時間による支配から人類を解放するための第三試論:四季派の詩人たちを例に。
様々な詩論を通して「時間」の束縛から解放される道を探る。戦争に反対する。
1.
竹内勝太郎氏は「詩論一」の中で次のように云っている。
《表現と云うことを取り除けば芸術は成り立たないと一般には考えられているであろう。然し私の詩に要求する処は先ず最初にこの表現の否定でなければならぬ。》(『竹内勝太郎全集』思潮社。第三巻。17頁)。
竹内勝太郎氏が上記の言葉を記したのは1932年9月21日である。
私たちは小学生の頃から美術や音楽の時間に「表現しなさい」と教えられる。また国語の時間でも作文で表現を学ぶ。いったい大人たちはこれまで「表現」という言葉で何を意味していたのであろう。表現の自由。この言葉を疑わずに進んで来た戦後日本の歩み。「表に現わす」という字義からは遙かにはみ出した「表現」という言葉の響き。「表す」も「現す」も「あらわす」と読む。つまり「あらわすあらわす」というリフレイン。いったい何をあらわせと云うのであろうか。
竹内勝太郎氏は云う。
《詩が何等かの「意味」を言葉の上に表現しようとする限り、それは言葉を手段とした文学に過ぎない》(同。17頁)。
私はこれまで文章を通して読み手にメッセージを送って来た。それは自分で考えた事を言葉で表現したものである(と思い込んで生きて来た)。読み手はそこに「意味」があると思って読解する。ここでの「意味」とは。私の怒りや悲しみや喜びの事。だったり。催促や期待や願望の事。だったり。あるいは誇示や虚栄や押しつけ。だったり。するだろう。「意味」に比べれば表現された「言葉」はそのための手段である。竹内勝太郎氏はそこに詩は存在しないと考えているようだ。
竹内勝太郎氏は噛み砕いて云う。
《絶対に手段化されない言葉、これが純粋の言葉であり、詩の要素となり得る言葉である。これに反して手段とされるや否や言葉は窒息し、死んでしまう。死屍を詩神の祭壇に供えることは絶対に享けられない。/言葉の手段化を拒否せよ。/マラルメの優れた詩には手段化された言葉は見られない。その最も解り易い例は彼の「骰子の一打」であろう。この詩に対して象徴的にもしろ「意味」を求めようとする人は結局永遠の迷宮に陥入るほかはなかろう。/この詩の持っているものは意味なぞと云うようなものよりも遙に直接的で具体的な切実な心臓の鼓動の如きものである》(同。18頁)。
「言葉」から「表現」を排除し「意味」を取り去る。いったいそれは何物なのか。「意味」の意味についても考えたくなる。しかしその誘惑を避けながら考察を続けよう。
2.
入沢康夫氏は「詩は表現ではない」という命題を1961年6月に「詩の創造」という一文の中で早くも展開している。ちなみに入沢康夫氏は『竹内勝太郎全集』の「付録3」に「詩の始源への溯求」(1968年5月)という一文を寄せている。この有名なテーゼは入沢康夫氏の独断ではない。しかし。このテーゼは一人歩きをはじめてとうとう戻ってこなかった。今。「詩は表現ではない」と叫んでも誰も耳をかさない。それは「詩」が変ってしまったからなのか。それとも「表現」が変ってしまったからなのか。どうやらその両方であるらしい。「言葉」は未だに「意味」の支配下にある。
入沢康夫氏の詩論の中で特に私が気に入っている文章を入沢康夫『詩の逆説』(サンリオ出版。1973年)より引用する。
《散文形で書かれているか、行分けで書かれているか(形式の問題)、それが詩と銘うって提出されているか、小説あるいはエッセイとして提出されているか(提出のされかたの問題)、は、本当はそんなに重要なことではないのだ。それは、それぞれの作品および作者の内的必然性によって、どうあってもよいのである。どうあてもよくないのは、そこに一種独特の(とりあえず慣用の用語を採用して、ポエジーの、といってもよい)電流が通っているかいないかだ。ポエジーによって磁化されているものを詩と呼び、ポエジーによる汚染を徹底して拒否する散文精神を見るというあたりに、さしあたってこの詩と散文の境界を考えておけばよいのではないか》(「現代詩の地獄下り」より)。
ポエジーという言葉で詩を定義することは少しずるい。と思うかもしれない。「詩=ポエジー」と考える人もいるから。これではトートロジーである。その文が詩であるのはなぜか。それは詩だから。と云っているに過ぎない。ポエジーは計測不能であり観測不能である。それを判断の基準にされたら。誰も「王様は裸だ」と云えなくなる。しかし入沢康夫氏は続けて云う。
《いや、うちあけて言えば、ぼくにはジャンルの区別の詮議立てさえ、実際どうでもよいのである。要は、ぼくが、ポエジーによって充電されている作品、ポエジーの電圧の極度に高い詩に触れて、思うさまぶったおれるほど感電したい。そして出来ることなら、自分でも、そのような激しい力をもつ作品を一つでも実現してみたいということに尽きるのだ》(同上)。
3.
入沢康夫氏はポエジーを電流に譬えた。充電・電圧・感電という言葉を使って説明した。電気の時代を生きる私たちには理解できる範囲にある。しかし。人によってはロックに感電し。芝居に感電し。美人に感電する。それもポエジーなのかと問われたら困る。入沢康夫氏もそれを見越して。次々に言葉を上塗りすることになる。要するに詩を定義することは不可能に近いのである。それでも私は入沢康夫氏の見解に共感する。感電したいという願望がある。できれば雷に打たれたい。
ここからは私が実際に感電した文芸作品について語ることになる。実例を示すことで入沢康夫氏の詩論の正当性を確保したいと思うからである。それから。今後私は入沢康夫氏が「ポエジー」という語で表現しようとしている事柄を「霊魂」という語で表そうと思う。私は実体としての「霊魂」は信じない。しかしこの言葉が持つニュアンスが「ポエジー」に最も近いように考えている。同じものを指すならわざわざ言葉を置き換える必要はないのだが。これも実験の一つであると思って付き合って欲しい。
4.
