映画『落下の解剖学』
映画館を出た時、重い気持ちだった。
主人公のサンドラとその夫のサミュエルはかつてロンドンで出会ったが、そこでの生活が経済的に苦しくなり、今は子供ダニエルとの家族3人で夫の故郷であるフランスの田舎で暮らしていた。サンドラはベストセラー小説家となった一方、かつては小説を書くことを目指していた夫は行き詰まった。彼のその後の生活スタイルはいわゆる”主夫”のような感じなのだろう。妻はドイツ人、夫はフランス人。まだ幼い息子は視覚障害があるが、先天的なものではなく、ある事故が原因。
ある日、夫が自宅の窓から転落して死亡。それを犬の散歩から帰った息子が発見し、母親に大声で知らせる。事故か、自殺か、殺人かが、法廷で争われて行く。
夫婦には夫婦の間でしかわからないことがある。子供も親達もわからないこと。それは長い時間の間に作られていくもので、どこかの一部分だけをちょっと切り取って見知らぬ他人がのぞいたくらいでは到底理解できない。一般的な解釈も当てはまらない。当人達が周りに話すことをどれだけかき集めても、なかなか真実には至らない。
よくあることだと思う。
法廷で、彼女が夫を激しく罵る音声が公開される。静かな法廷で突然聞くにはあまりに激しく、生々しい。でも夫婦喧嘩、というか他人の存在を気にしない二人の人間の言い争いとしては、驚くほどでもない気がした。例えば4、50代の女性であれば、爆発した怒りがさらに怒りを呼んであのような収拾のつかない状態になることは、現実にあるだろう。赤の他人に対してはないにしても、家族や夫婦での言い争いなら、あり得る。
本当なら二人だけの間のやりとりのはずだった罵り合い。それが突然世間に公開され、その一部分だけを切り取って、生き残っている妻は非難を浴びたり批判的な目で見られる。悪いイメージがどんどん作られて行く。
映画をみている間中なぜか私はサンドラにあまり好意を抱けなかったが、彼女がバイセクシュアルであることや激しい夫婦喧嘩の音声を法廷で公開しながら、彼女の人物像をネガティブな方向に持っていこうとする検察官の態度には疑問を感じた。
彼女が夫の死に直接関わったかどうかはわからないが、映画を見ていて彼女の言動の中に亡くなった夫への愛情を感じることはなかった。時折流していた涙は、夫の死を悲しむものではないと感じた。
裁判を終えて帰宅し、愛犬と一緒に床につく彼女には、夫の死の辛さや夫を失った悲しみは感じられなかった。
最近自分の身にも様々な出来事がふりかかり、主人公のサンドラの状況が今の自分とかけ離れたものではない気がした。
この世にいないものに対して、抗議するすべは、ない。
非日常を味わうつもりで観に行ったが、妙に現実味があった。