2013年の作文・5月
2013.5.1
今夜東京は雨、水曜日、で「雨のウェンズデイ」なんで、大瀧詠一を聴くのがぼくの習わしではあるのだけれど、くるりの「ばらの花」にした。実は早朝も雨で、ああ今日も雨の水曜日かあと思っていたのだが、午前は曇り、そして夕方ぱらついて、夜冷たい雨が降ってきた。歌詞の出だし「雨降りの朝で今日も会えないや」と、岸田くんの世界観が一気に飛び込んでくる。実によく耳にのこるピコピコ音とギター。ベースもドラムも、そしてコーラスも、ずっとローテーション。なんかいいな。ジンジャーエールの味。「安心なぼくらは旅に出ようぜ」の意味のとり方がずっと不思議で、「安心な」が「ぼくら」にかかるのか、それとも「旅」にかかるのか、どっちなの? と作者に会ったら訊いてみたいと思っているが、どっちでもいいのだと答えが返ってくるだろうな。これが「ぼくらは安心な旅に出ようぜ」だったら、きっとこの歌全体が壊れてしまう。「だけどこんなに胸が痛むのは 何の花に例えられましょう」という問いに、それは「愛のばら」しかないと言ってしまったら、それまでで、ぼくはあえて「あじさい」なんかがいいのではと思ったりする。そこで萩原朔太郎。「こころをばなににたとへん こころはあぢさゐの花」という純情小曲集の「こころ」に思いが至る。ぼくはこの「こころ」が大好きで、この詩のムードをもった作品に出会うと、どうも反応してしまう。それで、感じることだが、くるりの「ばらの花」は、「こころ」の現代版なのではないかと邪推したりして……。なんと云っても、「ばらの花」の二人は、「お互い弱虫すぎて踏み込めないまま朝を迎える」のだ。「こころは二人の旅びと されど道づれのたえて物言ふことなければ わがこころはいつもかくさびしきなり」と結ばれるのは朔太郎の「こころ」である。すれちがいの寂しさ、切なさ、それであるがゆえの純粋が、両者には共通しているのである。朔太郎が中央詩壇にはじめて登場したのが、1913年(大正2年)、北原白秋の雑誌『朱欒』5月号に六篇の詩を掲載。そのなかにこの「こころ」が入っている。つまり、この5月で「こころ」発表100周年なのである。
2013.5.2
今は亡き今村教授の講義を受けているつもりで『マルクス入門』を読んでみよう。
≪マルクスのギリシア精神からいえば、万人が「必然的・拘束的」労働を実行するという考えはまさに近代ブルジョワ的イデオロギーであり、ギリシア人がかつていったように「奴隷的労働の共同体」になってしまう。二十世紀の「共産主義」思想はマルクスに関する壮大な誤解に基づいていた。労働共同体的共産主義は万人を奴隷にする共同体である(ソ連の収容所社会にそれは実現してしまった)。ロシア人や東アジア人はついにマルクスのギリシア精神を共有することができなかったのである。≫(今村仁司『マルクス入門』ちくま新書、71頁より)
マルクスは奴隷のように働かされている人々をその労働から解放したいと望んでいた。そのための理論武装に彼は生涯を費やした。ところがマルクスを応用したマルクス主義者たちが実際に作った国で、人々はまたもや奴隷のように働かねばならなかった。そしてその矛盾に気が付いた国では再び民主化が成された。しかしさらに労働は人々を苦しめている。その苦しみは大きく二つに分かれる。ひとつは自由な時間が仕事の犠牲になっているという苦しみであり、もうひとつがその労働にさえありつけないという機会の喪失という苦しみである。いったいいつになったら人類は労働から解放されるのか。
2013.5.3
《マルクス主義は世界観である。従って、マルクス主義を受け入れるためには無神論も受け入れなくてはならない。このドグマは労農派、講座派、毛沢東派、更に反スターリン主義を掲げる新左翼においても当然の前提とされていた。私は浦和高校時代に労農派マルクス主義に本格的に出会ったが、無神論だけはどうしても受け入れることができなかった。人間はいちばんはじめに触れた世界観型の思想から抜け出すことができない。私の場合、それがキリスト教徒である母を通じて触れたカルバン派のプロテスタンティズムだった。》(佐藤優『私のマルクス』文春文庫、206頁より)
家の宗教の問題を意識することは普段の生活ではほとんどないかもしれない。ぼくの周りの友人に聞いても、家が神道なのか仏教なのか、仏教なら念仏なのか日蓮宗なのか、禅なのか真言宗なのか、宗派まではっきり言える人はほとんどいない。ただし創価学会の家に生まれた人とキリスト教の家に生まれた人は、少し違った感覚にあるようだ。日本は、大ざっぱにくくれば多神教の部類に属するだろう。そのなかにあって、一神教を選ぶことは、感覚的にも、国家と対立する関係にある。協調性が最重要視される文化のなかで、絶対の原理を振りかざすことは、どうかわたしを仲間はずれにして下さいと名乗りを上げているに等しい。それは、無神論を標榜するマルクス主義においても同様であろう。佐藤さんがキリスト教からマルクス主義へと思想遍歴していく過程は、おそらく生来の「反権力」もしくか「反国家」の性質から必然的に出て来たものなのではないだろうか。
《子供の頃から日曜学校(教会学校)を通じて「人間はただ神の栄光のために生きるのだ」、「天国には神様のノートがあり、生まれる前から、救われる人の名前はきちんと書いてある。そのことを信じて正しい生活をするのだ」というドクトリンを私は徹底的に叩き込まれていた。この刷り込みを消去し、無神論を受け入れるためには、相当高度な知的操作が必要と感じた。そこでフォイエルバッハやマルクスの無神論を徹底的に学びたいと思って同志社大学神学部の扉を叩いた。扉を開いて私は無神論を学ぼうとしたが、過去二千年近くにわたって集積された神学の知的遺産の前に、所詮、近代主義の枠を出ていないフォイエルバッハの無神論はあっという間に砕け散ってしまった。》(同、206頁より)
ぼくは今フォイエルバッハを読み直している。ぼくは大学で、佐藤さんとは逆に、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの絶対神を信仰する人に、どのようにして多神教的な世界観を受け入れてもらえるのかを考えていた。そのための理論をマルクスやニーチェの思想から学ぼうとして、現代思想の研究をはじめた。幸いにも、ぼくの通った大学には現代思想を精力的に解説してくれる教授が何人もいた。学生のサークルにもそのような思想系の集まりがいくつもあった。その影響のもとで、ぼくは哲学に没頭することができた。そして、今もその研鑽は続いている。
《私はキリスト教の洗礼を受けた。しかし、マルクス主義を捨て去ってしまうこともできなかった。そこで、キリスト教神学とマルクス主義の間の整合性についてあえて思考を停止し、両者を並行して学ぶことにした。いつか時が来れば、答えが自ずから出ると考えたのだ。》(同、206頁より)
佐藤さんは潔い。
2013.5.4
ぼくの机の上には二つの事典がある。ひとつは、『現代哲学事典』(講談社現代新書)で編者は山崎正一+市川浩である。そしてもうひとつは、『現代思想を読む事典』(講談社現代新書)で編者は今村仁司である。ぼくは哲学用語で理解できていない言葉に出くわすたびに、このふたつの事典を交互に引いて、理解を深める努力をしている。しかし、日常の言葉を『辞典』で調べるのとはわけが違って、専門用語の説明はすでにひとつの立場からのある解釈であるため、それをそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。それに、その解説がまたより複雑で、かえって理解が遠のく場合も少なくないのだ。きょうぼくが調べたのは〈物象化〉ということばだ。まず、『現代思想を読む事典』から引用する。