詩を引用する。
詩よ。おまへはおまへを僕の中へ閉じ込めたなり、何処かへ去つてしまつた。僕が苦しまねばならぬのはそのためだ。僕の血管にはおまへが脈を搏つてゐる。僕はありありとおまへを真近に感じ乍ら、しかも其処におまへは居ない。
時どき、僕は耐へ切れなくなると、自分で自分の皮膚を引き裂いて、おまへを開放しようとする。
そしてその度ごとに、おまへはだんだん僕の躯の表面を隠すやうに染めてゆく。悪く濁つたインクの雲で。
僕は害はれた。(僕に残つてゐる半生。)
やがてその中に、僕は僕でなくなつてしまふのであらう。ペン軸を手にしたまま。
竹中郁「詩の行方」
詩の霊魂について。これほど的確に表現した文はないのではないか。詩を書いている時。私たちはおそらく「書かされている」のだ。誰に? そう。詩そのものに操られ。ペンは走らされる。シュールレアリストでなくともそれを感じる筈だ。意思をもった私たちだが。ただ意識的に文章を組み立てたって詩は生まれない。霊魂がぼくたちの肉体の中に入り込み。時限爆弾を仕掛け。去っていくのでない限り。詩は動かない。そして霊魂はいつもじっとしてはいないのだ。ここにあると自分の胸に手をあてて云いたいところだが。そう思うや。それはどこかへ飛んで行ってしまう。こういう事情をただ説明するだけなら。誰にでもできるのだが。竹中郁氏はそれを書きとめた。「僕は僕でなくなつてしまふ」ところまで私たちがいかなくちゃ。霊魂の行方はつかめやしない。
5.
詩を引用する。
洋燈(ランプ)を点すと
洋燈はすぐに叫んだ
──むこうの闇が見えない
見えない
むこうの闇に持ってゆくと
なおも大声で喚いた
──いま居たところが暗くなった
暗くなった
蝙蝠(こうもり)が笑った
丸山薫「夕暮」
ランプが叫ぶことはない。しかしランプがそう思っている。そんな気はする。気がするのは私だけではない筈だ。夕暮の薄暗い場所に立ったことのある者ならば。闇のはじまりがどんなにか薄気味悪く不安にさせるかを知っている。不安がなくとも妙に人恋しくなったり淋しくなったり悲しくなったりし。何らかの変化を必要とする心理が働くことは十分に経験済みの筈だから。電灯なりロウソクなりランプなり。明かりが点されなくてはどうにも落ち着かない。そして実行する。スイッチを入れて見る。ところが太陽の光に比べれば日没のあとはどんな光も頼りなく。闇の支配に対する抵抗はいつもむなしい。ランプは叫ぶだろう。「もっと向こうを明るくしてほしい」とか「明かりを強く!」とか……。そういう心理を人は物体と共有するのである。この詩は人間と静物の声にならない共感を確かに掴んでいる。ファンタジーの手法が現実感につながることをこれだけの短文で表現してしまった。ああ見事だ。暗やみの帝王コウモリが笑っている。コウモリは笑わない。けれども笑っているに違いないのだ。
6.
詩を引用する。
母よ─
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並木のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
輪々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
三好達治「乳母車」
どうもおかしいのだ。私はこの詩を読んでも。また朗読を聴いても。なんの感情もわいて来ない。難しいことは言っていないと思うし。内容が空疎であるわけでもないのだが。文に血が通っていない。そんな気がしてならない。これは悪口ではない。私の方に問題があるのだと自分に言い聞かせているだけ。やはりこの作品は名詩であるにちがいない。でもそう思えない私が確かにいる。そこのところをなんとか掘り下げたい。という衝動がはたらいて。また「乳母車」を読む。聴く。読む。聴く……。
「母よ」という呼びかけ。通常それだけで人は何らかの感情がわいてくるものだが。この詩の全体から「母への想い」は一切感じられない。試しに「父よ」で読んでみる。やっぱり同じだ。「兄よ」「妹よ」でも「友よ」「恋人よ」でも結局同じことで。感情に触れてくる何かがそこには欠落しているようなのだ。原因のひとつ。それは「私の乳母車を押せ」という命令にある。乳母車には赤ん坊が乗っている筈だから。赤ん坊が母に向かって「押せ」と言う現象は奇妙なことになる。仮に大人になった人間が乳母車に乗っているというシュールを想像してみよう。これも「あり」だとは思うが「きもい」だけ。前衛芸術の芝居に出てきそうなシーンではあるがこの詩からそんな意図を感じるのは不可能である。
では何者が母親に向かって「私の乳母車を押せ」と命令しているのか? それがわからんのじゃ。この詩に私が感情移入できない理由はどうやらその辺にありそうだ。ところが。ところがですよ。この詩が成立した時代について考えてみると。案外。すっきりとその謎が解けるような気もするのだ。
三好達治氏26歳。1926年の4月。雑誌『青空』の同人となり。6月号に5篇の詩を発表。「乳母車」はそのひとつ。それは彼の詩作が本格的に開始された年だ。前年。東大文学部仏文科に入学し。マラルメ氏やボードレエル氏を吸収し。萩原朔太郎氏や室生犀星氏をはじめ。佐藤春夫氏。北原白秋氏などの先人たちの業績にどっぷりと浸った。そのあとの出来事が『青空』同人としての三好達治氏のデビューなのだと考えると。どうかな。これを〈模倣の昇華〉とみなしてもかまわないのではないか。
「紫陽花(あじさい)いろ」。そう。萩原朔太郎氏の「こころ」を想起する。「輪々と…」。これも萩原朔太郎氏の「竹」に見られる。(輪の字は本当はちがう。でもでないので輪で代用)。「天鵞絨(びろうど)」。この音の響きに北原白秋氏『邪宗門』を連想するのは私だけではない筈だ。「この道」。ご存知。北原白秋氏の最もメジャーな童謡のタイトルである。探し出せばそこに流れる先人たちの響きをもっともっと感知できるはずだ。こうして私は落ち着く。三好達治氏よ。みごとなり。のちに師匠と仰ぐ萩原朔太郎氏へのオマージュ。そして萩原朔太郎氏が傾倒した北原白秋氏へのオマージュが「乳母車」の成立の背景であると私は勝手に断定する。自分にそう思い込ませてこの作品に立ち戻ろう。すると「乳母車」を押させているのが実は詩人たちの呼び声あるいは霊魂そのものであることに気づく。そして詩の道がこれからも険しく「遠く遠くはてしない道」であることに思いを致し。それでもその道をゆくと決意した作者の宣言がこの詩の本義であると言いたくなるのだ。
ちなみに。萩原朔太郎氏が26歳の年は1912年。詩や短歌を北原白秋へ送り本格的に詩作を開始。翌年。白秋主催の『朱欒』に5篇の詩を発表し詩壇にデビュー。1912年は大正元年である。そして弟子の三好達治氏のデビューの年1926年は昭和元年である。それが偶然か。それとも意図したことかは分からない。だが因縁だ。連鎖だ。系統だ。模倣が模倣で終わらずに昇華された位置に立つ時に芸術は芸術として充足する。
7.
