人は幸せのために生きているのか(要出典記事)
さて、今回はちょっとタイトルが過激と言えば過激。「人は幸せのために生きているのか」だ。
こういうことを問題として考える場合、まずは哲学の力が試される。恐らく、大学の哲学科でこのタイトルを言ったら、議論の序盤で「そもそも『幸せ』ってなんですか?」と問われると思う。これに対する答えは千差万別だ。「家族に囲まれて、その家族を愛し、愛され、健康でいられること」と答える人もいれば、「目標としている夢が叶うこと」「持病が治ること」「借金がなくなること」、他にも恋愛のことなど、本当に人の数だけ「幸せ」がある。
そういうわけで「幸せ」という言葉の定義そのものが難しいが、ここでは一応、僕の定義を示しておく。そうでないと話が進まない。
幸せの定義、それは「より不安が少ないこと」だ。みんなが健康のためにサプリメントを飲むのも、賃金のいい仕事を求めるのも、「健康を損なったり生活が苦しくなるという不安を減らすため」だろう。もちろん中には「多少、ハラハラしてもやり甲斐を感じたほうが不安が少ないより大事」という人もいるだろうが、そういう人は平穏な状態のほうが不安なのだ。
よって、「この世には不安を減らそうとしている人が多い」、つまり、「この世には幸せを求めている人が多い」ということになる。当然、僕もそうだ。
ここで亡き父親が話したことをひとつ紹介したい。それは、1970年のF1グランプリチャンピオン、ヨッヘン・リントの妻、ニーナ・リントについての話だ。
僕の父親は大のF1狂いで、父親とは本当に何百時間もF1の話をした。その中で、僕は1970年のF1グランプリで13レース中5度1位になり、獲得ポイント45を記録したまま第10戦イタリアグランプリの予選で事故死し(1位は9ポイントで、当時はシーズンポイントが6位にまで振り分けられたが、ヨッヘン・リントは1位による9ポイント×5のみ)、今現在でも唯一の「チャンピオンが決まった時点でこの世を去っていた男」だ。不謹慎ながらこのエピソードがあまりにも劇的に思えて、僕は1970年のF1グランプリのDVDを買い、父親と観た。そこで父親がある一言を呟いたのだ。
それは、DVDの中にヨッヘン・リントのパートナー、ニーナ・リントが出てきたときである。父親は「この人は、ヨッヘン・リントの死を乗り越えられないでちょっとおかしくなっちゃったまま亡くなったんだよなあ(注1)」と言った。当時、僕はかなり重症の強迫性障害(OCD)を患っていたので、「精神的な痛みを克服できないまま死んだ」という父親の言葉が強く響いたのを覚えている。
うつ病や、家族・恋人・友人の死、なんらかの事故による身体損傷、なにかの依存症。それらを現在の社会は、「癒そう」「治そう」「立ち直らせよう」とする。そうすることは、もちろん正しい。そちらのほうが前述の通り「不安」は減る。つまり「幸せになる」ということだ。そして世間への迷惑も巡り巡って減るだろう。個人だけではなく、社会にとっても有益なことが「幸せ」を求めるということだ。
でも、それでもだ。人はニーナ・リントのように、死ぬまで傷を抱えた人を「可哀想で不幸な人」としてしまっていいのだろうか。「いや、可哀想に決まってんだろ」とは思う。これに関しては僕も上手く言葉にはできないけれど、「傷ついたまま死ぬ」、「救われないまま死ぬ」。そんな人生を許容してもいいのではないだろうか。
自分の話になるが、僕の母親も悪性リウマチを患い20年以上も苦しみ、晩年は左腕しか動かない完全介護だった。しかし母親には悪いが、彼女はそこまでリハビリに積極的ではなかったし、痛みに苦しんで泣いたりしていたこともあったが、基本的にはケロッとしていた。不安はあまり感じていなかったようだ。
もし、現在なにか不安から逃れようとしている人がいるなら、「一生、不安が消えないこともあるのかな」と、そう認めてもいいような気がする。
正直言って今回の僕の主張はちょっと無茶かなと思う。上手く言語化できなかった。ただ僕は「健全」「健康」や「幸せ」の価値が高まりすぎない世の中こそが豊かな世の中ではないかと考えている。
注1 今回の記事のためにヨッヘン・リントのパートナー、ニーナ・リントについて調べようとしたが、彼女の華やかな経歴ばかり出てきて、「ヨッヘン・リントの死で精神的におかしくなった」という情報は見つけられなかった。父親は長いことF1雑誌を隅から隅まで読んでいた人だったし、突出して記憶力のいい人だったので今回はこの話をしたが、もし事実と違っているなら誰か訂正をお願いします。
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