《もともとはマルクスの『資本論』における商品の物神性の分析に端を発して出て来た概念で、物化という言葉とほぼ区別なく使われる。マルクスによれば、商品形態の秘密は、それが労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格(価値)として投映し、したがってまた生産の総労働に対する社会的関係を、外在的な対象物どうしの社会的関係として投映することにあるとされるが、要するに、この人間どうしの一定の社会的関係が一見、物と物との関係であるかのようにみえる事態、すなわち物神性(フェティシスムス)が物象化概念の核心をなすのである。(後略)》(526頁)
出ました〈物神性〉! 〈物象化〉が知りたくて調べたら、また知らない言葉が出てくるというパターンである。それで次に〈物神性〉を調べるはめになる。
《物神崇拝または呪物崇拝(フェティシズム)から由来した言葉。人がある物を物神崇拝するとき、その物は物神的性格=物神性を持つという。(後略)》(529頁)
なんだよ次は〈物神崇拝〉! 今度は『現代哲学事典』の方で〈物神崇拝〉を調べてみる。
《原始宗教においては、諸々の事物の中に超自然的・神的な力が存在すると信じ、それらの事物を神の如くに敬った。これを物神崇拝と言う。マルクスは、これを資本主義社会の本質的特徴を表現するために用いた。資本主義社会は、あらゆるものを量化し、対象化し、物化する。たとえば、人間の労働は商品として対象化され、相互に交換される。諸々の商品の価値は貨幣によって量化される。資本主義社会は文字通り「金が物を言う」社会である。人々は貨幣という物に振り回され、ほんろうされる。次から次へと新たな装いをこらして市場に出される商品は、各人の新たな物質的欲求をひき起こし、各人の生活を規定する。人々はその豪華な商品=物(カー、クーラー等々)を神の如くに大切に扱い、人間そのものよりも、それらの事物を中心にして彼らの生活設計を行なう。例えば、自動車があるからドライヴに行こう、などと。現代は物神崇拝の時代である。》(533頁)
はたしてぼくは、〈物象化〉ということばを理解できたのであろうか。どうも、この先もまだこの言葉を上手に使いこなすことができそうにない。
2013.5.5
ジェルジ・ルカーチの『歴史と階級意識─マルクス主義弁証法の研究─』を読み始めた。喫茶店にこもって必死に読解しようと試みたが歯が立たない。一ページ読むごとに眠くなる。仮眠して、コーヒーがぶ飲みして、また一ページ……。まるで大学生のようにひたすら読むことにこだわって。ああこんなんだったら、現役生の頃にもっと今村教授から教わっておけばよかったと云ってもあとの祭りだ。あとならあとで、あとの祭りでもいいじゃないかと開き直って、今村仁司『マルクス入門』の解説に頼ろう。
《レーニンではなくローザから決定的影響を受けた初期ルカーチは、ローザの思想を哲学的に徹底させた。ローザの大衆自発性論は哲学的には実践的主体性論へと展開する。実践的主体性論は、マルクスの弁証法思想を復活させる。こうしてルカーチは、経済決定論へと歪曲されたマルクスの思想を、実践的弁証法として復権させることに成功した(ルカーチ『歴史と階級意識』1923年刊。邦訳は白水社刊)。》(34頁)
「実践的」とか「主体性」という言葉を聞くとなんだかわくわくしてくる。なんだかそれだけでルカーチすげえとなってしまう。その延長には、サルトルの実存主義が控えているような期待さえ感じられる。今村教授、それでどうなります?
《ルカーチの実践的主体性論はいくつかの要素から成り立つ。/第一の要素──大衆(プロレタリアート)の主体性または自覚した階級意識。/観察者から見て経済的階級としてのプロレタリアートが実在すると確認するだけでは変革に向かう実践は生まれない。労働者たちが自分をひとつの独自な階級のメンバーであると自覚する、またはそのような自己の存在を認識すること、ヘーゲル用語でいえば労働者が「即自的」階級から「対自的」階級に上昇することが社会を変革するときの基本的前提である。たんに実在する経済階級としての労働者集団は、現存の社会体制を容認するからである。まずは労働者自身が自己変革をなしとげなくてはならない。ここからルカーチの階級意識論の哲学的展開が登場する。実践的主体性論と命名される理由がそこにある。》(35頁)
今村教授、ありがとうございます。ここまで来ると、俄然、読み進めたくなってくる。まず、自分自身が大衆の一人であるという自覚に立つことが必要だ。宗教を持っている人間なら「じぶんは使命をおびた人間なのだ」と自覚すること、政治的な人間なら「世直しができるのは俺だ」と宣言すること、恋愛に夢中なら「恋人を幸せにできるのは僕だけだ」と思い込むこと、教育者なら「子どもの学力を伸ばすのは私の腕次第だ」と信じること、そういう主体性に目覚めることだと思えばなんとか読めるのではないか。あとは言葉の定義の問題だけだ。
2013.5.6
◆むこうの月 2013.5.6◆
空のむこうに永遠がある
永遠の上に今がある
今の中に僕はいる
おいおい
そんな簡単に「永遠」なんて言葉つかっちゃっていいのかい
抽象的なものよりも
具体的なもので言い表せないのか
空き地
のむこう
に月
がある
午前三時
の月
がある
触れたら指が切れそうなくらい
鋭く
尖った
月
がある
おっとそうきたかい
月をみるのは普遍性があるけれど
それで永遠が詠めたのかい
坂
のむこう
に雲
がある
午前六時
の雲
がある
話しかけたら叱られそうなくらい
機嫌
の悪い
雲
がある
連にする方法ねえ
じゃあもっと作らないと
すくなくとも二十四連くらい
明日
のむこう
に今日
がある
いつも
と変わらぬ
今日
がある
ニヒリズムも退屈して逃げて行ってしまうような
永遠回帰
の今日
がある
また抽象だ!
2013.5.7
きのう、ぼくは親友のKくんと品川駅のなかにあるバーで語り合った。ぼくはコーヒーを床にこぼしてしまった。それからしばらくしてこんどはジンライムをテーブルにこぼしてしまった。二度もコップを倒すというのは何の因縁なのか。話のテーマは、弁証法についてだった。ぼくはヘーゲルの弁証法の説明をKくんにしていた。漢字で表わせば、正、反、合という進展による変化であり、ドイツ語では、テーゼ、アンチ・テーゼ、ジン・テーゼとなる。ぼくは、マルクスについて研究中でその成果を一つの詩にしたことを解説した。〈空のむこうに永遠がある 永遠の上に今がある 今の中に僕はいる〉という抽象的な詩句を否定する形で、〈空き地のむこうに月
がある 午前三時の月がある 触れたら指が切れそうなくらい鋭く尖った月がある〉という詩句を導入した。これはぼくがきのうの早朝に実際に観た風景だ。それは抽象論ではなく、具体的なものに即して観るというアンチ・テーゼである。そして、それに留まることなく、ぼくは次のような表現を試みた。〈明日のむこうに今日がある いつもと変わらぬ今日がある ニヒリズムも退屈して逃げて行ってしまうような永遠回帰の今日がある〉と。これがジン・テーゼだ。きのうぼくが発表した「むこうの月」という作品は、弁証法というものを詩のかたちで表現したらこうなるのではないかという一つの意欲的な実験作品なのだ。そう、自慢げにぼくはKくんに語った。Kくんはそれを俺の恋愛に適応するとどうなるのかと聞いてきた。それでぼくは、初恋、失恋、今の恋という弁証法だと答えた。Kくんは、お店でコーヒーをこぼすのがアンチ・テーゼで、ジンライムをこぼすのがジン・テーゼなのかと皮肉を言って笑った。ぼくにとって、哲学は現実から遠く離れていくこと、現実の煩わしさから解き放たれて、観念のなかで遊ぶことだ。それが現実というテーゼに対するアンチ・テーゼである。しかし、それでは何も変えることができない。そこでぼくは詩を書く。詩を書くことは観念のなかの言葉をじぶんの意志の支配下におくことでもある。ことばをコントロールし、ぼくの意志に屈服させること、それが詩作なのだ。こうして、ぼくは哲学を否定することでジン・テーゼとしての詩を生み出すのである。