三好達治氏は岩波文庫の『詩を読む人のために』という本によって近代の様々な詩人の作品に触れている。そのなかで三好達治氏は『四季』の同人である丸山薫氏や竹中郁氏のことを彼らの作品を解説しながら実に巧みに紹介している。
丸山薫氏は1899年大分市生まれ。三好達治氏は1900年大阪市生まれ。竹中郁氏は1904年神戸市生まれ。で世代もほぼ一緒である。そんな三人はおのおのがそれぞれ二人との独特な関係を維持し。四季派というグループのなかで詩壇の一時代を築いた。そして現代日本の抒情詩を方向付けていったのだ。私の関心は彼らの作品そのものよりも人物の方に向けられている。そしてそれは詩人のフィルターを通して見られたある詩人の像であることが望ましい。詩人が語る詩人のなかに新たな発見があれば良いと思っているのだ。
まず竹中郁氏の目に映った三好達治氏。
《三好の詩のすみずみに照り渡る光線は、あきらかに関西のもつ光線なのである。年がら年中、日のよく照る近畿地方の海沿いの風土が生れつき与えた要素なのである。また、たまたま、東大仏文に学んだことは、やはりフランス風な明晰な論理的な精神が好きで、且つまた、趣味的にもフランスがその身にかなった軽さであったのであろう。或は重さであったのであろう》(昭和26年2月『現代詩鑑賞・昭和期』第二書房・第三巻より)。
この見解は面白い。詩人の性質を近畿地方の風土に起因するものとして捉える目は私にはなかった。西と東。南と北。などの育った環境によって作風が変わってくるという考えは特に珍しいものではないだろうけれど。この「関西のもつ光線」という視点は同じ関西出身の竹中郁氏でないとなかなか言えないことだ。(では関東だとどういう感じになるのだろう。東京の影。都会の闇。少しかげりがあったりするのだろうか)。また竹中郁氏は云う。
《とにかく三好は思想的にではなく、詩の方で萩原と近似した間柄であった。ともに二人は、詩に於ける音楽尊重主義者であり、かつまたすぐれた作品を実際に提供した》(同前)。
萩原朔太郎氏は三好達治氏の師匠である。三好達治氏は萩原朔太郎氏の弟子である。二人は共に詩における音楽性を重視しているという。北原白秋氏に傾倒して萩原朔太郎氏が詩をはじめたように萩原朔太郎氏の影響下にある三好達治氏らの世代の詩人たちは詩のなかから音楽性を排除しようとはついぞ思わなかったにちがいない。萩原朔太郎氏を語る三好達治氏の話も実に面白いのであるがそれは別の機会にし。ここでは竹中郁氏から見た萩原朔太郎氏と三好達治氏の相違点が語られるのを見ておこう。
《ここで断っておくが、二人が、つまり萩原、三好が、その詩の音楽の上で必ずしも主調を共にしていたということではないのである。萩原の考えていた音楽はワグネル的ロマンチスムであり、三好の考えていた、或は考えている音楽は、ドビュッシイに革命された近代音楽に加うるに、単純素朴なわが大和の琴の音楽のようなものだということである。主情的なうちにバランスのある理智の冷たさをも備えた音楽を考えているのではないかということである》(同前)。
この対比はユニークだ。萩原朔太郎氏がワーグナー氏で三好達治氏がドビュッシー氏だなんて。譬えが的確であるかどうかは分からないがそう言われるとそういう違いがあるように見えてくるから不思議だ。それに加えて竹中郁氏は三好作品のなかから古き日本の琴の音色を聞き分けてさえいる。
8.
詩を引用する。
蜂の羽音が
チューリップの花に消える
微風の中にひつそりと
客を迎へた赤い部屋
「チューリップ」という三好達治氏の四行詩である。竹中郁氏はこのような作品を紹介しながら続けて云う。
《日本国中、どこを見わたしても、云いまわしの巧妙さ豊かさを示す詩人は、関西もとくに瀬戸内海沿いの地方に生れ育った人間に多いようである。詳しくは説かないがこの短い四行詩についてゆっくりと考えてほしい。なにほどでもない内容を、ことばに表わすことは存外むずかしいことである。重大な内容を表現するのは案外手の焼けることもないが、この詩のような軽さをそのまま文学作品化するのは誰しもが成し得ることではない》(同前)。
竹中郁氏自身が言語的に実験的な作品をさまざま作ってきた詩人であるからこそ三好達治氏のシンプルさに目がとまるのかもしれない。シンプルがただ即席で出てきたものだったら俳句や川柳などの伝統的な文芸には敵わないだろう。ここで出てくるシンプルは熟練された者だけが醸成できるところのものだ。
《わが国の民族的好尚の一つに、はっきりと軽さという美が認められるに拘らず、明治以来いつのほどからか、(多分、ドイツ観念派哲学の輸入とわが国に於ける流行によって)高く評価される芸術といえば仰々しく肩を怒らせた代物に限っているようであった。三好はそこを自覚してかせいでか、四行詩のみならず各様式の詩で軽みの美を主張している》。
こうして竹中郁氏は三好達治氏の詩作の方向性とねらいなどをさらりと紹介してくれているのである。もしかすると三好達治氏自身が自覚していなかった側面を竹中郁氏は見ているのかもしれない。
9.
