オースティン、テキサス──留年生の出稼ぎ日記 〈留年編〉
もうイッカイ、遊べるドン!
専任軍曹ハートマンからは「そこで取れるのは種牛とオカマだ」と罵られ、トラヴィスが放浪し、ケネディの前頭が撃ち抜かれた地、テキサス。その地への旅券を私が予約したのは、ある出来事から一週間後、大急ぎでのことだった。
留年である。それは長野で初のスノボに興じていたときだった、三月十日の正午、リフト内で恐る恐る大学のホームページを開く、「原級」の二文字が視界を捉えた、滑り落ちていたのは雪上だけではなかったというわけだ。落としていたのは後期の必修科目、そのたった一つの単位のために卒業を一年も引き延ばさなくてはならない。絶望のあまり数時間は一言も話せず──それこそ、ロスエンジェルスへ向かう車中に乗せられたトラヴィスそのものだった──、わずかに泣いた。
私は哲学科の人間である、その私にとって留年にまさる恐怖はなかった、なぜなら哲学科など「哲学が好きだった」という人間のほかはおしなべて落ちこぼれだからである、キャリアのために哲学科を選ぶ者はない、一年後(!)に控える就職活動でも「なぜ哲学科を選んだのか」と問われることは必至だ、だがその問いに対する唯一の有効カードとも言うべき「哲学が好きだった」を私は三月十日の正午に失った、学問への不誠実が原級の二文字を伴って私に跳ね返ってきたからだ……
きわめて消極的な渡米
もちろん留年分の学費と生活費は自己負担なので、それらを稼ぐ必要がある。まずは前期休学によって学費を減免、どうせ復学するまではバイト漬けなのだ、もっとも効果的に稼がなくてはならない。
私が目を付けたのはテキサス州に住むアルコホール中毒の祖母だった、稀に見る円安となった日本の経済状況、そしてガラパゴス的とも言える賃金の安さを鑑みれば、まじめに日本で働きたくはない、英語力も鍛えられる、それに祖母のもとでは生活費を一部負担してもらえるだろう…… さっそく快諾を得た。仕事だって、ネット上で検索すれば有り余るほど出てくる、これは名案かもしれぬ!
それに私はアメリカ国籍も有している、二重国籍だ、そのため就労ビザが要らない。なかばチート技だが、アメリカ国内で出産すればほぼ無条件で国籍が手に入る、国境付近に屯するメキシコ妊婦はそれだ、そうして私はテキサス州オースティンにて出産後、すぐに大阪の保育園へと送還されたのだ。二十歳を越えれば国籍を絞るように勧められてはいるものの、(現に役立っているように!)便利だからと私は国の言いつけを無視し続けていたのだった。
こうして、留学生というほど立派ではない、世界を股にかける情熱ある若者とも違う、追い詰められ、選択肢を狭められたすえの〈しがない外国人労働者〉としての半年が幕を開けた、──アルコホール中毒の祖母への土産として用意した純米大吟醸〈柏露〉を抱えて!