クラフトコーラ誕生秘話 伊良コーラ物語 第1話 IYOSHI COLA STORY
2018年7月に青山ファーマーズマーケットに伊良コーラが初めて出店、誕生してから丸4年が経とうとしています(注:現在は2022年の4月)。
そろそろ記事にしておかないと、どんどん記憶が風化してしまう気がして、重い腰をやっと上げました。今までの伊良コーラの歴史についてはメディアに取り上げていただいたこともあるのですが、長すぎて伝えきれなかったこともあります。なので、自分自身の備忘録も兼ねて、精一杯、書いていこうかなと思っています(今後も含めて)。
本題です。
まず、伊良コーラが初めて公の場に登場したのは2018年の7月29日です(土日で出店のはずでしたが、台風で7月28日が中止に、初出店が29日になりました)。その時、私は28歳で、まだ広告代理店のサラリーマンとして働いていました。
2018年の7月29日の初出店までにどんな物語があったのか、少しだけ、時を遡ってみましょう。
そもそもなぜ私がコーラを作るようになったのか。そこから始めなければいけません。
元々、小さな頃の私は特別にコーラが好き、というわけではありませんでした。
虫や魚といった自然が大好きな少年でした。大学時代は北海道大学の農学部に進学し、札幌にて一人暮らしを始めました(「コーラと私の人生」についてはまた別の機会に書きます)。
コーラにハマり始めたのはまさにその頃なのです。
きっかけは偏頭痛でした。偏頭痛持ちだった私はコーラが偏頭痛にいい、という話を聞き、コーラを飲み始めました(正確にいうと、カフェインには血管収縮作用があるため、カフェインを含むコーヒーや緑茶、コーラといった飲料は、血管の拡張によって痛みが生じる偏頭痛にいいと言われていて、その中でも私はなんとなくコーラが体に合う気がしました)。
また、元来、お酒が強くない私は飲みの場でコーラを飲む機会が多くなりました(例えばバーなのでもオレンジジュースや牛乳では格好がつきませんが、コーラであればカッコいい感じがした)。
そして段々とコーラにハマっていきます。
さらに自分は釣りが好きなのですが、学生時代にはアルバイトで貯めたお金で世界中で釣りをし、そのお供として世界中のコーラを飲み歩いておりました(基本的にはコカ・コーラとペプシ・コーラがメインなのですが、南米にはインカコーラがあったり、ヨーロッパにはドイツだとアフリコーラ、イギリスだとキュリオシティコーラがあったりしました)。
※なお、これらのコーラは後述しますが、香料をメインとして味や香りが作られているという点で、クラフトコーラとは趣を異にすると私は考えています。
ただ、この時点ではあくまで自分はコーラ愛好家、もしくはコーラマニアといった類で、コーラを自分で作ろうとは思っていませんでした。
※一方で、フィリピンの奥地などを旅した際、電気も水道も通っていないような村でコカ・コーラの赤いトラックを目にした際、「コーラとは何なのだ?」、さらには「コーラが何かわからないのに全ての人が疑問を持たずに飲んでいること自体が面白い」という根源的な問いや思いを抱くようになりました。
※私はこの思いを別名「トカゲ人間」と呼んでいます。
想像していただきたいのですが、例えばあなたが転校、もしくは転職したとします。クラスや会社に行くと、あなたの隣席に「トカゲ人間」が座って、みんなはその「トカゲ人間」に普通に接しているとします。
あなたは「この存在は何なのだ?」という問いを抱くと同時に、「明らかに謎の存在なのにみんながその存在を気にせずに普通に過ごしている状況」自体に疑問と面白さを抱くと思います(ただ、コーラと違い、トカゲ人間なので、その状況に対して恐怖もあると思いますが)。
そして、大学を卒業し、会社員として過ごしていたある日、何となくネットサーフィンをしていたところ、たまたまアメリカの怪しいサイトで、「これがコーラのレシピだ!」という記事を目にします。
そこには古ぼけた怪しいレシピの画像とともに、解読されたレシピが載っていました。その内訳はライムジュース、シナモン、ナツメグ、バニラエッセンスなど。それを目にした際、純粋に「コーラはこんな天然の材料から作られていて、作れるのか!」と思ったと同時に「すぐに作りたい!」と思い、当時住んでいた祐天寺の隣駅の中目黒の高級スーパー「プレッセ」で材料を買い集めていました。