竹中郁氏と三好達治氏の関係がよりよく分かるエピソードがある。竹中郁氏自身の語るところに少し耳を傾けてみよう。
《かつて、わたくしが現に今でもつづけて刊行している児童詩の雑誌「きりん」に言及して、竹中が熱中する熱意は尊しとするも、かれら児童の作品が即ち「詩」であるとは肯じかねるということを雑誌「文学界」に於て洩した》(昭和34年2月『近代文学鑑賞講座』角川書店・第20巻より)。
三好達治氏が児童のつくる詩に否定的意見を述べたらしい。児童詩の振興。宣伝は竹中郁氏にとって後期の主要な活動であったから。それを否定されてはたまらない。ここでは三好達治氏に対して友好的であるより敵対的な態度で臨まなくてはならない。
《わたくしはそれを読んで、三好の抱く詩論を推測した。つまり、児童(小学生)の書くみじかい文章は散文作品であって、音韻美音律美を一切伴っていないではないか。詩というからには、いくら現代日本語の不適性があるにせよ、音の面白さや美しさがなくては詩とはいいがたい、というのだろうと推測した》(同前)。
さあ。どうだろう。児童の書く詩は韻文かそれとも散文か? このテーマを掘り下げることと「詩とは何か?」と問うこととはあまりにも密接につながってはいないだろうか。そして子どものみならず大人の私たちが書く文章が詩になっているのかどうかを判断する基準もまた三好達治氏の云う音韻美や音律美にあるものなのかどうか。実に興味あるテーマである。竹中郁氏の反論を聞こう。
《かれの詩という概念には、全く西洋人の考えている詩の定義、詩の通念がひそんでいる。百パーセントとはいわぬまでも、半分以上はひそんでいる。/それは勿論、それで正しい、というより、それが正しい。しかし、現代語しかしらぬ児童にそんな言葉の音楽性があやつられるか、あやつれはしない。或は、現代語のみで現代詩を書こうと志す詩人に於ては、よほどの天才でもあれば格別、変化に富んだリズムやハアモニーを現代語で綾なし得られるかどうか、むしろ綾なし得られないと考える》(同前)。
児童がもつ言語能力の限界について。あるいは現代人の言語能力の現状について。竹中郁氏はあくまで現実路線で行けばよいのではないかと提案する。そして。その限界内において人は詩を書き得ることを否定しない。彼は児童たち子どもたちのことばと詩心を信頼しているのだろう。それに対して三好達治氏はある一定の水準を設けなければ詩が散文のなかに埋没し衰退していくことを憂慮しているのである。
私たちは。まだどちらの立場でもない。むしろ。どちらの立場にも立てる。ゆえに詩を書きながら。これはちゃんと詩になっているだろうか。と迷い。また悩むのだ。《古い池に蛙が飛び込んで。ちゃぽんと音がした》。これには音律がない。内容だけを伝える短い散文である。しかしこの内容を世界中の人が知っているのは《古池や蛙飛こむ水のをと》という音数律で作られた松尾芭蕉氏の名句がのこっているからだ。だが最初の散文が作者によって「これは短詩」とレッテルを貼って発表されたとしたら。私たちは迷うだろう。
古い池に
蛙が飛び込んで
ちゃぽん
と音がした
行分けは内容にかかわらず形式的に文を詩のように見せる一種の魔法だ。この行分けのマジックについては別の機会に詳しく書きたいと思う。
《静かだった古い池に最初の一匹が飛び込むとそれに合わせて一斉に蛙が次々飛び込んだ》。これは私なりのアレンジを加えた状況説明である。芭蕉の句では蛙が一匹なのか複数なのか特定することができない。しかし特定できる字数がないのだからそれは省かれる。音律を重視することは厳密さを欠くことでもある。それに対して散文はどこまでも説明を付け加えることができるので状況がどのようなものだったのか書き手の見たもの感じたものを読み手に押し付けることができるだろう。
すると韻文は散文と比較した場合「省略の文芸」であると言えるかもしれない。詩は音韻・音律重視というのであれば。いかにことばを音律にあわせて省略し。それによってむしろ的確に状況を表現するよう工夫しなくてはならない。そしてそれは書き手と読み手とのあいだにたっぷりと知識が共有されていなければ成立しない。つまり「行間と字間の文芸」になってこざるを得ないのだ。
俳句や短歌がじつはそれを相互に試し。味わい。共有するための高度なコミュニケーションであることは多くの人が指摘するところだ。比率で言えばずっと説明文に近づくが近代に作られた日本の詩もまた「省略の文芸」の一種であると見なされている。物語や小説よりも。より短く。より多くの内容を含ませようと努力して作られたものに評価が集まる。そして行間に何かを読ませ字間に広い世界を見るように仕向けたものを読み手の知識量に委ねて投げ出す。そこにリズムがありハーモニーがあれば見上げたものだと感嘆される。
竹中郁氏が児童詩の可能性を追いかけたのは。この省略という機能が児童の場合には決して意図的ではない。というところにあったのではないだろうか。語彙の量が圧倒的に少ないがゆえに。子どもがつむぎ出す言葉は表現したいことの三割にも満たないかもしれない。それを読む大人はそこにより多くの何かを読み込もうとする。そのギャップで「省略の文芸」が成立しているように錯覚するのだ。そしてその錯覚を肯定的に捉えたのが竹中郁氏なのではないか。私は今そんな気がしている。
10.