2013.5.8
心にぽっかりと穴があいてしまった、という表現があるが、どうしてぽっかりなのだろう。どっさりではダメなのはどうしてか。心にどっさりと穴があいたらちょっとたいへんだ。ばっさりはどうか。ばっさりは切られる感じ。さっぱりだと風呂あがり。ぴったりはくっついている。しっかりは確実な様。どれもイメージが確立している。日本語のコードに乗っているかぎり、それぞれに使い方がちゃんと決まっているので、そこから外れた使い方はどうしても排除される。いつだれがはじめてどうして流通したのか? 調べても答えは見つかりそうもない。たまには擬態語なしで話してみる日を作ってもいい。そうすれば、ぼくらが日常いかにそれに頼っているかが少し分かるだろう。さあさあ、ゆっくりしていってくださいな。いやあ、すっかりあたたかくなりましたねえ。うっかりしまして、どうぞこちらを。まあ、そんなにどっさりお土産を? しっとりとしたやわらかいのがいいかなあと。わざわざすみません、てっきりお忘れなのかと思いましたわ。あんなにぐったりしていらしたのがうそみたい。ええ、ずいぶんげっそりしましたがかえってすっきりしました。ところでお嬢さん、びっくりするくらい大きくなられて。どっしりしているだけですの。幼い頃はどちらかというとすらりとした感じでしたが。ええ、がっかりなさったでしょ。いえ、思ったとおり、ぴったりのものを用意してきましたので。どれが副詞で、どれが擬態語かの厳密な区別はぼくにはできないが、きょうは語尾が「り」のことばを中心に考えてみた。「~っ~り」という擬態語もしくは副詞がぼくの頭の中にどれくらいあるのか引き出してみる。あっさり。うっかり。うっとり。おっとり。かっちり。きっかり。きっちり。ぎっしり。くっきり。ぐっすり。ぐったり。げっそり。こっそり。ごっそり。さっぱり。しっかり。しっくり。しっとり。すっかり。すっきり。そっくり。たっぷり。てっきり。どっさり。どっしり。にっこり。ねっとり。はっきり。ぱっくり。ばったり。ぴったり。びっくり。ぷっくり。べったり。べっとり。ほっこり。ぽっかり。まったり。みっちり。むっつり。めっきり。もっこり。ゆっくり。いまのところこんなところかな。他にもあるだろうけれど思い出すのに時間がかかるので、いずれまたじっくりと。
2013.5.9
萩原朔太郎が中央詩壇にはじめて登場したのが1913年(大正2年)の5月、つまり今年が詩人としてのデビュー100周年であると、5月1日の記事で書いた。北原白秋の雑誌『朱欒』5月号に掲載された六篇のうちの一つを紹介したい。
◇旅上 萩原朔太郎◇
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
「りょじょう」と打って変換すると、「旅情」という漢字はでるけれど、「旅上」というのはでない。造語であろう。ぼくはこの気分を共有するために、今夜は背広を着て山の手線に乗り、舞台を観にいこうと思う。野田秀樹×三谷幸喜の「おのれナポレオン」だ。ずっと楽しみにしていた舞台で、今夜全国にライブビューイングされる。フランスへはいけないけれど舞台上でフランスを味わうことができるはず。わくわく、そわそわ、してきたよ。
2013.5.10
1828年に出版されたフォイエルバッハのドクター論文『一にして普遍にして無限な理性について』の内容が面白かったので、きのう友人のAさんと語り合ったときに少し説明してみた。ぼくがこれまで「理性」という言葉でイメージしてきたのは、各個人の頭のなかにある常識的な判断をつかさどる部分で、本能や欲望に振りまわされずに人間が行動できるようにしてくれるリミッターのような役割であった。たとえば、どんなに気温が高くても素っ裸で電車には乗らない。乗りたくても乗らない。脱ぎたくても脱がない。理性があれば、願望をそのままにしてはおかない。となりに座っている女性がどんなに美人でも、他人であれば手を握らない。握りたくなる気持ちがわいてきても握ってはいけない。キスしたくなってもしない。だから理性のおかげで、社会的な制裁を受けずに済む。こういう類いの「理性」は、どうも個人に備わった能力の一種だ。ではフォイエルバッハは理性をどう捉えたのか、文献を引用しよう。
《この論文は、表題からも分かるように、理性はもともと一つであり、しかもその理性が普遍的であり無限であることを論証したものである。フォイエルバッハによると、現在流行している通俗哲学は、人間の理性には一定の限界があって、どんなに健全な精神の持主であっても、この限界をこえることはできない、と主張する。人間の理性が有限である限り、真理もまた理性によっては、つまり人間の思考によっては、捉えることができない。》(宇都宮芳明『フォイエルバッハ■人と思想70』清水書院、41頁より)
各個人に具わる理性には、確かに限界がある。ぼくらは理性的判断を裏切りながら、ついつい欲望に負けてしまう。そしてそれを正当化するのに様々な材料を用意している。特に文学は、ぼくらの欲望にとって強い味方である。堕落も、頽廃も、不倫も、悪徳も、みんな文学のなかで大活躍している。それを知的に武装すれば、鬼に金棒だ。
《通俗哲学者たちは、なぜ理性を有限と見るのだろうか。それはかれらが、「理性」ということで、人間に普遍的な理性をではなく、ひとりひとりの人間にそなわる個別的で特殊な思考能力を考えるからである。だが理性は、耳が音をきく器官であり、眼がものを見る器官であるように、個人がなにかを(概念的に)把握するためにそなえている器官や道具といったものではない。一にして無限な理性は、個々の人間をこえて存在する。個々の人間は、実はこの超個人的な一なる理性に与ることによって、はじめて思考できるのである。》(同、41頁から42頁)
おうおう、ずいぶん「理性」が立派になりましたなあ。ぼくはこの大きな「理性」を想定する発想がとてもおもしろいと思ったのだ。無意識のなかに個人を超える集合的無意識のようなものがあると考えたユングの考えも参照できる。宇宙に理性は一つしかない。そうAさんに話すと、「じゃあそれは神のようなもの?」と訊いてきたので、ぼくは分からないと答えた。その後、フォイエルバッハが無神論の方向へ進んでいくことを考え合わせると、この「理性」観がとても重要な鍵を握っているように思われる。仏教のマナ識にも通じる議論である。ルーク・スカイウォーカーがジェダイの騎士として体得する理力(フォース)のようなものを、19世紀のフォイエルバッハが想定していたとすれば、話はさらに大きく膨らんでいくだろう。
2013.5.11
フォイエルバッハの人となりに少し触れておこう。彼は、1830年『死と不死にかんする思想──ある思索家の草稿から』という書物を匿名で出版する。そのなかに付録として350篇ほどの箴言詩をのせた。その内容がキリスト教の神学者や聖職者を風刺するものであったために、大学講師の座から追われ、生涯公の職につくことができなくなってしまう。在野の思想家としてキルケゴールやニーチェと同じような道を歩むこととなるが、フォイエルバッハにはそのあと幸せな結婚生活が待っていた。
《1837年11月12日、二人はブルックベルクの館で結婚式を挙げた。結婚とともに、フォイエルバッハは、このブルックベルクの館の正式な住人となった。都会での生活を捨てたかれは、豊かな自然に取り巻かれた田園での生活を、こののち20年以上にわたって続けることになる。》(宇都宮芳明『フォイエルバッハ■人と思想70』清水書院、61頁より)
お相手はベルタ=レーヴという母性的で美しい女性だ。おまけに経済的にとても恵まれた環境にある人だった。フォイエルバッハが詩作生活を続けられたのは、ひとえにこの結婚のおかげであったろう。羨ましいぞ、フォイエルバッハ!