なお、単純に自分がコーラマニアだったら、レシピを知っても「へえ、そうなんだ」としか思っていなかったと思います。作るまでに動かした原動力は件の「トカゲ人間」による謎のパワーが渦巻いていたためだと思います。
伊良コーラを取材いただいたメディアを読んだことのある方は、私がスパイスを買い集めた後、すぐにコーラを作り始めたようなイメージを持っていると思うのですが、実は違います。
私は当時、広告代理店の新人下っ端営業でした。ご存知の通り、広告代理店は激務。新人下っ端営業はなおのこと輪をかけて激務です。
終電帰りは当たり前、土日も出社するし、提案の前の期間は丸3日間会社から帰れない日もありました(とはいえ先輩や他の業界の方の話を聞くに、これでもまだマシ、という考えもできますが)。
そんなわけで、ヘトヘトになって帰ってきた私には、材料を買い集めた迄はいいものの、そこからさらに作る気力はありませんでした。なので、実は材料を買って、そのままキッチンの電子レンジの上に放置したままだったのです。
ですが、ある日、終電で同じようにクタクタに帰ってきて、ベッドに倒れ込むように寝ていた時、夜中の3時ごろだったと思います。
「このままコーラを作らなければ一生コーラを作ることはないだろう」とそんな気がして、いきなりベッドからむくり、と立ち上がり、サンダルを履いて狭いキッチンでいきなりコーラを作り始めました(当時住んでいた祐天寺のアパートは5畳ほどしかなく、キッチンが玄関にあり、靴を履かないと調理ができなかった)。
なお、この時のレシピなのですが、100年前のコーラのレシピは、厳密には各材料は精油の状態で、分量しか書いていない状態だったため、シンプルに材料を煮込む、というやり方で作りました。そして味見をした結果、何となくコーラ風味のシロップが出来上がりました。
そこまで美味しくないものの、不味いわけではない。元来、負けず嫌いで凝り性な私の魂に火がつきました。また言語化できない、何らかのワクワク感、この先には何かあるぞ、と同時に感じていたのも事実です。
それからというものの、コーラ作りが私の日課になりました。大学では農学部で実験系の学科に所属していたこともあり、いろいろな方法を試行錯誤し、PDCAを回しました。
例えば向いた柑橘の皮をオーブンで一度カラカラにしたり、いろいろな抽出方法を試したりしました。
それが約2年半続きます。
激務の広告代理店だったからこそ、自宅でできるその作業が趣味的でいい息抜きになっていて、長く続いたのかもしれません。
ですが、なかなか「誰かに飲んでもらいたいな」と思えるくらいの出来のものはできませんでした。さすがに2年半も壁を破れないと飽きてきたり、「もういいかなという」という気持ちになってきます。「この先に何かあるぞ」という気持ちにつきうごかされてきた一方、正直、「もういいかな。やめようかな。」という気持ちになりかけていました。
ちょうどその頃です。2018年の5月半ばごろだったはずです。
私の母親から、「祖父の遺品整理で一度、実家に帰ってこい」という連絡がありました。
私の母方の祖父「伊東良太郎(いとうりょうたろう)」は実は漢方薬職人で、「伊良葯工(いよしやっこう)」という工房を営んでおりました(漢方薬局ではなく、生薬の原料を仕入れ、蒸したり刻んだりと加工して、漢方薬局が使える状態にして卸す業種です)。
なお、「伊良」というのは伊東の「伊」と良太郎の「良」から来ています。「木村拓哉、略してキムタク」の先駆けです。
そして祖父の自宅の1階が工房になっており、私の実家はすぐ隣にありました。
一人暮らしをしている祐天寺から、久しぶりに実家のある下落合に戻りました(西武新宿線で高田馬場の隣にある駅です。ちなみに、新宿区にも関わらず、西武新宿線沿線で最も乗降客数が少ない駅とのこと)。
もちろん家族は誰も私が趣味として、夜な夜なコーラを作っていることは知りません。
そして、祖父の遺品整理の最中、祖父が昔使っていた道具や加工機械が出てきました。また、叔父や母親から、祖父の若い頃の失敗談やエピソードを聞いていた時、「これは今自分が趣味で作っているコーラ作りに活かせるのではないか!」という、まさにピンと来たとはよく言ったもので、「ピン」が私の脳内に駆け巡りました。