次に竹中郁氏から見た丸山薫氏。
《じつはわたくしは丸山薫の生い立ちもその後の人生の曲折も全く識らないままに、この人の詩作品を読みつづけてきた。丸山薫という人が自分を語るのはその作品でだけで十分だ──というようにふるまっている人と見てとったからである》(昭和51年10月『丸山薫全集』角川書店・Ⅰより)。
と竹中郁氏は云う。意外であった。『四季』の同人同士だからもっと頻繁に交際しているものと思い込んでいた。お互い作品を通しての交流はあっても実際にあって色々語り合っていたわけではなかったのだ。なるほど詩人を知ろうとするならその詩を読めばよい。作品あっての作家である。しかし面白いことに作品を好きになればなるほど人はその作者の個人的な情報を知りたくなるものだ。
竹中郁氏は数少ない丸山薫氏との邂逅を次のように記す。
《昭和七年十二月十日前後であったが、東京麹町三番町の第一書房で、わたくしは初めて丸山薫と面晤した。丸山の第一詩集『帆・ランプ・鴎』とわたくしの第三詩集『象牙海岸』とが時を同じゅうして刊行され、その日たまたまわたくしは神戸から上京して、第一書房を訪れた。初刷の出来具合を早くみたいためであった》(同前)。
おお。あの有名な詩集がふたつ。同時に刊行されていたのか。この話だけでもわくわくする。そしてふたりが戦前。出版社の一室で邂逅する。
《同じ思いででもあったろう。そこへ丸山が訪れて同席した。身長は一七〇センチ以上にもみえ、大柄な体格は年嵩ということもあって、わたくしには至極大人に感じられた。じっさい丸山はゆっくりとものを言い、しかも寡言であった》(同前)。
「動作はもちろんスローモーで笑うと眼の細くなるのがもうそれだけである大きな動物を彷彿せしめた」と書いた三好達治氏とほぼ同じ印象を竹中郁氏は丸山薫氏に対して抱いたようだ。
《わたくしの『象牙海岸』よりも、丸山の『帆・ランプ・鴎』の方が用紙といい、本の造型といい、その手にとっての軽い手ざわりといい、好もしい出来ばえだったので、わたくしが店主の長谷川巳之吉が座をはずした隙に「あんたの本の方が羨しい出来ばえですなあ」と嘆じた。大抵なら、ここでお愛想の一つとして「いやあ、あなたのも捨てたものではありませんよ」というくらいの挨拶をくり出すのが世間一般なのだが、丸山はそれを言わなかった。この場のくだりを今日にまでもはっきりおぼえているのは、やはり丸山のその率直な態度にわたくしが感じ入ったからにちがいない》(同前)。
スケールの大きな。大男。ゆっくりと動いて。底なしに優しい。そんなイメージが出来あがってくる。そんな丸山薫氏が堀辰雄氏や三好達治氏らと詩誌「四季」を作っていったのだ。
私の姿は私自身にすら見えない。
ましてランプや、ランプに反射してゐる帆に見えようか?
だが私からランプと帆ははつきり見える。
凍えて遠く、私は闇を廻るばかりだ。
丸山薫「鴎の歌」(詩集『帆・ランプ・鴎』より)
上空にあって闇をまわるカモメにはランプの灯りに照らされた船が見える。しかしその他は真っ暗で自分自身すら見えない。ここでのカモメはちょうどズームアウトしていくカメラの役割を果たしている。漆黒の海の上で船はただ揺れている。
竹中郁氏は次のように書いている。
《大正から昭和にかけて北原白秋がふみわけて拓いた道、或は西条八十が歩いた道、それぞれその時代の思潮と好尚とを示してはいる。しかし、明治の軍国的な尚武教育から解き放たれた自由に呼応して作られはしたものの、白秋、八十たちの時代の作品の多くは曲にのせるという意識がつよく在って、そのための装飾や装いが子供の言語能力を超えがちな傾きをもっていた。従って、華美にもみえ、唯美的にもみえた》(昭和51年12月『丸山薫全集』角川書店・Ⅲ「人と作品」より)。
白秋・八十の両者は国民的な童謡や歌謡曲の作詞者としてもその名が知られており。その後の詩人のあり方に職業的な役割を与えたパイオニアである。その延長に位置づけられた詩人たちは彼ら先行機に対してどのような態度を取ったか。それによって日本の詩壇は大きく二分されるといってもよい。実際。西條八十氏は詩人としてよりも「蘇州夜曲」や「青い山脈」などの作詞者として。まず認知されるのが普通で。服部良一氏や古賀政男氏と組んで数々の名曲を生み出している。しかし彼はやっぱり『砂金』や『一握の玻璃』の詩人なのだ。その詩人としての西條八十氏や北原白秋氏らとその後の竹中郁氏たち「四季派」の詩人たちにどのような差異があるのか。竹中郁氏は続けて書く。
《同じく「戦後」という言葉でくくられる時期ではあるが、前の第一次大戦というものにはわが日本は名のみの参戦で泡銭をもうけただけ、三十年後の第二次大戦ではみじめな敗けを喫してアメリカに占領された辛苦を骨の髄まで味わった。この現実のちがいが芸術家の上にも作用せずにはおかなかったのだろう》(同前)。
確かに大正期の詩人と昭和の詩人のちがいは端的にこのような時代とその空気のちがいによって区別されるだろう。そしてその狭間に「四季派」の詩人たちは存在した。丸山薫氏はその代表格であると言ってよい。
《それに日本の現代詩のスタイルも三十年の間には著しく変貌していた。曲にのせるというような顧慮は全くしなくなっていたし、技巧よりも感動の充実をという傾向を多分に重んじるようになっていた。しかも丸山が短い年月とはいえ、小学校という場所で、山村という小規模な環境で、朝夕じかに子供に接し得たという条件は白秋や八十たちとは大いに異るところであった》(同前)。
こう続けて丸山薫氏が子どもたちに注ぐ視線は北原白秋氏や西條八十氏の童謡に描かれた子ども像とはおのずから異なることを竹中郁氏はじぶんの立場も含めて強調しているのだ。詩を引用する。
「春」といふ題で
私は子供達に自由画を描かせる
子供達はてんでに絵具を溶くが
塗る色がなくて 途方に暮れる
ただ まつ白な山の幾重りと
ただ まつ白な野の起伏と
うつすらした墨色の陰翳の所々に
突刺したやうな
疎林の枝先だけだ
私はその一枚の空を
淡いコバルトに彩つてやる
そして 誤って
まだ濡れてゐる枝間に
ぽとり! と黄色を滲ませる
私はすぐに後悔するが
子供達は却つてよろこぶのだ
「あゝ まんさくの花が咲いた」と
子供達はよろこぶのだ
丸山薫「白い自由画」(詩集「北国」から)
話は飛んでしまうが。詩誌「四季」は第5次まであってその最初の第1次「四季」創刊号が堀辰雄氏の編集で1933年の5月に出されている。この年は3月に三陸沖で大地震が発生し。大津波が東北地方を襲い甚大な被害があった年である。
11.