《フォイエルバッハの一日は、早朝にはじまった。かれは自分で部屋を整理し、自分でストーヴに火を入れた。書斎はいつもきちんと整えられており、清浄の気がすみずみまでみなぎっていた。天才的な人間が往々にして示す生活の乱雑さは、フォイエルバッハには無縁であった。服装も清楚で、ぴったり身体に合った猟服のような短い上衣は、山の番人を想わせるものがあった。ドイツの学者たちが好んだスリッパにガウンといっただらしないスタイルを、フォイエルバッハはひどく忌み嫌った。一日中長靴をはき、時には頭に家庭用の縁なし帽をのせていた。自分の家族の者をできるだけ私用のために使わないように気を配り、また時間をきちんと守って、人を待たせるということは決してしなかった。》(同、62頁より)
好感がもてる人だ。タイムマシーンがあったら、是非いちど訪ねてみたいものだ。その他にも、草花を愛し、鉱物の採集もするという自然の愛好家の側面があり、気さくで、偉ぶらないから村人たちからも人気があった。そして気象予報などをして農夫たちにアドバイスをしたり、天文学を教えたりしている。ここまで来ると、宮沢賢治を想起させる。工場の仕事を終えた人々が食堂でビールをのんでいると彼らの話に耳を傾け、旅回りの楽師たちが居酒屋で演奏会を開けば家族で出かけていく音楽好きでもあった。うん。やっぱり宮沢賢治だね。そんな幸せな日々を過ごしているフォイエルバッハがどんどん思索を深め、そして著作を発表していく。そう思えば、なんだか難解な書物も、素直に読めそうな気がしてくる。
2013.5.12
インターネットのなかに蓄積された膨大な情報、ぼくらは各自の手元にある機器を利用してそこに接続し、じぶんの好みに応じて、文章や画像、動画を見る。また逆に、じぶんが作った文章や画像をアップロードして、その情報のなかに加えることもできる。地球上では、日々その営みがたんたんと続けられている。これをモデルに、宇宙そのものが人類の歴史を記録するインターネットだと考えてみる。そこには、かつてこの世界に生きて文化的遺産をのこした全ての人々の行動と言葉がアップロードされている。現在生きているぼくらは、その無限の情報の中から、適時、じぶんの生活に役立つものをダウンロードして利用する。これを、宗教に翻訳すれば、神と人の関係になるだろう。
《神の本質はまず知性であって、しかもそれは無限の知性である。神は全知である。だがこれはまさに人間の類的本質である理性の規定にほかならない。フォイエルバッハはすでにドクター論文で、人間の類的本質としての理性が一にして普遍で無限なものであることを示していた。個々の人間の思考能力は有限であるが、類としての理性は無限である。つまり人間が神のうちで肯定し、対象化する「無限の知性」は、人間の類的本質としての「無限の知性」なのである。「もし君が神は制限されていると考えるなら、その時は君の知性が制限されているのであり、君が神を制限されていないと考えるなら、その時は君の知性もまた制限されていないのである。……それゆえ、君は、この(神という)無制限な存在をもっとも本質的で最高の存在であると言明することによって、実は(人間の)知性が最高の存在であり最高の本質であるということ以外のなにも語ってはいないのである。」》(宇都宮芳明『フォイエルバッハ■人と思想70』清水書院、92頁より)
神学の問題をとことん人間に引き寄せて考え抜こうとするフォイエルバッハの試みに、ぼくは甚く共感するものである。
2013.5.13
先日、高校時代の仲間と数名で新橋の居酒屋でおしゃべりした。もっとたくさん来る筈だったのだが、なんだかんだみんな都合が悪くなって、「行けない」「やめておく」「すまん」のメールが連続で、クラス会とまではいかない集いとなった。でも、少人数には少人数なりのメリットもある。ひとりひとりの話をじっくり聴くことができるし、話題も一つに絞ることができるので、耳が疲れない。ぼくはこういう時は決まって聞き役に徹する。普段はおしゃべりなのに、自然とおとなしくなる。人の話には知らない人がたくさん登場してくる。そして、その登場人物たちにはキャラクターがある。話し手は、職場や趣味の場やPTAなどの人間関係について語るのだが、それは各自のフィルターを通した世界だ。好き嫌いも話し手の価値観で決まっている。ぼくは、話し手の目をじっと見つめる。相手は、笑顔になったり真剣な眼差しを向けてきたり、話と共に色々変化する。ぼくは考える。この人とぼくはどんな縁でこの場を共有しているのだろう。いったいこの人は誰なのだろう。なぜ一生懸命に、この話をぼくにしているのだろう。ぼくはこの話から何を汲み取ればいいのだろう。そう思いつつも、相手の話のこしを折らないように、細心の注意を払ってぼくは相槌をうつ。「あるよねえ」「ないよねえ」「まじか」「うそだろ」。話と話のあいだには、意味があるのかないのかわからないようなコメントをポツポツと挟み込んでいく。ここでは、何も決めない。何かを決定したり、計画したり、実現したりするものは何もないのだ。話して、笑って、飲んで、聴いて、また話して、そういうロールプレイ自体が目的なのだ。ぼくたちは時間が来れば、もとの日常へ帰っていく。それぞれの家庭とそれぞれの仕事とそれぞれの人生のなかに戻っていく。事件はなにも起きない。
◇夕暮れ 黒田三郎◇
夕暮れの町で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを
夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに坐る
彼の目が
この世の誰とも交らないところに
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間
夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音のなかで
半身になって立つ
彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間
人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき
自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
仮の場所を見つけ出す
2013.5.14
大学というところは、一見なんの役にも立たないような議論を指導教官と学生がああでもないこうでもないと語り合う場所であったりする。ぼくも4年生の時のゼミは三木清という哲学者の本を丹念に読み込んでいくものだった。卒論のテーマは、言語行為と道徳である。三年間で卒業単位を取得していたので、最後の一年は思いっきり読書に当てることができた。あんなに図書室にこもって本を読んだという経験は後にも先にもその一年間しかない。幸福な青春の一ページである。佐藤優『私のマルクス』を読んでいると、その頃を思い返すことのできる箇所がたくさん出てくる。一種のノスタルジイだ。
《藤代泰三先生の演習で、滝田君が初期ヘーゲルにおいて、キリスト教と哲学を総合しようとする試みは結局成功しなかったというかなり説得力のある発表をした。藤代先生は滝田君の発表自体は肯定的に評価したが、その後、こんなことを言った。/「ヘーゲルには気をつけなさい。弁証法という考え方には危険が潜んでいます。特に弁証法を精神の運動だけに限定して適用している内は大きな問題はないのですが、これを社会に適用すると大きな悲劇を生み出します」/滝田君が「藤代先生は、ソ連や東欧の社会主義国のことをいっているのですか」と尋ねた。/「滝田君、社会主義国だけじゃありません。日本でもそうです。昔、京都大学に田邊元という哲学者がいたことを皆さんは知っていますか」/「名前だけは知っています。西田幾多郎と並ぶ京都学派の代表的哲学者ですよね」/「そうそう。この田邊さんが戦争が始まる直前に『歴史的現実』という本を出します。個々人の生命は有限だが、悠久の大義に殉ずるならば、個々人の生命は永遠に生きることになると説きました。見事な弁証法の適用です。戦時中の大ベストセラーになりました」/私が「要するに国のために死ね」ということですねと茶々を入れた。/「そうそう。佐藤君の言うとおりです。そして、学徒出陣で出征した兵士たちは『歴史的現実』をポケットに入れて、何度も読み返し、死に備えたのです。この田邊さんは、戦後、『よく考えてみたら、私は間違っていた。日本には懺悔という素晴らしい伝統がある』といって、今度は『懺悔道としての哲学』という本を書いて、これも大ベストセラーになりました。田邊元は弁証法を実に巧みに使いました。しかし、物事はそう簡単に総合されないものです。カントの『純粋理性批判』をきちんと読んだ後にヘーゲルと取り組むことを勧めます。カントを抜きにしたヘーゲルは危険です」/『懺悔道としての哲学』は戦後の時局に迎合したものではなく、戦時中から田邊元が書き進めていたものなので、藤代先生の説明には少し単純化されたところがある。しかし、田邊元の『懺悔道としての哲学』にはそのような受け止めをなされても仕方がない要素がある。少なくとも田邊元は『歴史的現実』が現実の歴史、特に若き日本の知識人に与えた影響について、公共圏できちんと整理する責任があった。しかし、田邊元はその責任を果たさなかった。ことばに対する責任回避の道具として弁証法ほど便利なものはない。》(佐藤優『私のマルクス』文春文庫、208頁から209頁より)