早速、その日の夜、一人、祐天寺の自宅に帰り、ピンと来た製法を試してみると、自分一人では全く辿り着けなかったであろう、香りやコクが今までのものと全く異なるコーラができました。それを飲んだ際、初めて「誰かに飲んでもらいたい」と思いました。
そして次の日、自分が作ったコーラを会社の同僚に飲んでもらいます。
すると、自分では想像していなかった返答をもらいます。
それは「いくらなら売ってくれるの?」という言葉でした。
人に飲んでもらいたいとは思っていたものの、それが売れる、とは思ってもみませんでした。
その瞬間、すぐに「このコーラをいろいろな人に届けたい、売ってみたい」という強い感情が生まれました。
そして、どうやったらこのコーラをすぐに一般に販売できるかを、学生時代にお世話になっていた、札幌で車屋とラーメン屋をしている「布施さん」に相談しました(前述の通り、大学は北海道の大学に通っていたため、札幌に知り合いがいました)。
布施さんと話したところ、当時はまだ私は会社員でしたので、「いきなり実店舗を出すというのは運営も出来ないし、リスクも大きい。だったら、フードトラックを作ってそこでコーラを売るのはどうか?」という提案をいただきました。
そして、「まさにそれだ!」というような感じで、フードトラックで販売をする決意をしました(なお、実は会社員時代にも青山ファーマーズマーケットを運営する「メディアサーフ」さんという会社と一緒になって、フードトラックのプロジェクトを進めていたのも、フードトラックを作る決意をしたきっかけになりました)。
そして、運命の歯車が大きく動き出したのは、5月25日。よく覚えています。私はその時、釣りで霞ヶ浦に行っていたのですが、布施さんからラインをもらいます。そのラインの内容は「ミラウォークスルーバン(狙っていた車の名前)が手頃な値段でカーオークションに出ているが、買うか?」とのこと。
中古車と言っても当時、若手サラリーマンの自分には大きな買い物。ここで買ったらもう引き返すことはできない、ただ、ここで買わなければタイミングを逃してしまうだろう、そんな気がして、「すぐに買ってください!」と布施さんに返信しました(ちなみにこの車が私の初めての愛車です)。
そこから間髪を入れず、6月の頭に、フードトラックや、商品全体のデザインの依頼を、デザイナーである「MOUNTAIN BOOK DESIGNの山本さん」にメールをしました(事務所名も好き)。
よく色々な方に、「デザインは広告代理店時代のつながりでお願いしたのか」と聞かれるのですが、実は全く違います。
代官山に、蔦屋書店というおしゃれな本屋があるのですが(当時一人暮らししていた祐天寺のアパートからまあまあ近いところにあった。頑張れば歩ける)、そこに行き、デザインの本を片っ端から読み、「素敵だなあ」と思ったデザインのデザイナーさんにお願いをしたわけなのですが、それが山本さんだったのです(ちなみに、その本はちゃんと購入してます。念のため)。
ただ、そのデザインの本なのですが、決して山本さんのデザインが大々的に出ていたわけではなく、取り上げられていたデザインのスペースはそこまで大きくありませんでした。今となっては山本さんに巡り合ったのは不思議なことだなあ、と思います。
※なお、山本さんは素晴らしいデザイナーさんで、本によっては大きく取り上げられているものの、たまたまその本では大きく取り上げられていなかったというだけですので、誤解なきよう、念のため。
※山本さんに出会っていなければ今の伊良コーラはなかったはずです。
そして、デザインにあたり、まずは「自分が作ったコーラの商品のカテゴリをどうしようか?」と悩み、その上で、「クラフトコーラ」と名づけることにしました。
ですが、実はクラフトコーラという単語自体は私が考えたわけではありません。
クラフトコーラという言葉を初めて知ったのは、「キャレブスコーラ」というコーラからです。キャレブスコーラはペプシコーラが出していたコーラで、日本には2018年に入ってきました。