詩を引用する。
安いめし屋であるとおもひながら腰を下ろしてゐると、側にゐた青年がこちらを振り向いたのである。青年は僕に酒をすゝめながら言ふのである
アナキストですか
さあ! と言ふと
コムミユニストですか
さあ! と言ふと
ナンですか
なんですか! と言ふと
あつちへ向き直る
この青年もまた人間なのか! まるで僕までが、なにかでなくてはならにものであるかのやうに、なんですかと僕に言つたつて、既に生れてしまふた僕なんだから
僕なんです
うそだとおもつたら
みるがよい
僕なんだからめしをくれ
僕なんだからいのちをくれ
僕なんだからくれくれいふやうにうごいてゐるんだが見えないのか!
うごいてゐるんだから
めしを食ふそのときだけのことなんだといふやうに生きてゐるんだが見えないのか!
生きてゐるんだから
反省するとめしが咽喉につかへるんだといふやうに地球を前にしてゐるこの僕なんだが見えないのか!
それでもうそだと言ふのが人間なら
青年よ
かんがへてもみるがよい
僕なんだからと言つたつて、僕を見せるそのために死んでみせる暇などないんだから
僕だと言つても
うそだと言ふなら
神だとおもつて
かんべんするがよい
僕が人類を食ふ間
ほんの地球のあるその一寸の間
山之口貘「数学」
巨大な詩である。そして誰も真似できない。言葉がべったり地面にへばりついて。剥がそうとしても剥がれない強度な粘着力のある詩だ。無理にでも剥がそうとすれば血が飛び散る。心血注ぐとはこういうことをいうのだろう。理性でもない。感情でもない。命でつくる詩というものがこの世には存在する事を私はこの詩人から学んだ。私たちは人を見るとつい聞いてしまう。「何されているのですか?」と。すると人は答える「○○です」と……。働いていれば。どこの会社の。どんな役職かをきいて。無職ならば「失業者」とか「ニート」とか「プータロウ」とかのレッテルを貼る。その○○に何を入れても〈僕〉は出てこない。実存のもんだいである。詩人はそこで根源的な答えをぶつけてくる。「僕なんだから僕なんです!」と。
人を肩書きや立場にあてはめて認識できたと思い込んでいる人間にはそんな〈僕〉のことなんか絶対に見えやしない。生きているんだから腹も減る。それじゃいけないのか! という表明に託して〈僕〉を見せても納得できないなら。死んでみせる必要もあるのだろうが。生きようとする方向に動いている以上。そんな暇はないのである。実存は本質に先立つ! そして。腹がへっては戦はできぬ。のだ。詩人の一人娘・山之口泉さんの証言。
《 父は私にこんな話をした。
「パパは毎日、喫茶店の隅に坐っている。するといろんな人がやってくる。用事があってやってくる人も、ただふらっとはいってくる人もある。毎日毎日そういう人たちを見ていると、パパにはその人たちの骨まで見えてくる。その骨がまた、たぬきの骨に似ていたり、カラスの骨に似ていたり、猿の骨に似ていたりするんだ。人間らしいちゃんとした骨を持っている人は、お前が考えているよりずっと少ないものなんだよ。」
「パパは、どうなの。」と、私はきいた。
「パパか。お前、見えないか、情けない奴だなあ。パパなんか骨の髄まで人間だらけじゃないか。」
と、父はふざけてみせ、次にはとても真面目な顔になって言った。
「パパはね、借金をしたり人のお古をもらったりして暮らしているけれど、人間以外のものにはなりたくないといつも思って生きているんだよ。」 》(『父・山之口貘』思潮社1985。23頁~24頁より)。
「人間以外のものにはなりたくない」という意志を貫くこと。これがどんなに難しく驚異的なことか。私たちはどこまで実感して生きているであろうか。畜生でもなく。神仏でもなく。貧乏でも富豪でもなく。アメリカ人でも日本人でもなく。詩人はまっすぐ「人間」をみつめている。「人間」をみつめ。「人間」をつかみ。「人間」であり続けようとする者にしてはじめて。山之口貘氏の詩は胸の奥にすとんと落ちるのだ。落ちたら最後。その詩はどこにもいかない。
12.
詩を引用する。
10
彼の肉体は何を影さしてゐるのか
長い間
巣を投げうつてゐる彼だ
睡るまどろみの中に見る夢
夢を見る 夢を見る
風にあふられてゐた巣の中の彼等─
彼女は
彼女の生きるためにどことも知らない巣の中に
見知らぬ男の唇を受けて生きてゐるのではあるまいか
子供は見知らぬ伴れ合ひの餌食となつたのではあるまいか
それとも
巣に飢ゑた男共に覆されて 三個の死体がまちまちに
岩を染めて ねばりついてゐるのではあるまいか
それ共
痩せて痩せて生き伸びてゐるかしら
子供達が病気になやんでゐる側にも
彼女の身体のあくのを 赤くうるんだ瞳を輝かせている男が 肉体をふるはせて待つてゐるのではあるまいか
それ共
彼女の敢然と何も彼も突つきつて 踏みしだいて
やくざな男をぎりぎりにして
ぐんぐん どしどし 自分のやつてゐた時よりも生命に満ち輝いて
細い筋肉の中に鉄のやうな意志がはち切れて
前へ! 前へ!
