけるべく仕事を中断してシフト表を見てくれた事を思い出してしまう。

もしかしたら彼も、なんて都合のいい妄想を飽きもせず飽きもせず、何回も何回も。

もしあの時に、私がホタルに興味があれば何か変わっていたのかもしれないなと思わずにはいられない。

けれど、こうやって眠れない夜に思い出せる思い出をもらえただけで十分なのだと今の私はそう思う。

何もなかったからこそ綺麗で、誰にも汚されてなくて、キラキラと光ったまま終わったこの恋は多分きっとこの先も私の中で大切に、宝箱に入れた宝物のように保存されていくのだ。


あなたはまだホタルが好きですか?私はあれから一度もホタルを見る事なく、当時のあなたと同じ年齢になりました。あなたが話してくれたホタルの魅力はまだ知らないままです。

#忘れられない恋物語 #エッセイ


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