引用が長くなってしまったが、とても示唆に富んだ重要な部分だと思ったので、あえて一気に打ち込んでみた。ぼくは今、ヘーゲル左派に興味を持っていて、フォイエルバッハや初期のマルクスを読んでいる。弁証法を自然や社会に適用しようと企んでいた若者たちだ。もし、ダイレクトに影響を受けていたら、ぼくも危険な道を突き進んでしまったかも知れない。大学時代の左翼運動に汗を流す青年たちのことを思っている。彼らは今、元気でいるだろうか。弁証法だけがなにも危険なのではない。ぼくらの周囲に個人よりも集団を重視する思想がある限り、その危険はいつもぼくらを脅かしているはずだ。組織の下の個人、団体の利害のもとでの自分、国家の一員としての私、自由であるよりも没我の心地良さを選んでしまう心理、その誘惑に負けてしまうことの方が多いのではないか。政治団体もそうだ。宗教団体もそうだ。個人の自由が著しく制限されるような環境にじぶんから身を置いてしまう人に、ぼくの提案は届くだろうか。カントを読まなくてはならない。ぼくもそう思う。
2013.5.15
沖縄のことを考えていた。琉球王国と呼ばれていた時代から考えると、日本人の一人としてとても複雑な気持ちだ。たとえば、じぶんのルーツがヤマトゥンチュであるとして、1609年に琉球は薩摩の侵攻によって植民地とされたわけだから、ぼくは琉球に対して加害意識をもつことになる。しかし、日本がアメリカと戦争した時のことを考えると、こんどは同じ国の人間として被害意識にたつことになる。人口約59万人のうち四人に一人が戦争の犠牲となって命を落とした沖縄。あるデータによると一ヶ月で680万発の砲弾が撃ち込まれたという。爆撃で地形が変わってしまった。そして、戦後はアメリカの統治下に。1972年5月15日に沖縄は日本に復帰。それが復帰と呼ばれることの意味も、ぼくにはまだよく分からない。果たして、ぼくは沖縄に対してどんな償いができたのだろう。
◇不沈母艦沖縄 山之口貘◇
守礼の門のない沖縄
崇元寺のない沖縄
がじまるの木のない沖縄
梯梧の花の咲かない沖縄
那覇の港に山原船のない沖縄
在京三〇年のぼくのなかの沖縄とは
まるで違った沖縄だという
それでも沖縄からの人だときけば
守礼の門はどうなったかとたずね
崇元寺はどうなのかとたずね
がじまるや梯梧についてたずねたのだ
まもなく戦禍の惨劇から立ち上り
傷だらけの肉体を引きずって
どうやら沖縄が生きのびたところは
不沈母艦沖縄だ
いま八〇万のみじめな生命達が
甲板の片隅に追いつめられていて
鉄やコンクリートの上では
米を作るてだてもなく
死を与えろと叫んでいるのだ
2013.5.16
ブログを毎日更新することを目標にして、毎日原稿を書いてきた。原稿を書くために読書をし、思索を重ねて来た。そろそろ何か考えをまとめてみようと思ったのだが、思考というのはいつも断片的で、いろんな方向に興味が散乱しているため、それを総合しようとすると何か無理が生じてくる。おそらくぜんぜん考えていることとは違う結論に到達して、じぶんでは全く納得のいかないことになるような気がする。マルクスの思想をじぶんなりに掴んでおこうと思い、『経済学哲学草稿』から読み出したが、そこにはヘーゲルの哲学を批判するというスタンスがあって、その先行機としてのフォイエルバッハが存在している。また、マルクスを唯物史観の線で捕らえるグループのほかに、ローザルクセンブルグのように主体性を重視するグループもあり、また、それらとは全く異なった読み方の可能性をひらこうとする人々も存在する。ぼくは大学時代に今村仁司教授の講義を受け、彼の著作を少なからず読んできたが、ルカーチやアルチュセールについて、まだまだ学びきれていない部分が残っている。ではそもそもマルクスに対する興味はどこから来たのかと言えば、それは無神論について知りたかったからだ。神がいるのかいないのかをじぶんで納得できるまで考えたかった。宗教には人並み以上に関心がある。宇宙の果てを見てみたい。世界の限界を知りたい。思考はどこまでいけるのか。だから読みたい本が無数にある。できれば図書館に所蔵されている本は全部読んでみたい。真理が書き記されているものには全部目を通しておきたい。ファウスト博士のような欲望に突き動かされている。しかし、どんなに知識が増えても、根本的に何も解決しない。人生の意味は全く見えてこない。それどころか、手段がいつの間にか目的にすりかわり、本を読むことそれ自体が目的になってしまい。読書のために一生懸命じかんをやりくりして、暇があったら本を開く癖がついてしまった。こうなるともはや知識の奴隷である。現実の何かを変革することに興味がわかなくなり、空想にふけるじかんが確保できれば満足してしまうじぶんがいる。ヘーゲルに学んだ青年たちは、そこに不満があった。観念論では何も変わらない。変わらないことには意味がない。だから実践を促す思想に傾いていく。行動こそが全てだ、と。それも分かる。分かるけれど、それがどうした。それにどんな意味があるのか。また観念で否定してみる。堂々巡りである。中島みゆきの「時代」が歌いたくなる。歌いたければ歌えばいい。そこにも行動と自由はある。しかしそれがほんとうに自由な意志なのか。人間は小さい。それでも、人間ほど大きな世界を考えることができる生命体はない。それを創ったのは誰なのか。神なのか。自然なのか。自動なのか。意図的なのか。作為なのか。行き詰ったら散歩に出ればいい。少し走れば、セロトニンが放出されてくる。脳はリラックスして、もっと普通のことに目が向くようになる。腹が減ることも大切だ。眠たくなることも重要だ。人に会いたくなるのも自然だ。話し合ってみると新たな発見があるかも知れない。恋人でも探そうかな。おおグレートヘン。永遠に女性的なるものよ、いずこにおられるのか。
2013.5.17
ぼくは「私とは何か?」という問いに答えようとしているのだと思う。しかし、どんなに考えてもその答えがしっくりこない。だいたい、人称代名詞というのがたくさんありすぎる。このブログでは意識的に「ぼく」を使っている。ところが、ある時は「私」の方がいいのではと思うことがあったり、「俺」と言いたい時もあったり、カタカナの「ボク」も使ってみたくなる時もあったり、「わたくし」という四音も捨てがたいと思ったり……。「自分は自分ですから」と言ったところで何も言っていないことに気がついて笑ってしまうこともある。どんな表現にもぼくが求めているところの「私とは何か?」という問いの答えとなる「私」なるものが居ない。居ないことだけは確かなのだ。時間論で言えば、過去の行為の積み重ねによるカルマが現在を規定しているとしても、自由な意志で、いくらでも軌道を変更できる自信がぼくにはある。そういう意味では未来へ向かってじぶんを投げ入れる存在としてのぼくがいる。空間論で言えば、環境とじぶんは切っても切れない関係にあるから、その関係こそがじぶんなのだと言ってもよいのだが、それでしっくりくるかと言えばそうは問屋が卸さないのだ。内面を見つめてみる。しかし内面にあるのはどうやら内臓だ。その臓器たちも自律神経によって動かされている。どうもじぶんの内面にあるものも外にある原子や分子と同じもので構成されていて、その境界はあまりにあいまいだ。ばい菌やウィルスなんかも入ったり出たりして免疫系を困らせているが、そのおかげで抵抗力が増して、なんとか今日も元気でいられる。宇宙を見つめてみる。肉眼でも500光年の先にある星が見えたりする。500年前のものを見ているのだ。西暦1513年の日本では誰がどんなことをしていただろう。室町時代だけど、特に記録にのこるようなことはなかったのではないか。西洋ではどうか。ルネッサンスの人文主義者エラスムスがいるではないか。エラスムスは『校訂版 新約聖書』(1516年)によって聖書を一般の人々に身近なものとした功績は大きい。宗教改革の時代にあって、プロテスタントの運動に大きな影響を与えたが、カトリック教会の外に出たわけでもなく、エラスムスは中間に位置し続けた平和主義者である。はじめはマルティン・ルターを励ます存在だったが、のちに自由意志の問題で論争することになる。ぼくは、ルターの改革も重要だと思うが、むしろエラスムスの立場の方により同情的だ。そして中間に立ち、互いの分裂をなんとか回避しようと努力した彼の生涯に敬意を表したい。話は脱線しているようで、実はいいところに辿り着いた。ぼくは「私とは何か?」という問いに、とりあえず「内と外のあいだである」という答えを暫定的にしておこうと思う。