11
俺は知つてゐる
俺は一人になつてから見た
男と女を
月が美しい彼等の肉体のひだに淡い影を投げてゐたのを
蛇のやうにまきつかつて
若い自由な血がほとばしつてゐたのを
壮烈な自由の愛撫を
彼女達の爪は男の爪
翼も心臓も男達に劣らない
聡明で敏捷で勇敢な彼女達
そして夢を持ち力を持ち熱を持ち柔いふくらんだ胸を持ち
大きな力!
独立した個
彼女達 彼女達
彼女達もやはり彼女のやうな道を辿つて来たのだもの
俺は知つてゐる
俺は信ずる
萩原恭次郎「鷲の歌」
萩原恭次郎氏は大正から昭和の激動の時代を生きたアヴァンギャルドの詩人。彼は何を視ていたのだろう? 労働者の現実。農村の悲惨。身売りの女達。生活のため。生きるために手段化された人々……。無政府主義に傾倒し。激しい革命意識に目覚めた青年の情熱は形式を破壊する目的で実験的な詩作を重ねた。上の詩は17章からなる長編の一部を抜粋したものだ。私はこれを読んで想起した。シェリー氏の詩を。またはホイットマン氏を。あるいはユゴー氏を。トルストイ氏を!
社会に目を向ける詩人はあまり好まれない。特に日本の文化風土ではその傾向は強いのではあるまいか。叙情はあくまで個人の内面に向けられていなければならない。そこは「好き嫌い」が支配する美の世界だ。「善悪」が闘争する道徳の世界は詩人の踏み込む領域ではないと文学者たちは自己限定してきたように見える。
しかし。ほんとうのところ。詩人も人間なのだ。そこには利も害も。美も醜も。悪も善も。渾然一体となって内包されている。状況が人間を目覚めさせる。社会の矛盾に目を塞いでいることができなくなったら詩人は社会に痛烈な批判の矢を放たねばならない。白楽天氏がそうであった。ダンテ氏がそうであった。バイロン氏もミルトン氏もその系譜に連なっている。人間に目覚めた詩人が遠慮するというのはおかしな話である。堂々と社会に打って出るべきだ。言葉という武器をフル活用して。
大正12年。稀代のアナキスト・大杉栄氏が虐殺される。その年24歳の萩原恭次郎氏はアナキストの仲間たちと雑誌『赤と黒』を創刊する。労働運動。社会主義。アナキズムなどに荷担すれば命が狙われる時代に。青年は大胆にも「詩とは爆弾である!」と宣言したのだ。血気盛んな20代の詩人は。結婚し家庭をもち詩集を刊行し貧乏ながら安定した30代になって一個のヒューマニストに成長していった。そんな萩原恭次郎氏が未刊のまま遺していった詩篇の数々。その中に「鷲の歌」はある。もしも彼が39歳で病死せず。もっと長く生きていたなら。単なる叙情に納まらぬ壮大な叙事詩の方向へ突き進んだかもしれない。それにしても。彼の目は女性たちの生命力を仰ぎ見る。単なる憐憫から女の不遇を見下ろすのではない。この視点はまことに貴重である。
(引用は世界の詩68『萩原恭次郎詩集』1973。彌生書房より)。
13.
詩を引用する。
ひよいと後を向いたあの馬は
かつてまだ誰も見た事のないものを見た
次いで彼はユウカリの木陰で
また牧草を食ひ続けた。
馬がその時見たものは
人間でも樹木でもなかつた
それはまた牝馬でもなかつた、
と言つてまた、木の葉を動かしてゐた
風の形見でもなかつた。
それは彼より二万世紀も以前
丁度この時刻に、他の或る馬が
急に後を向いた時
見たそのものだつた。
それは、地球が、腕もとれ、脚もとれ、
頭もとれてしまつた
彫刻の遺骸となり果てる時まで経つても
人間も、馬も、魚も、鳥も、虫も、誰も、
二度とふたたび
見ることの出来ないものだつた。
シュペルヴィエル「動作」(訳・堀口大學)
いったいぜんたいそいつはなんだ? 馬はなにを見たと言うのか? と思うかもしれない。しかし。この詩に触れた人はそういう詮索が無用であることをすぐに理解する。馬は確かに振り向いたのである。草食動物の視界は広い。振り向かなくても背後に何が近づいているかは分かっている。耳をそばだてて敵の足音を聞き漏らすまいとしている。口の中で草をすり潰しながら警戒心だけは途切らさずにいる。そんな馬が後を向いて何事もなかったかのように再び草を食う。この一連の「動作」の中に詩人は二万世紀前の過去と地球滅亡の未来を閉じ込める。
こんな手法があったのか! 思わず感嘆せずにはいられない。内容だけで言えば「馬がうしろを見た」というだけのこと。それをここまでスケールの大きな話に膨らませ。しかもそれが全く大袈裟に聞こえないのだ。いや。むしろ「そうなんじゃないか」と思わされるから不思議だ。
二万世紀とは200万年である。アウストラロピテクスの時代にやっぱり馬がいて。それを見た。つまり地球上でそれは二回しか目撃されていない。しかも馬が草を食べている時に。振り向いて……。
無理に答えを出そうとして。それは「神」だと言っても仕方がない。かっこうつけて。それは「永遠」だと言っても締まりが悪い。何を見たのかが重要なのではない。その動作はそれを見るための動作であり。そうとしか言いようのない動作だということである。ここには一篇の幻想小説が凝縮されている。一つの「動作」の中に多次元を想像する詩人の感受性に脱帽!
14.
