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余白
ひとには、それぞれ好みがあります。
今日書くのは、まったく個人的な好みの話になります。
文章でも、映像でも、絵画でも、音楽でも、いろいろな表現方法があります。
たくさんのクリエイターさん、アーティストさんがいらっしゃって、その分野で発信をしています。
『答え』を表現している方、まあまあな数、いらっしゃいます。
受け手が、『答え』を探しているとき、その表現は天から降りてきた蜘蛛の糸のように、もしくは雲の切れ目から差すひとすじの光のように感じられます。簡単に言うと、『刺さる』んですね。
『答え』を表現するひとが多いのは、それだけ『答え』を見出したいひとが大勢居るからです。
そういうひとたちは、「これが自分の感性にぴったりと嵌った完璧な『答え』だ」と感じ、心酔します。
悪いことではありません。
でも、『ほんとうの答え』は、外側には無い。
私は、実はこの『答え』が要らないタイプの人間です。
何故かと言うと、自分で辿り着けるし、導き出せるからです。
私が興味あるのは、『余白』です。
文章でも、音楽でも、映像でも、絵画でも、その他いろいろ表現はありますが、『余白』があると、目を惹かれる。
偶然出来たものでも、緻密に計算されて出来上がったものでも、いい。
そこに僅かな隙間があって、それを埋めない表現。
受け手であるこちらに、瞬時に考察させる。
意識もしないうちに脳内補完させてくれる『余白』があると、「上手いなぁ」と引き込まれます。
ひとによっては、それを物足りないとか、表現不足とか、感じるひともいらっしゃることでしょう。
私は、その表現のなかで泳いでいながら、気づくと、『余白』を埋める作業をしていて、自分が補完した表現がクリエイターさんと私の世界観のなかで手を繋ぎ合い、自由に飛び回って行くのを見るのが好きなのです。
世界は広くて深くて、可能性に満ちている。
私は子どもの頃から文章を読んで育ったから、初めは文章のなかの『余白』を見つけて楽しんでいました。(行間を読むこととは少し違います。)
同時にピアノを習い始めたことで、音楽のなかからも『余白』を見つけることに夢中になりました。ひとつの楽曲として成立しているんだけど、その彩りを見ながら『余白』を感じて、その『余白』こそが自分の表現の源であると解るようになりました。
作曲家さんは、『仕上げ』ながらも、こちらに、「お好きに読み取って」と『余白』を残してくれるのです。
一番わかりやすいのは、絵かな。
笹倉鉄平さん。
20代半ばくらいからずっと好きな画家さんなのですが、よかったら、観てみてください。
素晴らしく、脳みそ、五感を刺激してくれます。
そこに生まれる空気感、佇まい、残り香、我がもののように感じられる明かり。
自分が同質のものを宿していると気づかせ感じさせてくれる表現力。
春樹さんっぽく言うなら、「控えめに言って、すっごい素敵」。
私は、この『余白』を脳内補完する作業や時間のことを、『蒼い箱』と呼んでいます。
実際に立方体なわけではありません。便宜上そう呼んでいるだけです。
蒼い空間のなかに一瞬で光が広がって、『余白』を埋める欠片たちが蠢いて繋がり、結びつくのです。
ほんの数秒のこともあれば、数日かけて蒼のなかに身を浸すこともあります。
完璧って、隅から隅まで練り上げられたものじゃなくて、どこかに『余白』があるものなんじゃないかな、なんて思っています。
ひとも、そうだよね。
完璧なんて、いない。
『余白』こそが、そのひとを語るんじゃないかな。
読んでくださって、ありがとうございました。
また明日。
おやすみなさい。