2013.5.18
声を出す。言葉でも歌でもよい。その音は誰のものだろう。音源は、わたしの声帯であると主張することはできる。しかしぼくは思う。空気がなければその振動は伝わらない。また、空気が震えたとしても、その震えを感知する耳がなければ、声が届いたとは言えないのだ。内部と外部の境界はあいまいだ。じぶんの声を聴くという現象だけをとっても、かくの如くである。言い方はいろいろできると思うが、環境と自分という二項は対立しているようで不可分である。自分とは環境である、と言ってもいいくらいだ。精神と身体も同様である。精神とは身体である、と言ってしまった方が話は早い。さらに、言葉について、考えてみよう。いったい誰が作ったのだろう。ぼくではないことは確かだ。またぼくの両親でもない。そのまた祖先でもない。文字は漢字から派生しているから、漢民族からの借り物だ。しかし、漢民族だって、だれがいつそれを作り出して流通させたのかを知ることはできなかっただろう。まことに不可思議な現象である。いつ誰が作ったか知らないものを、ぼくらは平気な顔をしてコミュニケーションの道具として信用し、利用しているのだ。だから、言葉はぼくのものではない。どちらかと言えば外部に所属している。生まれる前から言葉を持っている人間は一人もいなかった筈だ。内部にはなかった。それを取り入れて、そして使用できるように訓練し、使っているうちに、なんとなく自分の声や言葉や思想がもともと具わっているかのように錯覚する。私とは何か? 内と外のあいだである。「わたし」とは「渡し」である。自分と他人がいて、そのあいだを言葉が飛び交っているのではない。外から内へ、内から外へ、言葉を渡すから自分が存在しているように見えるのだ。ニーチェの次の言葉がぼくは好きだ。
《しかし、ツァラトゥストラは、いぶかって、群衆をながめた。それからかれはこう語った。/人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱である──深淵の上にかかる綱である。/渡ってかなたに進むのも危うく、途上にあるのも危うく、うしろをふり返るのも危うく、おののいて立ちすくむのも危うい。/人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落であるということである。》(『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳、第一部4より)
ぼくは、きょうもこのブログを通じて、なにか意味ありげな言葉を、大切な人たちへ橋渡しさせてもらっている。わたしていけることが、かろうじて存在の意味をぼくに与えてくれるのだ。5・18、きょうは「こ・と・ば」の日であるとのこと。
2013.5.19
とてもいい日曜日だった。午前午後は清々しい空気があたりを満たしていた。夕方、小雨がぱらついて、夜は雨になったけれど、それもまた情緒があっていい。ぴっぽ主催のポエトリーカフェに参加した。第四期の第一回目で課題詩人は木下杢太郎(1885年―1945年)。きょうなにより驚いたのは、会のなかで紹介された「五月の頌歌」という作品に次のようなフレーズがあったことだ。
さう云ふ五月が来るときは
河沿ひの酒場に入りて
われは静かに青きペパミントの酒を啜りて、
頌歌つくるを常とする。
ぼくは4月24日の記事で、大瀧詠一さんの「ペパーミント・ブルー」という曲について書いた。そのなかで、ペパーミントはブルーではなくグリーンで、ここで色の表現をブルーにしたのは作詞家の松本隆さんの作為なのではないか、というようなことを思っていた。ところが、どうだろう、木下杢太郎は、この作品で、すでに「青きペパミント」という言葉をのこしているではないか。これはぼくにとって溜息がでるほどうれしい発見だった。「青きペパミントの酒」を好んで飲んでいたのだろう。北原白秋や木下杢太郎たち「パンの会」のハイカラな趣味である。それが、松本隆さんの作詞にどう影響したかは分からないけれど、ペパーミント・ブルーのソーダーとなって、ぼくらの前に届けられたのは確かなことだ。まあ、お酒の世界ではなにも珍しくはないのかもしれない。はっかのお酒である。なんだか、バーに行って注文してみたくなった。ペパーミントの入った青いお酒を下さいな、と言ってみようか。
2013.5.20
『朱欒』大正2年5月号に掲載された萩原朔太郎の作品は、「夜汽車」「こころ」「女よ」「桜」「旅上」「金魚」の六編。この作品はのちに『純情小曲集』の「愛憐詩篇」に収められた。作者は『純情小曲集』の自序で、次のように書いている。
《やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉つぱのやうな詩集を出すことにした。「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であつて、始めて詩といふものをかいたころのなつかしい思ひ出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であつて、何となくあやめ香水の匂ひがする。いまの詩壇からみればよほど古風のものであらうが、その頃としては相当に珍しいすたいるでもあつた。/ともあれこの詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問ふためではなく、まつたく私自身への過去を追憶したいためである。あるひとの来歴に対するのすたるぢやとも言へるだろう。》
この詩集が大正14年8月12日に刊行された。大正2年のデビューから12年後ということになる。その間に、『月に吠える』(大正6年2月15日)、『青猫』(大正12年1月26日)、『蝶を夢む』(大正12年7月14日)と、近代文学史にのこる名詩集を刊行し、多くの詩人に絶大なる影響を与えていった。その朔太郎が、自身の原点を振り返るような詩集を編んで、その初々しい詩情を披瀝したことは、ひとつの転機を迎えたことを示しているのだろう。きょうはその中から「女よ」を紹介したい。
◇女よ 萩原朔太郎◇
うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を壓するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顔をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。
女性に対するかぎりなき憧れを男たちはいつも抱いている。その女性の性には化粧がつきまとう。おっぱいがつきまとう。繊細な手足がつきまとう。吐息がつきまとう。作者は、全身で女性を感じている。この作品には、それがストレートに表明されている。読み手を選ぶ作品である。だから、一般的にはあまり好まれないかもしれない。しかし、ある一部の者には、この感覚とこの情緒がどうしようもなく甘美なものに映るのだ。汝という漢字が気になる。さんずいに「女」で「汝」と書く。だから「汝」という字を見ていると泣いている女性をイメージさせる。朔太郎もそれに気がついているのか。「女よ 汝はかなし」という結びが文脈の上でも、単独でも、深い意味を持っているようにぼくには感じられる。
2013.5.21
きょうから暑いなあ。ベランダと玄関のドアを開け放って、下着一枚でいるけど喉が渇いてしかたがない。アイスコーヒーをがぶりと飲む。今月は、萩原朔太郎デビュー100周年記念を個人で勝手に盛り上げている5月なのだが、5月はやっぱりいい季節だと思う。『純情小曲集』という詩集は「北原白秋氏に捧ぐ」とある通り、白秋の雑誌『朱欒』(ザムボア)に作品発表の機会を与えてくれたことに対する報恩の気持ちが込められている。それと同時に、『朱欒』は生涯の詩友である室生犀星との交友のきっかけともなった。つまり本年は朔太郎─犀星の文通開始100周年でもあるのだ。『純情小曲集』に「珍しいものをかくしてゐる人への序文」と題して、室生犀星は次のように書いている。
《或る朝、萩原は一帖の原稿紙をわたしに見せてくれた。いまから十三四年前に始めてわたしが萩原の詩をよんだときの、その原稿の綴りであつた。わたしは読み終へてから何か言はうとしたが、それよりもわたしが受けた感銘はかなりに繊かく鋭どかつたので、もう一度黙つて原稿を繰りかへして読んで見た。そしてやはり頭につうんと来る感銘が深かつた。いいフィルムを見たときにつうんとくる涙つぽい種類の快よさであつた。わたしはすぐ自分のむかしの詩を思ひ返して、萩原もいい詩をかいて永い間世に出さなかつたものだと、無関心で、無頓着げなかれの性分の中に或る奥床しさをかんじた。かれは何か絶えずもの珍らしいものを秘かにしまつてゐるやうな人がらである。 五月二十一日朝 犀星生 》
