五月に読んだもの
『女のいない男たち』──村上春樹(文春文庫)
傑作映画『ドライブ・マイ・カー』の原作ということで、久しぶりに村上作品を読む。映画は短編集の各作品を繋げて色付けしているようで、例えば『シェエラザード』を音の語る脚本として丸々引用したうえで、防犯カメラ・「わたしが ころした」を新たに付け足すことにより、高槻というキャラクターをより重層にしている。また、映画内で『ワーニャ伯父さん』から引用された各台詞も村上版に厚みを与えていて、相互に作品を洗練させている印象を受けた。ただ、とても面白かったけれど、村上というよりは濱口脚本の株が上がるものでしかなかった。
『感じない男』──森岡正博(ちくま新書)
女性が筋肉を激しく痙攣させて絶頂する一方で、男性が射精する快感は排泄のそれ以上にはなりえない。それどころか、行為を終えれば死を想起させる巨大な虚無感に襲われる──「賢者タイム」だ──であれば、ヘテロセクシャルによるポルノ愛好は、「感じる女を見て、感じない敗北者たる私をもっと痛めつけたい」という自傷行為にしかなりえないのではないか。だとすれば、この「男の不感症」の奥底に眠る思想とは、いったいどのようなものなのか。制服フェチ、ロリコンとはなにか。これらの疑問に対して、筆者は徹底的に「私」を主語として語り出す。
「私」を主語とした赤裸々な告白なので仕方ないとはいえ、筆者の主張が私のセクシャリティと微妙にずれていて、読んでいて違和感を感じるところも少なくなかった。例えば、洗脳のイメージを強く喚起する制服に対するフェチを、少女の脳と私の脳を入れ替える変身願望と捉え、その少女(もう一人の私)の中へ進んでいく媒体として精液を放出する…という構造はまったく理解できなかったし、むしろ強い不快感を感じた。
一方のロリコン分析については(罪深いことだが)共感を覚えた。曰く、ロリコンが好む年齢のピークは、第二次性徴・初潮の時期と合致する。これまでのユニセックスな身体から、まさに女の身体の方へとカーブする瞬間である。ここに筆者は、敗北者たる男性の汚らしい己の身体へのコンプレックスを指摘する。目の前の少女に、思春期の分岐点の向こう側を曲がる「もう一人の私」の姿を見て、初潮を迎え妊娠可能となった「私」を孕ませ、母親から完全に訣別した「新しい私」になりたい──そのような変身願望が、ロリコンの深層心理にはあるのだと言う。
また、ロリコン化した日本社会の原因を「仮面をかぶった女性ポルノ」に求めるのも、とても興味深かった。モー娘に始まる少女アイドルは、服装・メイク・仕草・露出など様々な面で大人の女性に近づけてパッケージングされる。ここでは視聴者の認知ギャップが利用されており、非ロリコンには「かわいい!」としか思われないそれは、裏で密かに性的消費されているのだ(この例だけでは説得力に欠けると思ったならば、吐き気を催すほど多くの例によって裏付けられているので、ぜひ実際の本を参照してほしい)。そして少女たちもまた、性的価値を周りに放射することがかっこいいのだという洗脳を受ける──十五年前の本書が、見事に現在のロリコン社会の構造を言い当てている。
また、このような大人びた少女アイドルに対して、成人済の女性がロリータ的な格好をするときには、逆にナチュラルメイクにランドセルなど、実際のロリータのパッケージングとは真逆の方向に向かっている、という指摘も面白かった。
『大江健三郎』──池澤夏樹・編(河出書房新社)
池澤夏樹が解説で述懐するように、文学全集に課せられているのは作家の全業績の紹介、いわばテーマパーク入口で手渡される園内の見取り図である。その意味で、一見マイナーな作品群を扱ったこの全集は、多大な成果を挙げているように思われる。最後の『ナラティヴ、つまりいかに語るかの問題』で大江自身が指摘する、フィクションに導入された大江自身としての「僕」が語る『人生の親戚』。それは障害という無垢(イノセント──この言葉を濫用する危険性については、作中の引用で示されたとおりだが)を背負った子供二人が自殺(受難)したあとの、母親による過酷な「悪」への挑戦、つまり「人間の事業」について語られる。彼女の恢復のための事業は、同時に文学全集に収められた『人間の威厳について』で論じられる「いかなる宗教も持たない聖者」を描くことへの挑戦のようにも感じられ、改めて文学全集としての完成度を思い知らされる。
前に大江文学を「◯◯の小説を書かなくてはいけないというオブセッションが異常に強く、そのために自らの生活を小説化している」と評しているのを読んだことがある。『狩猟で暮したわれらの先祖』もまさにそのようなナラティヴであった。「フィクションをそこに導入し」ていながら、「作者としてそれを語るエッセイを書いている学生は、この短編の語り手「僕」とそのまま一緒だった(『ナラティヴ〜』)」という大江の私小説に対する独自の哲学が、後ろの大江年譜と相まって、現実と虚構という些細な問題を瓦解させ、とてつもないリアリティをまといながら読者を翻弄するのだ。
五月の読書量・一〇二五ページ
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