詩を引用する。
火星が出てゐる。
要するにどうすればいいか、といふ問は、
折角たどつた思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まつた暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まつかな星を見るがいい。
火星が出てゐる。
木枯が皀角子(さいかち)の実をからから鳴らす。
犬がさかつて狂奔する。
落葉をふんで
藪を出れば
崖。
火星が出てゐる。
おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、
人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさへ滅した
必然の瀰漫よ。
火星が出てゐる。
天がうしろに廻転する。
無数の遠い世界が登つて来る。
おれはもう昔の詩人のやうに、
天使のまたたきをその中に見ない。
おれはただ聞く、
深いエエテルの波のやうなものを。
さうしてただ、
世界が止め度なく美しい。
見知らぬものだらけな無気味な美が
ひしひしとおれに迫る。
火星が出てゐる。
高村光太郎「火星が出てゐる」
月が出ている。というなら分かる。星が出ている。というならそれも分かる。よりによって「火星が出てゐる」ときたもんだ。確かに肉眼で見える惑星の一つである。しかし金星(明星)ほどには目立たない。星座のひとつでもないのだから意識的に見ないでしょ。でも時どき明け方に三日月の横っちょあたりに赤い点があるとわおーと唸りたくなるほどそいつは絵になる光景だ。私はそれに出くわすと。ああ誰か一緒に観ませんか。と声をかけたい衝動にかられる。
高村光太郎氏もよっぽど見せたかったのだろう。5回もリフレインするのだから。さて。この詩が私を惹き付けるのは火星ばかりではない。この哲学的な思索に思い当たることがいくつかあるからだ。たとえば。パスカル氏。
《自分が、自然の与えてくれた塊のなかに支えられて無限と虚無とのこの二つの深淵の中間にあるのを眺め、その不可思議を前にして恐れおののくであろう。そして彼の好奇心は今や驚嘆に変わり、これらのものを僭越な心でもって探究するよりは、沈黙のうちにそれを打ち眺める気持になるだろうと信ずる》(『パンセ』断章72より)。
「人間が無に等しい故に大である事を」。これなどはパスカル氏から来ているとしかぼくには思えない。高村光太郎氏は23歳の時にアメリカへ渡り。ロンドンそしてパリに。あわせて三年ほどのあいだ留学している。そして「私はパリで大人になつた」と自分で言っているくらいだからフランスの文物にはかなり影響を受けている筈だ。『パンセ』をフランス語で読んでいるかもしれない。またロンダン氏との関連で高村光太郎氏と「パンセ」をつないでも面白いのではないだろうか。「折角たどつた思索の道」。ということばも未完に終わったパスカル氏の思索を暗示しているように思えてくる。
そう言っておきながらパスカル氏から離れよう。高村光太郎氏は。火星を見よ! と勧めている。答えを欲しがるゆえに沈思に耐えない若者に向かって。おいおい。あわてるな。心の眼をひらいて見ろよ。と勧めてくれる。これはまことに重要な示唆ではないか! この詩から得られる収穫は時間に追われる現代人にとってまことに大ではあるまいか。囚われから解き放たれた心には素直に世界は美しい。そしてその世界にはまだ名前がない筈だ。だから。火星がでてゐる。とただそれだけをゆびさすのだ。
15.
詩を引用する。
レンズの青さが
湖をふちどる。
青ぞらのなかの
青い冨士。
希臘(ギリシャ)の神々のならぶ
冨士。
その清澄のなかに
僕ら三人はくらす。
つみあげた本の高さが
ボコをみおろす。
こゝろの奈落をのぞいては
父は、むなしい詩をつくる。
チヤコはひとりで、
ペネロペの糸をつむぐ。
だが、三人のこゝろは、
青さに煙る。
神々をかるがるとさせる
その透明な光の。
僕ら三人は肉体を
明るい精神に着換へる。
光で織つた糸の
玉虫いろの衣。
僕ら三人は、この世紀の
惨酷な喜劇を傍観する。
僕らはもう新聞もいらない。
それは、遠くを霞ませる
青一いろ。─おゝ、国よ。
この三人を放してくれ。
国籍から。
法律の保護から
国土から。
僕ら三人を逐つてくれ。
あの青のなかに
永遠にとけてゆくため。
もしくは三輪の小さな
をだ巻の花となるため。
金子光晴「青の唄」
日本がアメリカと戦っていた1945年。三人の親子が山梨県の湖のほとりでひっそりと疎開生活をしていた。父親は50歳。母親は44歳。息子は20歳になろうとしていた。父は息子をボコと呼び妻をチヤコと呼んでいた。若者はみな戦争にとられていった時代である。当然。召集令状は届いていた。しかし父親はどんなことがあっても息子を手放したくなかった。三人はいつまでもひとつになっていなくてはならなかった。このどうしようもない家族への執着心。それは空襲が激しくなればなるほど。ますます燃え盛っていく愛であった。
戦時下。こういう心で襲い掛かってくる時代に抵抗したひとつの家族が実在したことを私たちは想像したことがあったであろうか。建前と本心を分け隔て。不本意ながら離れ離れになっていった親子。夫婦。兄弟姉妹ばかりだったのではないかと。どこかで思ってはいなかったか。父親は断固離さなかった。それがたとえ国賊の汚名となる行為であったとしても。彼は自らの信念を選び。それを実行したのである。
手書きで書かれた詩集「三人」はこうしてのこされた。作者は。金子光晴氏。そしてその妻の森三千代氏と息子の森乾氏である。この詩集には親が子を思う気持ち。子が父母をやさしく見つめる眼差し。夫婦間の麗しい気遣いなどが遺書のように丹念にそして丁寧に紡がれている。そして三人は世紀の惨酷な喜劇のなかで炬燵を囲んで見つめ合い。青空のなかの冨士を見上げて互いの存在を確かめ合っているのだ。
(引用は金子光晴・森三千代・森乾『詩集「三人」』講談社。2008年より)。
16.
私はこれらの作品に感電したのである。霊魂が働いているとしか思えないのである。2010年1月6日にこれを記している。アメリカとイランが衝突し戦争が始まってしまうかもしれない世界の情勢を前にしている。1991年の湾岸戦争の時の記憶が蘇る。いかんぞ。戦争は。戦争だけは。いかんぞ。何ができる。今の私に。
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