『純情小曲集』が刊行された1925年(大正14年)は、朔太郎の人生にとって大きな変化の年である。2月に妻子を連れて上京し、大井町に住み、4月には田端へ移る。近所には室生犀星や芥川龍之介がいて、中野重治や堀辰雄らを知る。そして11月に鎌倉へ転居という具合である。もちろん、その後もあちらこちらに定めなく転居を繰り返していくのだが、朔太郎は閑静な住宅街よりも工場の煙でごうごうとうるさい大井町の方が気に入っていたようである。『婦人の友』大正14年9月号に発表された詩を紹介してきょうは終わる。品川区大井町に住む諸君、萩原朔太郎デビュー100周年を一緒に祝おうではないか。
◇大井町 萩原朔太郎◇
おれは泥靴を曳きずりながら
ネギや ハキダメのごたごたする
運命の露路をよろけあるいた。
ああ 奥さん! 長屋の上品な嬶ども
そこのきたない煉瓦の窓から
乞食のうす黒いしやつぽの上に
鼠の尻尾でも投げつけてやれ。
それから構内の石炭がらを運んできて
部屋中いつぱい やけに煤煙でくすぼらせろ。
そろそろ夕景が薄つてきて
あつちこつちの屋根の上に
亭主のしやべるが光り出した。
へんに紙屑がぺらぺらして
かなしい日光のさしてるところへ
餓鬼共のヒネびた声がするではないか。
おれは空腹になりきつちやつて
そいつがバカに悲しくきこえ
大井町織物工場の暗い軒から
わあッと言つて飛び出しちやつた。
2013.5.22
◇金魚 萩原朔太郎◇
金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。
『純情小曲集』(1925年)からの一篇。最初の発表は『朱欒』(ザムボア)大正2年(1913年)5月号にて。
2013.5.23
◇櫻 萩原朔太郎◇
櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも櫻の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
『純情小曲集』(1925年)からの一篇。最初の発表は『朱欒』(ザムボア)大正2年(1913年)5月号にて。
今にも死んでしまいそうな朔太郎である。この陰気さがぼくらの心を鷲掴みにする。まったく詩人とは不可思議な生き物だ。東京はすでに新緑の季節で、どこにも櫻の花はない。しかし北に目をやってみよう。北海道は満開のところもあるようだ。北海道のみなさん、桜をテーマにした詩や歌や曲はたくさんありますが、まずはこの詩を読んでおこうじゃありませんか。100年前に発表された作品です。100年後のぼくらが確かに感受して、また100年後の詩人たちに、このセンチメンタルを手渡ししていく。ぼくはそう願うのであります。「さくら」という言葉のなかには、楽(らく)が潜んでいる。そして楽(らく)のなかには苦(く)が忍んでいる。苦をひらいて楽がさく、という意味を人は桜の花に読み込んでいるのかもしれない。
2013.5.24
◇夜汽車 萩原朔太郎◇
有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には佗しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科は過ぎずや
空気まくらの口金をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
『純情小曲集』(1925年)からの一篇。最初の発表は『朱欒』(ザムボア)大正2年(1913年)5月号にて。
2013.5.25
仕事に疲れて寝込んでしまった。子どもたちの運動会だったのに、起きられず、応援に行けなかった。申しわけない気持ちでいっぱいである。それにしても涼しい土曜日だ。いま夜風にあたってこころを慰めている。今月は、朔太郎の作品を掲載してきた。5月9日の記事で「旅上」を、5月20日に「女よ」を、5月22日に「金魚」を、5月23日に「櫻」を、5月24日に「夜汽車」を、全文のせている。これらはすべて北原白秋の雑誌『朱欒』(ザムボア)の大正2年(1913年)5月号にて発表された萩原朔太郎のデビュー作である。のこすは「こころ」だ。5月1日の記事で、少し触れているが、きょうはあらためて全文を紹介したいと思う。
◇こころ 萩原朔太郎◇
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
いま街路では、あじさいの花があちこちで花を咲かせはじめている。それをながめてはこの詩を口ずさむ。100年生き延びている素晴らしい作品だ。そして、これから100年先も「こころ」はあじさいの咲く頃に、誰かの口に詠われるにちがいない。
2013.5.26
ぼくは第三者に妻のことを話すとき「うちの家内は……」と言うようにしている。以前は「ぼくの妻は……」と言っていた。なぜ妻から家内になったのか。それは6年ほど前に彼女がうつ病になり、家事、育児ができなくなって、対外的なことも一切しなくなってしまったからだ。日本語では、「妻」に対して相手は「夫」と呼ばれる。「夫妻」はセットである。関係で言えばヨコの関係で、ふたりは人生のパートナーである。それに比べ、「家内」の相手は「主人」である。関係で言えばヨコと言うよりかタテになるだろう。「家内」は家の内側で家族を支え、「主人」は外へ出て家族を養うための糧を得る。家父長制の続いた日本では〈主人‐家内〉の方がしっくりくることが多い。男女平等は近代になって欧米から導入された制度であり、その時から〈夫‐妻〉または〈夫‐婦〉の関係が意識されるようになったのではないか。厳密には、戦後の民法改正で家制度が廃止されてから、女性が家にとっての嫁であるよりも、夫にとっての妻であるという意識のほうが一般化されたのだろう。だからぼくは、妻を「家内」と呼ぶときに一つの緊張を強いられる。まわりのひとがそれをどう感じるか、特に女性がそれをどう聞くか、ということが気になる。夫婦のヨコの関係が時流となった現代で、タテ関係をあえて導入すれば余計な摩擦を生じかねない。そして「うちの家内は……」と言い終える度にぼくはじぶんが家の主人であることを自覚しなくてはならない。主人であることは、男性優位の立場を誇るというようなことでは決してない。それは義務感によって保たれるものだ。一切の経済活動、対外活動を背負うという自覚がなければならない。ある意味で個人にとっては大きな負担であり重圧である。それに対して「家内」は、「主人」が物理的に不可能な家事を担うことで「主人」をサポートする。ストレスは外にはなく内に集中する。だから役割は完全に分かれる。そしてそのバランスがうまく保たれることで家族は子育てを成功させることができるのだ。現代はこのバランスが崩れ、誰が「主人」なのかが分からなくなっている。ぼくの両親は、戦後の高度経済成長の時代に、都市型の核家族の形態で姉とぼくと妹の三人の子どもを育てた。家族のなかでの父親の権限は絶対であった。母は専業主婦であった。妻であるよりも家内として父に従順であった。そういう環境がぼくにとっての家族である。ところが、ぼくの結婚は、はじめ共働きでスタートし、子どもが生まれてもすぐに保育園を利用して、妻は仕事に復帰した。ぼくも育児に積極的であった。家事も分担するように心がけた。当時、収入は妻の方が上だった。時がたち、三人目の子どもが生まれるころ、ぼくは自営業者として独立していて、妻は仕事を辞めていた。そして、産後に体調を崩し、うつ病になってしまった。妻は「家内」になり、ぼくは夫から「主人」になった。社会学の本から引用する。
《上野千鶴子は、「『家父長制』を物質的基盤のある性支配の構造」と捉え定式化しようとする。家父長制は、「今日の産業社会における女性の男性に対する従属システム」であり、このシステムは、「家内制生産様式」という経済的基盤をもっている。この「家内制生産様式」とは、「生産」労働である「家事労働」を家庭内で「主婦」という名の既婚女性に無償で遂行させる生産の様式であると説明する。すなわち「家父長制の物質的基盤とは、男性による女性の労働力の支配」であるということである。この支配は、「女性を賃労働から排除したり、女性の労働を男性の労働より低く位置づける」といった戦略をもって「女性が経済的に必要な生産資源に近づくのを排除すること」で維持されている。性支配のおよぶ範囲は、物質の生産に関する労働ばかりでなく、「人間の生産という労働」(生殖)にもおよんでいる。家内制生産様式は家事労働という生産労働を市場に入れずに、市場の外で、無償で、既婚女性にやらせる点で、資本制生産様式の要請と合致して1つのシステムとして成立している。》(『権力から読みとく現代人の社会学・入門』有斐閣アルマ、40頁より)