そのキャレブスコーラを販売する際の一種のプロモーション用語として、クラフトコーラという言葉が使用されておりました。ただ、私はキャレブスコーラと、既存の大手が作るコーラとの違いを大きく見出せず、自分の中ではキャレブスコーラを形容するクラフトコーラという言葉にピンと来てはいませんでした。
一方で、自家製コーラという存在も存在自体は昔からありました。都内のインド料理屋さんや、代々木上原にある桉田餃子さんというお店で出されていたり、アメリカではもっと前から、一部の愛好家の方が「ホームメイドコーラ」としてレシピを公開していたりします(なお、自家製コーラの存在はフードトラックが完成し、伊良コーラが世に出る直前で知ったような気がします)。
そういった話の中で、自分が生み出したコーラは、スパイスや柑橘類などの天然の材料を混ぜ合わせて作ることと、2年半かけて試行錯誤をして生み出したという意味で、職人的なこだわりがあることから、自家製コーラという名称より、もっと適した呼び方があるのではないか、と考えていたところ、そこに「クラフトコーラ」という言葉がぴったりだ!と思いついたというわけです。
その当時、クラフトコーラという言葉を検索してもキャレブスコーラの記事しか出ませんでしたし、さらにはクラフトコーラ「専門」のお店やメーカーはなおさらのこと出ませんでした(もしかしたら広い世界ですから、キャレブスコーラの他にもクラフトコーラと銘打った商品はあったかもしれませんが、こと、「専門」店やメーカーについてはなかっただろうと断言できます※とはいえ「ない」ことの証明は、「ある」ことの証明より遥かに難しいのはご存知の通りで、何卒ご容赦ください)。
そんなこんなで、伊良コーラは「世界初」の「クラフトコーラ専門店/メーカー」と名乗り、活動を始めた次第です。
大事なことを忘れていました。「伊良コーラ」の語源も話さねばならないかもしれません。
当初、商品名を考えるとき、実は、「世界初」の「クラフトコーラ専門店/メーカー」というキャッチコピーが先に思いついていて、肝心の商品名は思いついていませんでした。
元々商品名の候補としては「GOOD COLA」や「小林コーラ」という候補を考えていました。しかし、何かしっくりこない。
そんな時、ふと「伊良コーラ」がいいのでは?と思い付いたのです。よくよく考えてみると、このコーラは祖父がいなければ誕生しなかったコーラです。まさに祖父からの贈り物のようなもので、祖父の漢方職人としてのクラフツマンシップと、自分のコーラ愛が融合して初めて誕生したもの。そこで「伊良」という屋号をお借りして、「伊良コーラ」を正式な名前としました(なお、ラベルに記載している創業昭和29年というのも、伊良コーラ自体の創業ではなく、祖父が興した伊良葯工の創業年です。伊良コーラは決して自分の力だけで新たに誕生させた、とは思っておらず、祖父や家族をはじめとする周りの方々のおかげで誕生したという思いも込めて、創業年も引き継いでおります)。
デザインは祖父がコレクションしていた、大正、昭和時代のマッチのラベルからインスピレーションを受け、デザイナーの山本さん、イラストレーターの大谷さんと一緒になって開発しました(なお、祖父の遺品整理の時に、マッチのラベルのスクラップブックが出てきたのはすごいタイミングだったなあと思っております。ちなみに山本さんや大谷さん(YUNOSUKEさん)は普段落ち着いている方だと思うのですが、当時のマッチラベルのデザインを見た際は大変興奮していらっしゃいました)。
ロゴのモチーフになっているカワセミは「コーラは作れない」という常識や既成概念に挑戦していくという伊良コーラの理念と、自らアウェーの世界である水中に挑戦していくカワセミの姿がマッチして、選びました。シンプルにカワセミが好きというのと、釣り人として、英語名「KING FISHER」に惹かれたというのももちろんあります。
そんなこんなで、これが伊良コーラ並びに「世界初の」クラフトコーラ専門店/メーカーの誕生秘話でした。
次回は出店してからの物語を書こうかなと思います。
引き続きよろしくお願いいたします。
(追記しました)
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