マルクス主義フェミニズムの観点から言えば、うちの家内は家庭内で階級闘争を開始したことになるだろう。しかもそれが、家事と育児の放棄という方法で、主人であるぼくの土台から突き崩そうとしているのだ。はたしてこの革命は成功するだろうか。家内は6年経っていよいよ自己変革しようとしている。おそらく近い将来、家父長制を打倒して、新しい家族関係の段階に入るであろう。
2013.5.27
《私の修士論文の主査は緒方先生だったが副査は野本先生で、それに文学部のシュペネマン先生が指導に加わった。野本先生も酒が強い。二人で焼酎を一升近く飲んだ。/「赤垣屋」は京都の居酒屋にしては珍しく、魚がおいしい。私は赤鰈の唐揚げを食べながら、野本先生に尋ねた。/「先生は人間を信じますか」/「難しい質問ですね。宇都宮は陸軍の影響が強い街で、僕の父は牧師だったので何度も特高警察や憲兵隊に引っぱられた。国民学校で僕は『スパイの子』と呼ばれ、いじめられました。終戦時、僕は九歳でした。進駐軍がやってくると教会が人で一杯になり、僕の父は街の英雄になった。小学校の先生を含め、みんなが掌を返したように優しくなった。そのときから、逆に僕の深いところで人間不信が生まれました」/「先生は神を信じますか」/「また、難しい質問をしますね。人間が想像する神は、キリスト教でいう神ではありません。しかし、それを超えた力というか、超越性というか、そういう神はいるんです。僕やあなたが信じる信じないにかかわらず、そういう神はいるんです」/「最後に、先生はイエス・キリストを救い主と信じますか」/「信じます」/野本先生は、旧約聖書神学者として著名であるが、それ以前に天性の牧師なのだ。野本先生の牧会的配慮により、私を含む多くの神学生が救われたのだ。》(佐藤優『私のマルクス』文春文庫、355頁から356頁より)
この箇所は、『私のマルクス』のなかでぼくがいちばん感銘を受けたやり取りだ。一青年の率直な質問に、こんなにも赤裸々に大学の教授が答えてくれる。そして、その答えがまた鋭い。同じ質問をじぶんにしてみるとよい。ぼくは人間を信じているだろうか。おそらく野本先生と同じように根底には人間不信がある。表面はいくらでも繕える。ヒューマニストを標榜することも簡単だ。家族を愛し、友人を愛し、仲間を大切にすることはできる。しかし、人間を信じきれるかどうかと問われたら、とたんに自信を失う。やっぱり人間は恐ろしい生き物だ。じぶんを含めて。そういう出来事にたくさん出くわす。過去にも未来にも。ぼくは神を信じられるだろうか。この問いに対してはどうだろう。キリスト教徒でなくてもかまわない。仏教徒であってもかまわない。無神論者でもかまわない。一度この問いかけに、真摯に向き合ってみるべきだ。ぼくにとって神とは何か。そして神はいないと断じられるのか。それとも「そういう神はいるんです」と言わずにはいられないと感じているのかどうか。ぼくは誤解を恐れずに言う。そういう神はいてもらわなくちゃ困るんだよ。ただし、イエスがキリストであるかどうかの問題に関してだけは保留したいのである。
2013.5.28
◇上空の歌 2013.5.28◇
夜明けの空が水色である場合二羽のカラスは白い月の上を飛んでいく
それを見ると男は幸福についてきちんとした答えが欲しくなり
場末の酒場でペパーミントの香りを楽しみながら女と語り合う
女の髪は黒い方がいいのか赤い方がいいのかそれとも金色か
男の眼は青い方がいいのか茶色い方がいいのかそれとも透明か
神は死んでもすぐにまたよみがえるにちがいないと男が云う
芽は出てもそれに実がなるかどうかは分からないと女が云う
夜明けの空が桃色になっても二羽のカラスは白い月の上を飛んでいる
2013.5.29
《哲学者たちはこれまで、世界をさまざまに解釈してきただけである。肝心なのは、世界を変革することである。》(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」の11)
最近、哲学の事を考えるのがだんだんおっくうになってきている。きのうもろくに本が読めず、書きたいことがなくなってしまった。これは身体的な疲れが溜まってきた証拠だ。少し走ってこよう。と思ったけれど、フォイエルバッハが気になっていて、どうしてもフォイエルバッハの本が読みたい。きっかけが欲しいので、マルクスのテーゼを拝借してきた。ぼくは、これまでずっと世界を解釈してきただけである。その解釈の切れ端を言葉にして、こうしてブログに載せてきた。疲れが出ると、それにどんな意味があるのかと自問を始める。そして、いっそそんなことやめてしまえという誘惑の声が聞こえてくる。肝心なのは、現実のなかで状況を変革することではないのか。いったいお前はこの世界の何を変えたのか。そんな叱責さえ聞こえてくる。ぼくは政治に眼を向けなくてはいけないと思う。時事問題にコミットしなくてはならないと思う。経済活動に身を入れなくてはいけないと思う。ああ、思う。思うのだけれど、思うだけなんだ。やっぱり観念なんだ。観念に行ってしまうんだ。マルクスよ、すまん。ぼくにとって今重要なことは、いかに世界を解釈するか、ということなんだ。分かってくれるかい。分からないなら分からなくてもいい。ぼくは解釈にしか興味がない。それはどうしようもないぼくの性質だから。フォイエルバッハよ、明日はきみの本を読むよ。だからきょうはおやすみなさい。
2013.5.30
『フォイエルバッハ全集 第二巻 中期哲学論集』(船山信一訳、福村出版)を読み始める。「哲学の改革のための予備的提言」という論文のなかに次のような断章がある。
《人間的なものが神的なものであり有限なものが無限なものであるということについての決定的な意識または血肉化した意識は、エネルギーの点でも深さの点でも熱情(火)の点でも従来のあらゆる詩および芸術を凌駕する或る新しい詩および芸術の源泉である。彼岸に対する信仰は絶対に詩的でない信仰である。苦痛は詩の源泉である。ただ或る有限な存在者の喪失を一つの無限な喪失として感ずる人だけが叙情的な熱情(火)のための力をもっている。ただもはや存在していないものの想起という苦痛な刺激だけが、人間のなかにいる最初の芸術家であり最初の理想主義者である。しかるに彼岸に対する信仰はあらゆる苦痛を仮象にし非真理にする。》(全集第二巻、39頁より)
この断章に出会えただけでも、本を開いたかいがあった。「ただ或る有限な存在者」(たとえばトシ)の喪失を無限な喪失として感じた宮沢賢治は、「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」の諸作品を生み出した。「余情的な熱情」がどのような発火点をもつのかをこの断章は雄弁に語ってくれている。宮沢賢治の童話や心象スケッチは「彼岸に対する信仰」を極力避けて此岸に究極の答えを求めようとして書き続けられた。あるいは「もはや存在していないものの想起という苦痛な刺激」によって、堀辰雄が『風立ちぬ』を書き上げたことを考えてもよい。詩人の出発はいつだって有限なものからである。フォイエルバッハの着眼点をぼくらはきちんと継承しなくてはならない。
2013.5.31
フォイエルバッハは云う。
《スピノザは近代の思弁哲学の本来の創始者であり、シェリングは近代の思弁哲学の再興者であり、ヘーゲルは近代の思弁哲学の完成者である。》(「哲学の改革のための予備的提言」全集第二巻、31頁)
フォイエルバッハのフィルターを通すと、スピノザからヘーゲルまでの哲学は近代の思弁哲学という枠のなかにすっぽり納まる。そして、それは哲学の名を借りたキリスト教神学に他ならない。フォイエルバッハはそれを一気に転倒させてみせようとする。この狙いが見えていれば、フォイエルバッハの言葉の真意が少し明らかになってくるだろう。スピノザは、ユダヤ教徒として、真剣に神について考えた。そして、この自然(宇宙それ自体)こそが神であると悟った。これが、汎神論=pantheism(パンテイズム)である。パン(すべて)がテオス(神)であるという意味だ。スピノザはこの思想によってユダヤ教会から破門されてしまった。汎神論の考えを受け入れることは、世界から超越している神を否定することになる。スピノザが見ている神を他の人は見ない。それは神ではなく、神が創造した物じゃないか。この薄汚れた世界が神だなんてとんでもない。結局、スピノザは無神論者とみなされてしまった。フォイエルバッハは云う。
《「無神論」は転倒された「汎神論」である。》(全集第二巻、33頁)
神を世界の外部に置く人々にとって、汎神論は無神論のバリエーションにすぎない。